天使のかたわれ 第29話
夏の暑い日だった。
雅明は自分のぼろアパートで、絵を描いていた。
この数年で闇の組織の重要な仕事をまかされるようになり、今ではアパートで絵を描きながら指示を出すだけで、自分自身はあちこち飛び回らなくなっていた。
まったく売れなかった絵が、シラーの後押しもあって売れてくるようになり、それなりに評価されるようになっていたのもある。
名前は、日本名の石川雅明を使用していた。
サロンでディルクと再び顔を合わせる様になった時の、ディルクの驚愕した顔は見ものだった。真っ青になった次に真っ赤になり、何故ここに居るのかと問い詰めてきたのである。そこで雅明が再評価されているのを知ると、さっそく潰しにかかってきた。
しかし、闇の組織で人脈を確保していた雅明は、過去にディルクとヨヒアムがやったように、批評家を抱きこんでディルクの絵を徹底的に評価させ、反対にやり返した。もっとも、正当な評価だったのだが、ディルクに致命傷を与えるには十分だった。
彼が技法を盗んだり、抱き込んだ批評家たちに他の画家へ嘘の酷評させたのは、雅明だけではなかったことが明るみに出たのだ。身から出た錆で、もともとが大した画家でなかったのも手伝い、ディルクの方が非難を浴びて美術界を追放された。
それでもディルクは最後まで雅明の批難を止めず、ついにはプライベートにまで暴露しようとしたが、それが逃れようの無い地獄への道の始まりだった。ソルヴェイの逃走劇を無き物にしたいヨヒアムが、己にとって諸刃の剣になるその醜聞を口にさせるわけが無く、ディルクはベルギーの繁華街で喧嘩していた姿を最後に、表から姿を完全に消した……。
ノックの音に、雅明は声を上げて返事をした。
昼間は鍵をかけていないので、誰でも気軽に入ってくる。このぼろアパートは建物は古いがトビアスの持ち物で、丘の上の敷地内には黒の組織のメンバーしか入って来れないようになっている。だから、雅明は昼間は鍵を閉めないのだった。夜に閉めるのは、抱いてくれと言ってくる人間をシャットアウトするためだった。
入ってきたのは黒髪のドイツ女だ。
「ボスから報告書が来てるわよ」
「マヌエラか」
マヌエラは同じ情報専門の女だ。仕事終わりのようでどことなくくたびれている。髪がぬれているのは、シャワーを浴びたからだろう。
報告書を受け取り、目を通した雅明は眉をひそめた。
「これは……」
「今朝ベルギーから届いたそうよ。愚かな人間の末路と、言うべきね」
マヌエラがくすくす笑う。
報告書には、ディルクと思われる遺体が運河から上がり、胎内から致死量の覚せい剤が検出されたとある。身体にはおびただしい暴行の跡があり、痩せ細っていたとも書かれていた。
雅明は報告書を床へ落とし、マヌエラの腕を引き掴んでベッドに押し倒した。
常に無い乱暴さに、抱いてもらうつもりだったにも拘らず、マヌエラは戸惑い気味に雅明を見上げた。
「ど、どうしたの?」
「悪いが、血が昂って仕方ない。覚悟しろ」
雅明は引きちぎるような勢いで、マヌエラの服を脱がしていく。たちまち二人は全裸になり絡み合った。
いつもやる気の無い雅明が積極的なので、マヌエラは大喜びだ。大抵は断られるのに、今回は大当たりだったのだから。
雅明は、マヌエラを這い蹲らせて獣のように後ろから攻め立てた。
「あぁ……あ! あっ!」
ぐちゃぐちゃと結合部から蜜が流れ、淫靡な音を立てる。
蕩けるような熱さと快楽が背筋を上り、二人はお互いを貪り尽くす。雅明は、イキかけた女から一旦慾を引き抜き、仰向けに転がすと、再びぬかるみへ埋め込む。向かい合わせになった雅明とマヌエラは、お互いの唇を吸いあいながら絶頂へ上りかけたところへ、突然女の叫び声が響いた。
「アウグスト! 何をしているのよっ」
入ってきたのは、数年ぶりに会うエリザベートだった。
