天使のかたわれ 第21話

 ソルヴェイは日本人とドイツ人のハーフで、ずっと日本で住んでいたが昨年母親が亡くなったので、父親のいるドイツへ引き取られたのだという。

 シュレーゲルの館の隣に、ソルヴェイの住んでいる館がある。境が森しかないため、出入り自由な状態になっていた。たまたま雅明がいたので、声をかけてくれたらしい。

「なんで日本人ってわかったの?」

「だって、日本語でぶつぶつ言ってるじゃない。アウグストなんて名前じゃない、雅明だって……」

 すらすらと話しかけられる日本語に、雅明はうれしくなった。

「そうなんだよ。僕は本当は石川雅明っていうんだ」

「いい名前ね。そっちの方があってるわ」

 ますますうれしくなり、雅明はソルヴェイに抱きつきたくなった。もちろんそんなことはしなかったが。

「……それ、この薔薇?」

 土の上に木の枝で描いた薔薇の絵を見て、ソルヴェイが聞いてきた。

「そうだよ」

「すっごく上手ね。絵描きさんみたい!」

 ソルヴェイは頬を薔薇に負けないくらい可憐な色に染めて、興奮したように見入った。そんなふうに褒めてもらえるのは、亡くなった父の雅文以来だった。

「私、絵を描こうと思って……、何を描こうか探していたのよ。これ、貸してあげるから描いてみて」

 ソルヴェイが、スケッチブックと鉛筆を差し出した。

「ええ? なんか悪いよ」

「ううん。私下手だから……。貴方が描いた方がいいと思う」

 熱心に勧められて、雅明は照れくさく思いながらスケッチブックと鉛筆を受け取った。

 ソルヴェイと絵を描きながら、雅明は今まで黙っていた分を取り返すかのように、ひっきりなしにしゃべり、気づいたら夕方になっていた。

 遠くで、エリザベートが自分を呼ぶ声が聞こえる。

 雅明はもっとソルヴェイと一緒にいたいと思いつつも、帰らなければならないとわかっていたので立ち上がった。

「明日も会える?」

「もちろん。私も会いたい」

 二人は握手した。

 雅明のドイツ生活が、幸せ一色に一変した。

 翌日シュレーゲルの館にやってきたソルヴェイは、ドイツ語を覚えなければと言った。

「ドイツ語なら私が教えてあげる。私も昨年来たばかりの時、苦労したのよ」

「僕、頭よくないもん」

「よくないなんて誰が決めたのよ? やってみてから考えたら?」

 雅明の部屋の机には、ソルヴェイが持ってきたドイツ語の小学生用の教科書がある。それでソルヴェイは勉強したのだという。

「……でも、貴明みたいにできない」

「貴明ってだれ?」

「双子の弟。とても頭がいいんだ。将来大きな会社の社長になる……。僕はあんなふうになれないよ」

 俯いていた雅明は、ソルヴェイにぎゅっと抱きしめられ、女の子特有の甘い匂いにドキドキした。

「大丈夫、私でも覚えられたんだもの! アウグストなら絶対にできるわ」

 他の者に呼ばれると嫌な呼び名なのに、ソルヴェイが呼ばれるとなんだかこそばゆく思われ、アウグストという名前もいいかなと雅明は思った。

「本当にそう思う?」

「うん」

 日本人の母とのハーフの子供のソルヴェイは、どこから見ても日本人そのもので、雅明が欲しがっていた、あの懐かしい風を伴っていた。

 雅明はドイツ語の教科書を開いた。隣にソルヴェイが座って、発音して教えてくれる。雅明は書き取りながら発音した。とても上手だとソルヴェイはほめてくれる。

 いつ帰国できるかわからない不安を、ソルヴェイの存在が吹き払っていく。

 ソルヴェイはとても頭がよいようで、教え方も上手だった。あっという間に雅明はドイツ語を習得していった。

 そして合間に雅明はソルヴェイの絵を描いた。ソルヴェイは恥ずかしがったが、雅明はどうしても描きたかった。他愛のないおしゃべりをしながら、絵筆を動かすのはとても楽しい。

「ソルヴェイといると楽しいよ」

「私もよ」

 二人はいつも一緒だった。

 気に入らないのは、雅明にあこがれているエリザベートだ。毎日のように二人がいる部屋に押し入ってきて、邪魔をする。

「ちょっと私も混ぜてよ! 仲間はずれにしないで」

「うっさい、あっちいけブース!」

 雅明は、わがままなエリザベートが大嫌いだった。ドイツ語が話せなかった当初、エリザベートにさんざんからかわれたのを根に持っている。エリザベートは好きな人間をいじめてしまう、困った性格だった。つい正反対の事を言ってしまう。

