天使のかたわれ 第32話

 飛行機で睡眠薬を飲まされて眠らされ、目覚めた時には、恵美は見知らぬ部屋に居た。薬が切れたばかりで動けない恵美は、首だけ何とか動かして、窓から見える日本家屋の屋根を見て、日本へ帰ってきたのだと思った。

(早計だったかな。でもきっと、嫌だと言ったら無理に飲まされたのは間違いなかった)

 奏はずっと、恵美が一人になるのを見計らっていたに違いないのだから。

 アネモネは多分、恵美が奏に囚われたのを気づいてくれているだろうが、遠いギリシャから何かをしてくれるのを期待するのは無理だろう。

 動けるようになるのを待ち、起き上がったところで知らない女性がが部屋へ入ってきた。

「お目覚めですか?」

「……ここはどこなの?」

「私からは申し上げられません。支配人から直接お聞きください」

 女性に水の入ったコップを差し出されて、恵美はおとなしく飲んだ。もう薬など入れられないだろう。

「恵美様。私は支配人の秘書で山下奈津と申します。以後お見知りおきください」

「あ、はい」

 恵美では絶対になれそうもない、仕事ができそうな美人に頭を下げられ、恵美は戸惑った。そこへ奏が部屋へ入ってきた。

「山下さん、ここはもういいです」

「はい」

 二人きりになりたくないのに、奈津が出て行く。扉が閉まると、奏はベッドの脇に腰掛けた。

「お子さんを呼ぼうとしたのですが、けんもほろろに断られました。つわりで大変でしょうに、あの奥方はなかなか情の怖いお方のようです」

 麻理子が、誘拐犯に子供を引き渡せと言われて、承知などするわけがない。恵美も来させてほしくなどなかった。とにかく言うことを聞いてここまでやって来たのだから、これ以上は譲歩しない。

「それで私はどうすればいいの?」

「なにも。ただ、これにご記入いただいて、ここでお過ごしになってくれればそれでいい」

 恵美の前に、一枚の紙切れが差し出された。

 婚姻届だ。

「そんなものに署名するとでも?」

「しなければ子供さんと会えませんよ? ここから出しませんし」

「絶対に書くものですか!」

 何故自分が、愛してもいない男と結婚しなければならないのだ。飛行機で言うことを聞けと脅されたのは、こういう意味だったのか。恐怖に飲み込まれて冷静な判断を欠いた自分が、恵美は愚かしかった。