「誰? シュレーゲルの人よね……」
マヌエラが聞く。
「従姉だよ」
彼女なら問題ないと、雅明は枕の下に忍ばせていた右手から拳銃を放し、行為を再開しようとしたが、エリザベートが乗り込んできて雅明の腕を引っ張り、二人を引き離した。
「おやめなさい! 貴方は私の婚約者なのよ」
マヌエラは雅明に促されて、仕方ないわねと雅明に軽く口付けし、服を着て部屋から出て行った。雅明はいいところを邪魔されて興ざめしたが、部屋の鍵をかけておかなかった自分が悪いのだと思い直し、ぼろぼろのジーンズを履いて、シャツを着た。
空気が生臭いとエリザベートは文句を言い、クーラーが効いているのに窓を開け放った。
むっとした熱気が部屋に入ってくる。
「お楽しみの最中を邪魔するなよ、リシー。しかしよくこのアパートに入れたな」
「シュレーゲルの名前を出したのよ」
「なるほど」
それなら連中は入れてしまうだろう。
「ところで、……婚約は破棄になったと聞いたけどね?」
雅明は木の椅子にどっかと座って腕を組み、立ったままのエリザベートを見上げた。
「私は承知していないわ。だから婚約は有効よ」
エリザベートは、相変わらず冴え冴えと美しい女だった。
「だったら今すぐ破棄する」
「お断りよ」
エリザベートが雅明にしがみ付いてきた。
彼女はベルギーで何もかも失った雅明をあざ笑おうと思っていたのだが、どうしてもできずにいた。それほどまでに、エリザベートはこの雅明を愛している。
「貴方が好きなの……ずっと昔から」
「…………」
「好きだから……破棄しない。できない。私を一人にしないで、お願い」
雅明は困惑した。同じ告白でもアンネと違ってかなり重い。アンネは男の心を軽くする方法を知っていて、こんなふうに自分の想いを押し付けたりしないから、好きだと言われても気楽でいられるのだが……。
「お前が私にこだわるのは、直系の血が欲しいからだろう?」
「違うわ!」
「だとしたら迷惑だな」
エリザベートは雅明を見、そこで初めてその冷たいまなざし気づいた。
「悪いが、私はお前を愛さない。だから結婚も考えられない」
エリザベートの腕を雅明はそっとはずした。
「お前には幸せになって欲しいと思ってる。だから早く他のやつを探してくれ」
「嫌よ!」
「お前だって、親同士が決めた結婚だって言ってたろ? それを何故今頃……」
「だから言ったでしょう! ずっと愛してたのよ。でも貴方にはソルヴェイしか見えてなかった。だから我慢してた。だけどもうソルヴェイはいないじゃない。他の男と結婚したじゃない」
「…………」
雅明がベッドの枕の下へ手を伸ばし、拳銃を取り出したのを見てエリザベートは驚いた。そんなものは、雅明には必要がないものだった。持っているのを見た事もない。
「どうして貴方がそんなもの……」
「じじいは、わざとお前に知らせていなかったようだな。私はもう真っ当な人間じゃないんだよ。ソルヴェイを救う為にはこうするしかなかったんだ」
顔を青白くさせているエリザベートに、雅明は言った。
「『黒の剣』って知っているだろう?」
「……おじいさまが時々。……っまさかあなた!」
「そう、そこに入った。ソルヴェイを助ける為にね」
「なんて事を! 伯爵家の恥だわ」
さも汚らわしそうにエリザベートは言う。彼女のような気高い女には、裏の組織などは毛虫のようなものだ。
「だから、私の事はあきらめろ」
「皆が知ったらどうするつもり?」
「お前以外は、とうに知ってると思うよ。知らないはずがない……」
雅明は拳銃を机の引き出しにしまった。
「今からでも遅くないわ。そんな組織抜けなさいよ」
「無理さ。目を付けられたら最後、逃げ出そうとしたら殺されるんだからな」