「ふん! 東洋人同士仲良くしたら? どうせドイツではやってけないんだから。学校へ来ていじめられても、かばってあげないからね」

 雅明はドイツ語の本のページをめくって、使いこなせるようになったドイツ語で言い返した。

「僕はけんかは負けた事ないんだよ。残念でした。それに絶対に将来日本に帰るからいーんだよ! さっさと部屋出てけ、このブス!」

「なによっ! アウグストの馬鹿」

 エリザベートが、雅明の本を取り上げて床にはたきおとした。

「……やったなー。この性悪女!」

「駄目よ二人とも!」

 ソルヴェイがあわてて止める声も聞かず、二人はなぐりあいのけんかを始めた。まだ二人とも身体が小さいのでほぼ対等のなぐりあいだが、二人のけんかは凄まじく、かすり傷やら打撲の青あざができるのが常だった。

 二人は、ソルヴェイが連れてきたアルブレヒトに引き離された。

「じじい! あっちいけ!」

「悪い言葉ばかり、覚えるのが早いなアウグスト。男は強いのだから、女には絶対に手を出してはならんのだ」

「こんなやつ女じゃない」

「ほう、お前の目はよほど特殊なレンズがついているようだな? 医者にいくか」

 雅明は医者が大嫌いだったので、即座に黙り込んだ。

 アルブレヒトのおかげでけんかが終わり、四人でお茶の時間を過ごした。

「アウグスト。お前は絵の才能があるようだぞ? あの有名な画家のシラー氏が、この間出品したおまえの絵を、なんて可愛い女の子だ、とても上手に描けているといたく気に入っておった」

「え? あのソルヴェイを描いたやつ? 父さんをまねて描いただけなんだけど……」

「すごい才能だとほめてたおったぞ」

 雅明はそれを聞いて目を丸くした。 

「そんなに上手だったかなあ……」

「私の絵なのが恥ずかしいな」

 ソルヴェイが顔を赤くしてうつむいた。エリザベートは、私の方が可愛いのになんでとぼやく。確かにソルヴェイは美少女ではなかったが、可憐でとても愛らしい少女だった。

 うれしさのあまりにぼうっとしている雅明に、アルブレヒトは子供のようにいたずらっぽく目をきらっとさせた。この老人がこういう目をする時は、大抵いい事を言う時だ。

「それでな、これから週に1回シラー氏に屋敷に来てもらって、お前が絵の勉強ができるように手配した」

 アルブレヒトは雅明の返答をとっくに分かっているので、にやにやとしている。雅明は、アルブレヒト以上に目をきらきらさせた。

「本当?」

「本当だとも」

「ありがとうじじい!」

「じじいではない! おじいさまと呼ばんか馬鹿者!」

 げんこつしようとしたアルブレヒトの拳をよけて、雅明はソルヴェイの手を握った。

「じじいだもーん。ソルヴェイ、庭に行こう!」

「うん」

 騒々しく部屋を出て行った二人に取り残された、アルブレヒトとエリザベートは、お互いため息をこぼした。

 エリザベートが不安そうに言った。

「ねえおじいさま、私はそんなに醜いのかしら?」

「アウグストの言葉を本気でとるな。あの年頃の男の子は、わざと反対の言葉を言うものだ。お前ほど美しい女の子はいないぞ?」

「じゃあ本当は、アウグストはソルヴェイが嫌いなの?」

「……それは」

 困ったなとアウグストは口ひげを撫でた。

「せっかく話すようになったのに、喧嘩ばっかりなのよね」

 エリザベートは悲しそうにクッキーを齧る。

 ソルヴェイが来てから雅明はよく笑うようになったし、今日のように言い返しもするようになった。アルブレヒトともエリザベートとも館の人間とも、上手くやっている。とても喜ばしいことだ。

 心配なのは、雅明が日本からのナタリーの電話に絶対に出ず、手紙の返事も書かない事だ。アメリカに居る貴明の手紙すら、返事をしない。だからいつもアルブレヒトが、ナタリーと貴明に返事を出していた。

(本当の家族に、アウグストは心を閉ざしている)

アルブレヒトの不安をよそに、雅明は笑顔でソルヴェイと中庭を走り回っていた。

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