天使のかたわれ 第28話

「居たぞ! あそこだっ」

 拠点にしていたあばら家で情報機器の後片付けをしていた雅明と、組織のメンバー数人は、その声を聞くなりさっと各々の荷物を担いで屋根に上がる。

 闇夜だ。田舎町の真夜中なので明かりは少ない。

 押し入って来たのは、今敵対しているイタリアのマフィアだ。こちらの組織の縄張りに麻薬ルートを作ろうと画策しているらしく、それを阻止するために雅明たちは暗躍している。

 昨日、彼らの闇取引のサイトに侵入して、大きな取引を潰したばかりだった。

 屋根に上ったと見せかけて、雅明たちは暗闇の中ですぐ隣の家の屋根裏部屋から階下、地下へと走る。からくりをしらない敵のイタリア語が屋根の上から聞こえ、うまくまけた雅明たちは地下道を走り、街中から郊外へ抜けて地上に出て、草むらに用意していた車で逃走した。敵は追ってこない。

「アウグストの作ってくれたルートで助かってるよ。さすがはシュレーゲルだな」

 仲間の一人がハンドルをさばきながら言い、もう一人もさっそく祝杯を挙げながら頷く。雅明は煙草に火をつけた。

「許可が出るとは思ってなかったけどね。ま、役に立ててうれしいよ」

 今日使った地下道は、昔シュレーゲル一族がこの地域の有力者と協力して造ったもので、雅明がアルブレヒトに使用許可を取り付けた。アルブレヒトは雅明が黒の組織へ入ったと知っても、何も言わなかった。情報を遣り合う間柄だったからなのか、もうシュレーゲル一族とは認められることがないからなのか、わからない。

「逃げ足が上手になったよな。最初は川に落ちて、おぼれてたお前が……」

 げらげらと笑われ、雅明は組織に入った当初の失敗を思い出して苦笑した。

 もう数ヶ月が経過していた。

 組織に無理やり引き入れられた当初、雅明は、いわゆるお貴族様出身の自分を、他のメンバーが受け入れるかどうかと案じたが、組織には似たような階級の人間から、普通の家庭を持つ者、場末の酒屋にいるようなジゴロのような者まで居て、特にそれによる諍いはまったくなかった。

 雅明が回されたのは、鉄砲玉のような荒仕事ではなく、あらゆる機関に侵入する情報操作だった。大半がパソコンなどの情報機器を使ってのハッカーで、どういうわけか雅明はこれが天才的に上手く出来、教えた組織の人間が舌を巻くほどの腕にすぐ成り上がった。

 組織での仕事は頻繁には無かったので、運送の仕事に差し障りはなく、誰も雅明が闇の組織に引き入れられたとは気づいていない。もともと雅明自身がプライベートをおおやけにせず、休みの日は絵を描くためにアパートに引っ込んでいたため、それがごっそりと闇の組織の仕事に入れ替わっても、気づかれるわけが無かった。

 アンネとトビアスはソルヴェイに会わせてくれなかったが、無事な証拠と思われる写真や情報を時折見せてくれた。

 闇の組織に入って初めて、雅明は自分の立場の危うさを思い知らされた。裏社会で幅を利かせているヨヒアムの家族を弄んだ男として、今も睨まれ、常に監視対象にされている自分自身に。ひょっとすると、トビアスが己の組織に引き入れてくれていなかったら、表に戻ったと知られた途端に、闇に再び引きずり込まれ、今度こそ殺されていたかもしれなかった。

 もう雅明にもわかっている。自分が近づけば、ソルヴェイと子供の身が危うくなる可能性に。二人を解放したければ、雅明が二人を救えるだけの力を持たなければならないのだと。

 トビアスの館へ仲間とともに帰り、トビアスに報告する。トビアスは報酬をそれぞれに支払ってくれ、仲間たちはそれぞれのねぐらに、雅明は館に割り当てられた部屋へ帰った。

 何日間も身体を洗っていなかったので、シャワーを浴びると生き返る心地がする。あちこち擦りまくってすっきりすると、雅明はバスルームを出た。

「おかえりなさい、アウグスト」

 早速帰還をかぎつけたアンネが、訳知り顔で雅明にタオルを手渡す。雅明は黙って受け取り、身体を拭き、バスローブを身体に巻きつけ、ソファのテーブルに置いてある暗号文に目を通した。

 アンネは勝手に雅明のベッドに寝転がり、本を広げる。しかし読んではおらず、ちらちらと雅明を見ている。見世物のようにじろじろと見られると、疲れもあって雅明はいらいらした。

「お前、自分の夫をほったらかしでいいのか?」

「構いやしないわ」

「お前な……」 

 組織に入ってからの雅明の悩みは、このアンネの深情け? だった。何しろ時間ができればトビアスの館の雅明の部屋にやってきて、じっと自分を見つめている。そして抱いてくれとせがんでくる。仲間はうらやましがっているが、雅明には面倒くさい上に、トビアスにからかい気味のいやみを言われる為、迷惑なだけだった。