エリザベートは、ソルヴェイへ嫉妬がわき上がるのが止められなかった。何故あんな平凡な女が、親がろくな仕事をしていないあの女が、ここまで雅明の心を捕らえるのか! あの女さえいなければ、雅明は自分と結婚したに違いないのにと。
「……そのソルヴェイに会えたの?」
醜い感情を必死で押さえつけて、エリザベートは雅明に聞く。
「いや……」
「……そう」
雅明は、エリザベートを見ずに窓の外を見ている。心では一体何を見ているのか、その顔に表情は無い。
エリザベートは、一計を案じた。
「ねえ、これでもう最後にするから、最後に食事だけでも一緒にさせてちょうだい。そうしたら婚約は破棄するわ」
「……本当か?」
暗い瞳を雅明はエリザベートに向ける。彼女は静かに頷いた。
エリザベートが指定してきたレストランは、シュレーゲルの街で一番格式が高いホテルにあり、予約客しか受け付けない静かなところだった。
真珠色のドレスを着たエリザベートは、待ち合わせ場所のフロントに現れた雅明を見て、うれしそうに笑った。
「その服、着てくれるとは思ってなかったわ」
「お前が頼んだんだろう? 最後だからと」
それは、エリザベートが送ってきたブランドのスーツだった。少し明るいグレーの色が、雅明の銀色の髪によく似合っている。
窓際の個室で二人は乾杯をした。
「リシーはお酒を飲むのか?」
驚く雅明に、エリザベートはグラスをかかげて上品に笑った。
「私をいくつだと思ってるの? もう大人よ」
「そうか、もうそんな年になったんだな……」
エリザベートはふと黙り込み、夢見るような表情を浮かべた。
「……貴方が日本からやってきた時ね。王子様が来たのかと思ったわ。本当に素敵で、まぶしかった」
「王子様に対して意地悪したくせに」
おどけける雅明に、エリザベートは声もなく笑った。
「子供だったから、どうしたらいいのかわからなくて。貴方は心を閉ざしていたし、なんとか声が聞きたかったのよ」
「ふーん。でも、ドイツ語が話せないくせにとか馬鹿にしただろう?」
「言ったかもしれないわね。今謝るわ、ごめんなさいね……」
頭を下げたエリザベートに雅明は手を振って、気にしてないとグラスを口にした。
「けんかばかりしてたわよね。私たち」
「お前が凶暴すぎたからな」
「貴方はソルヴェイに夢中だったから。ソルヴェイしか見てなかったから……」
「リシー」
「私は親が決めたとはいえ、アウグストの婚約者だって知っていたから、我慢したわ。時期が来たら、アウグストは私を選んでくれると信じてた」
前菜とスープが運ばれてきた。
個室のベルベットのカーテンの隙間に、家族連れが通り過ぎていくのが見えた。エリザベートはちらりとそっちを見て、寂しそうに呟いた。
「あんなふうに、貴方と家族になりたかったわ」
「…………っ!」
エリザベートの視線の先を追った雅明の手から、スプーンがスープ皿の中へ滑り落ち、スープがテーブルの上に飛び散った。
視線の先にいるのは、彼が愛しているソルヴェイとミハエル、そしてワルターだった。
三人は楽しそうに談笑している。どこから見ても楽しそうな家族だ。
ゆっくりと雅明は、冷たく笑うエリザベートに視線を戻した。
「知っていて、ここに私を呼んだというわけか」
「私の趣向は気に入っていただけたかしら?」
雅明は、スープの皿をウェイターの少年にさげさせ、新しいものを持ってくるように言った。ウェイターの少年はテーブルを綺麗に拭いて、皿を持っていく。
「ちょうど良かったじゃないの。今二人を救い出せば?」
楽しそうに笑うエリザベートを、雅明は悲しく思った。人の不幸を笑うような女にしてしまったのは、この自分なのだ……。
「……救えるものなら、とっくにやっている」
まるで何もかもわかっていたような雅明の言い方に、エリザベートは笑うのをやめた。
「どういう事? 貴方……」