「言うことは聞いたわ。もう十分でしょう! 帰らせてもらうわ」

 もう身体はふらつかない。服は空港の時のままだった。置かれていた旅行鞄を手にして部屋を出た恵美を、奏は追いかけては来なかった。

 かなり広い家だ。人は奏と奈津しかいないらしく、しんとしている。

 玄関では奈津が出て行くところだったが、奈津は恵美に気づくと慌てて扉を閉めた。

 扉が閉まり、鍵がかかる。嫌な予感が再びせりあがってきた。

 そのときちょうど奏が玄関に現れた。

「鍵は――――」

「開かないんですよ、その鍵は」

 恵美の言葉を、奏は遮る。

「ええ、わかっています。ですから開けて」

 恵美は怖くて仕方がないのを押し殺し、虚勢を張った。

「開けませんよ」

 奏が不気味に微笑む。恵美は玄関の扉を背に後ずさった。

「開けて! 帰りたいのよ。空港で言うことを聞いたでしょう! ひっ……!」

 奏に抱きしめられて、恵美は身動きが取れなくなった。

「そういう甘い考えの、深く物事が考えられない貴女が愛おしいです」

 奏がキスをしようとしてきたので、恵美は奏を突き飛ばして部屋の奥に逃げた。

「誰か……っ! 誰かいないの!」

 片端から少ない部屋を開けまくったが、誰もいない。今このフロアに居るのは自分と奏だけなのだ。

 下の階に助けを呼ぼうと窓を開けようとして、恵美は気づいた。このフロアの窓は全てはめ殺しになっている。換気は各部屋の空調システムがするのだ。

「往生際が悪いですね、貴女は」

 追い掛けてきた奏を再び突き飛ばし、恵美は玄関に再び走った。

 何度扉を叩いても、取っ手を回しても非情にも扉は開かない。

「開けて!……っ開いてよ!」

 最後には扉をばんばん叩いた。その扉に縋り付く恵美の身体を、奏は余裕すら感じる強さで引き離し、面白そうに笑った。

「何度も言っているでしょう? 開かないと」

 奏にリビングまで引きずり込まれ、ソファに力づくで座らせられた。押さえつけられて動けなくなり、恵美は奏を睨むので精一杯だ。

「何でこんな事するの!」

「今更。貴女が欲しいからですよ。やっと手に入った……ふふ」

「こんなことをする男は大嫌いよ!」

「今のうちだけです。そのうち貴女は俺を愛する様になる……」

 奏は恵美を押さえつけていた手を離し、肩で息をしている恵美を自分の膝に座らせた。

「卑怯者!」

「……騙される方が悪いんですよ。雅明さんもエリザベートも皆役にたちました。俺は貴女をどんな手を使ってでも手に入れたかった」

 首筋を奏の手に思わせぶりに触れられて、身体中の毛がそそり立つ。手を取られて何が冷たいものがはまったので見ると、あのブルーサファイヤの指輪だった。

「約束は守りましょう。それはお返しします」

 ゆっくり考えてくださいと言い、恵美を膝から降ろし、奏は部屋を出て行った。

 しばらく恵美は放心していた。

 窓の外は地上五階はありそうな高さで、窓ははめ殺し……。

 目の前が涙で霞む。こんなことになるのなら、アテネで雅明を受け入れておけばよかったと、打算的な考えが浮かんだ。

 空港で、心の中で別れを告げたはずなのに、今こんなに寂しい。

 涙があふれて頬を伝わっていく。

 好きなのだ、雅明が。

 あのわけのわからない、子供のように遊んで、ずうずうしく家族の中に入り込んできたあの男が好きなのだ。

 でも何もかももう遅い……。

 

 夕方に奈津が戻ってきて、奏に書類を渡してスケジュールを述べていく。明日は出社する予定だった。

 奏は、仙花グループの経営するホテル、『仙花ホテル』の支配人だ。不況の最中、ずっと黒字を更新できているのは奏の手腕によるものが大きく、いずれホテル事業からはなれ、仙花グループの専務になることが決まっていた。そしてゆくゆくは社長になり、総帥である父、仙崎敦史(せんざきあつし)の後を継ぐと言われている。

 奈津は全て言い終えた後、奏に言った。

「支配人、いつあの方を解放するのですか?」

「……あの方?」

「恵美様です」

「婚約するまでは、解放などする気はありませんよ」

 奈津と奏は身体の関係はない。でも奈津は、奏の女性関係をよく知っている。奏はあまり派手ではないが、人並みにつきあっては別れるのを繰り返していた。そしていずれもそれは想いがあるものではなく、女性は奏の金が目当てで、奏は女性の身体を目当てにし、お互いが飽きるまで続くのだった。

 だが、今回の小山内恵美という未亡人は違う。奏は本気なのだ。恐ろしいほどの執着心を見せ、わざわざ彼女の為にマンションを建ててその一室に閉じ込め、結婚を迫っている。相手はどう見ても嫌がっているというのに。ほんの一瞬でもわかるほどだった。

「……お気の毒です。お子様ともお会いになりたいでしょうに」

 奏は立ち上がり、奈津を見下ろした。

「おかしな仏心を出して、恵美を連れ出そうと考えないでくださいね。恵美は俺のものだ。彼女は仙崎恵美になるのですから」

「……はい」

 奈津は、奏の狂気に取り憑かれた眼が恐ろしかった。以前はもっと穏やかな男だった。あの恵美という女性に会って、変わってしまったのだ……。

 奈津が帰った後、奏はウィスキーをストレートで飲み、恵美の部屋の扉をそっと開けた。部屋は暗く、恵美は泣きつかれたのか、ベッドの上に横たわって眠っていた。

 涙の後をそっと拭い、奏は寂しげにつぶやく。

「恵美、その心から石川雅明を追い出すにはどうしたらいい?」

 そのまま恵美の横に突っ伏した。飲んだウィスキーが胸を焼いて疼いているが、恵美への想いはこんなものではない。

 もっと、もっと、恵美に焦がれている。

 誰よりも愛している。

 雅明などには負けない。絶対に幸せにする自信がある。

 奏も兄の圭吾と同じく愛情に飢えていた。

 正しくは愛というものがよくわからない。ただ、恵美が欲しくて欲しくて堪らない。かつての貴明のように、癒されない心を抱えてのたうち回っているのだ。

 ぬくもりを求めて、奏は恵美を抱きしめて眼を閉じる。彼女を抱いている間は、心の渇きが癒される気がするのだった。

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