「言ったでしょ。貴方を確実に囲えるから結婚しただけだって」

「……前から聞こうと思ってたんだが、何で私を囲ったんだ?」

 雅明の反応に、本当にわかってないのねと、アンネはため息をついた。

「わからないって何が?」

「そういう男よね。冷たい上に鈍感だわ」

「?」

 首をかしげる雅明に、アンネはふてくされたように目を伏せたかと思うと、きっと顔を上げ、言った。

「愛してるからよ」

「は?」

 いきなりの告白に驚き、雅明は持っていた暗号文の紙切れを床に落とした。

 みるみる顔を赤くしたアンネを見つめ、苦笑する。

「お前、頭がいかれてるな」

「この数年間の想いをためた、決死の告白に対する答えがそれなのね。貴方、本当に愛が何なのかわからないのよね。お気の毒だわ」

 雅明はむっとした。

「お前だって、愛だけじゃ腹がいっぱいにならないとか言ってたろ」

「言わなきゃ貴方は家を出るだろうから、黙ってただけ。あーあ、やっぱり貴方ってそうなのよね。ソルヴェイさんとやらも不安で仕方なかったでしょうよ」

「なんだそれは」

 ソルヴェイの名前まで出されて雅明が腹を立てると、アンネは寝転がって読んでいた本を閉じ、サイドテーブルに置いた。

「そうね。彼女は、妻の座を得ても不安で仕方が無かったと思うわ。父親の脅威を取り除いてもね」

 言っている意味がさっぱりわからない。

 アンネはベッドを降り、雅明の隣に座った。

「貴方、無意識に人を惹きつけるの。男も女も」

「……トビアスは真逆の言葉を言っていたがな」

「貴方の存在を目にした瞬間、人は貴方に魅せられるの。知ってるのよ私……、貴方、トビアスに抱かれてるでしょう? 他の男を抱いたりしているでしょう?」

 雅明は暗号文を拾い上げて、テーブルの上のノートに挟んだ。返事は明日でいいだろう。

 アンネが甘えるように擦り寄ってくる。また徹夜で相手をさせるつもりなのかと、雅明はため息が出そうになるのを堪えた。明日は朝から運送会社の仕事がある。ゆっくり休みたかった。

「男なんてまっぴらごめんだって、貴方言ってたくせに」

「仕方ないだろ、嫌でも、私みたいな人間はそれが武器になるんだから」

 雅明は男同士のセックスなど最初は嫌だったが、必要だと言われて敢えて受けるようになった。思ったより悪くなく、時折組織の仕事の合間に仲間と寝たりしている。相手を知るには、寝るのが一番手っ取り早いのだ。

「そうね。貴方はますます美しくなった。……シュレーゲルの人間は、誰も彼も美しいわ。神に愛されてるからだってトビアスが言ってた」

「お前も美しいと言われてる」

「愛してもらえなければ、意味の無い美しさよ」

 頬に口付けられて、雅明はやれやれと思う。

「トビアスは、これ以上は無いほどお前を愛しているようだが」

「そうね。私の一番欲しいものをくれたもの。だから結婚したのよ」

 それが自分だというから恐れ入る。

 雅明にはソルヴェイしかいない。アンネはそれをよく知っているので、告白しても自分の想いを押し付けたりはしてこなかった。

「抱いてよ。愛してくれなくていいから」

 アンネの極められた指の動きが、雅明の男を刺激するように背中を撫でていくのに、雅明の顔に変化は無い。同棲時代、この男は感じるふりをしていたのだ。職業柄、それに気づかなかった自分に、アンネは腹が立って仕方ない。

 せっかく再び囲ったのに、十回に一度程度しか応じてくれないのが、アンネの不満だった。これでは何の為に囲ったのかわからない。

「愛の無いセックスなど、男がやるもんだ」

「男だもの」

「だからお前は、すぐに上に乗りたがるのか……」

 子供のように口を尖らせるアンネに呆れながらも、雅明は彼女を横抱きにし立ち上がった。飲んだくれの自分の面倒を一年も見てくれた女だ。トビアスからもこれには頭を下げられている。彼は余程アンネに入れあげているらしい。二人の間に挟まっている自分が、邪魔にならないのかと不思議に思うが、彼らの価値観ではなくてはならない存在らしかった。

「明日は仕事だから、すぐ終わらせて寝るぞ」

「構わないわ」

 ベッドにアンネを降ろして口付けながら、雅明は自分がわからなくなる。

 男を相手にしても、女と愛の無いセックスをしても、心が痛まない。ソルヴェイを失ったあの日から、自分の貞操観念は崩壊してしまったようだ。

 愛する心は死んでしまったのだろうか。

 いや違う。

 愛を渇望する想いは、常に心の奥底にたゆっている。誰もそこまで光を投げかけてこないから、深く眠っているだけなのだ。

 ソルヴェイだけが投げかけられた光は、もうとうに失われた。アンネはその光を持たない。トビアスも。愛している肉親でさえも……。

 雅明は心の奥底に眠る不死鳥を抱えて、満たされぬ愛を探し求めていた。

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