「とっくに知ってたさ。『黒の剣』のメンバーになって、ずっと二人の動向を追っていた。いつか助けよう、必ず助けようと思ってた。だが、現実は残酷なものだな……、ヨヒアムが二人に押し付けたあの男は、二人を大切にして愛しているらしい。二人は幸せそのものさ」
静かに微笑む雅明を、エリザベートは信じられない思いで見つめる。
「それならもういいじゃない! ソルヴェイは幸せなのよ。貴方がいつまでも彼女にとらわれる必要はないわ。いつまで未練がましく追ってるのよ!」
「それでも!」
雅明は、エリザベートの言葉を遮った。
「私は彼女を愛してる。愛している間はどうにもならない」
「アウグスト……」
くっくっくと、雅明は自分を嘲笑った。
「彼女はあんなに幸せだ。見ればわかる。我慢してるとかそんなんじゃないんだ……。私は、私の心はどこへ行けばいいんだ? ええ?」
「私がいるわ」
雅明は首を左右に振る。
「……お前では駄目だ。お前では私の夢は叶えられない」
差し伸べられたエリザベートの手を、雅明は払いのける。
「お待たせしました」
新しいスープを持ってやって来た先ほどの少年の手に、何を思ったのか雅明が口付けた。そしてエリザベートが仰天する言葉を口にする。
「君、可愛いね。今夜私の部屋に来ないか?」
エリザベートは、これ以上はないというほど目を見開いた。
「お客様……」
少年は雅明の誘惑に満ちた雰囲気に飲まれ、赤面している。答えが『はい』なのは返事を聞かなくてもわかる。雅明は少年を自分の膝に座らせ、耳元で何かを甘く囁いた。少年はさらに顔を赤くしてうなずいて膝を降り、出て行った。
「貴方、いつのまに男まで……!」
批難するエリザベートに、雅明は妖艶な眼差しをむけた。
抗い難い魅惑の色だ。こんな目を雅明は、昔は持ってはいなかった。彼女の知る雅明は、もっと一途で純粋だった。
変わってしまった雅明は、どこか崩れた笑みをこぼす。
「恋愛は自由であるべきだよ。こだわると、ソルヴェイのように失敗する」
さっきの少年が私服に着替えて戻ってきた。雅明は立ち上がるとその少年を抱き寄せて、エリザベートに振り返った。
「じゃあな」
そして雅明は、少年の鳶色の髪を優しく梳いて、唇を重ねる。
エリザベートは不思議とその光景を淫らだとか、下品だとか思わなかった。肉欲だけを求める二人の姿は、エリザベートの生活の中では存在し得ないもので、あまりに現実感がない。それが却ってよりはっきりと、彼女と雅明との間に引かれた境界線を強く知らしめる。
こんなに近くにいるというのに、二人はもう別の世界の住人なのだ。
少年は雅明に寄り添って幸せそうにしている。エリザベートは嫉妬の炎で、頭がおかしくなりそうだった。
この男の心は、以前より捕らえにくくなった。
消え行く二人の姿に、エリザベートは唇を噛む。ソルヴェイの幸せそうな姿を見せて、あきらめさせようと思ったのだが、失敗してしまった。
「……あきらめないから。必ず貴方を私のものにしてみせる」
憎しみと怒りが、エリザベートの美貌にすごみを加え、より美しさを増させていく。
雅明は果てた少年に上掛けをかぶせ、窓際へ寄りかかった。
見ているのはドイツの夜景なのに、雅明が見ているのは、田舎の優しい町の中にある、灰色の瓦の屋根の、障子と縁側がある石川の家だった。
昔はそこにソルヴェイとミハエルが居て、雅明は絵を描いていた……。
ふっと二人の姿はかき消える。
あの場所で、誰かが自分を待っていてくれたなら……。傷ついた自分を癒してくれたなら。父が母を愛し、自分たちを可愛がってくれたように、自分も女を愛して子供を守れたなら。
「……ん」
少年が寝言を言いながら寝返りを打つ。
その物音に雅明は、はっとした。
柄にも無くまた夢を見ていたようだ。
雅明はベッドへ入り、これが現実なのだと自分に言い聞かせながら、目を閉じた。
月の光は、描きあがった雅明の絵をおぼろげに照らしている。