天使のかたわれ 第35話
佐藤邸へ戻った恵美はすぐに暫く住んでいた部屋へ通され、ベッドへ横たえられた。切られた足首を雅明が消毒して、手馴れた手つきで包帯を巻いていく。
「その怪我は?」
救急箱を持ったナタリーが不審そうに聞いてきて、雅明が事のあらましを話すと激昂した。
「なんて男なの! 恵美さん……そんな恐ろしい目に」
「間に合ってよかった。指輪の通信機器は気取られているとわかっていたんだが、まさか腱を切ろうとするとは思わなかった」
「精神を病んでいそうね」
「おそらくはね」
上掛けを静かに被せ、雅明はやれやれと近くの椅子に腰掛けた。ナタリーは来客があるため出て行った。入れ替わるようにノックの音がして、貴明が入ってくる。
「恵美は大丈夫か?」
「疲れてて、今は寝てる」
「そうか……」
貴明は恵美の寝顔を見下ろし、やつれたなとつぶやいた。
「子供たちに直ぐ会わせるのはよくないな。恵美が望めば会わせるしかないが、こんな母親の姿を見たら不安がるだろう」
「そんなことで動じるとは思えない。二人とも恵美をよく知っている。普通の子供とは違うよ」
貴明はそうかもしれないが……と首を傾げ、窓際の壁に凭れた。
外は雪が降っており、今日はかなり寒い
雅明が淹れた紅茶を飲んで、あまりの酷い味に貴明は顔を顰めた。とにかく渋くて旨みも香りも消し飛んでいる。
「恐ろしくまずいな」
「味がすればいいんだよ」
「味なのか毒なのかわからない」
「味だ」
雅明が平気に飲むのに呆れながら、貴明が言った。
「よくあのマンションの連中を騙せたな」
「油断と緊張の隙間を突けば簡単さ。今日でなければ無理だった」
「黒の剣で培った技術か」
「さあね。入ってなくてもできたかもしれない」
発熱した恵美が汗を額に滲ませ始めたので、雅明は水で絞ったタオルを恵美の額に載せた。
こほんと気まずそうに貴明が咳をする。
「まさか奏の奴、恵美に……」
「手は出してない」
「なぜわかる?」
「指輪の通信機器を通して、すべて聞いてた」
「お前な……」
恵美救出のためにあれやこれや手を打っては、なかなかそれが叶わず手をこまねいていた貴明が不快さを声ににじませると、雅明は仕方ないだろと肩を竦めた。
「お前が焦ってくれないと、奏が油断してくれなかった」
「僕はそんなに信用ならないか?」
「こと恵美に関しては。お前、あんまり恵美恵美と言うなよ。麻理子さんを不安がらせるだけだ」
貴明は言い返そうとして口を半場開け、諦めて閉じ、気まずそうに視線を彷徨わせた。
雅明にはわかっている。
貴明が恵美に対して過去、どんな酷い仕打ちをしたのかを。
それをどれ程後悔して、償いたがっているのか。
二度と接触しないことが恵美の幸せと思っていたのに、実はそれが不幸にしていただけな自分を許せないでいることを。
「ともかく奏がこれくらいで諦めるとは思えない。いろいろと気をつける必要はある。子供たちにも今まで以上に」
雅明が言うと、貴明はああと頷いた。
「しかし、奏は何故恵美に手を出さなかったんだろう? あの親父の弟だからやりそうなもんだと危惧していたんだが」
「わからないのか? この恵美を見ても」
雅明が微笑した。
「恵美?」
貴明は恵美を見下ろした。
眠っている恵美は、少女のようにあどけない。
あの若い頃の狂おしい熱情は一体なんだったのだろうかと、今でも思う時がある。
恋であり愛であると思っていたのに、掴んだ瞬間それは幻のように消えうせてしまうため、それを常に掴んでいたくて恵美を追い掛け回した。
恵美が持っていた懐かしさを伴う、切なくて温かな不思議な愛情。
不意に貴明は、雅明と二人で母親のナタリーを待っていた、幼い頃の夕方を思い出した。
負債を抱える建設会社の社長をしていたナタリーは、帰ってこない日のほうが多かった。今日は帰ってくるはずだ、いや、今日は帰ってこなくても明日はきっと帰ってくる。帰ってきて抱きしめてくれる……。そんな願いをしてしまうほど、母に包まれたかった。
「……母親か」
「そうだ。でも、お前が恵美を愛していたのは間違いない。恵美は妹にも姉にも母になっていたのだからな。問題は男が弟にも兄にも父にもなれなかったら、ただの無いものねだりの子供の我侭になってしまう点だ。今の奏のように」
「双方が同じように父母、兄弟姉妹にならねば恋人にはなれない……か」
「そうだ」
窓の外の降り続ける雪を、二人で見やった。
恵美は目覚めない。
「奏の生い立ちは十分気の毒だと思うが、それの犠牲に恵美がなってやる義理はないな」
貴明が言うと、雅明は頷いた。
「ああ」
圭吾に恋していた恵美の顔を貴明は思い出す。幸せそうで苦しそうで、女の顔をしていた。
あの苦しみを消してやりたかった。
幸せな微笑だけを浮かべて欲しかった。
ほかの女と結婚した今でもそう願うのは、傲慢なのだろうか。
「ま、お前は麻理子さんの夫なんだ。彼女を一番に考えてやれ。いくら鋼鉄の女でも最初の妊娠で不安でいっぱいに違いないからな」
思いに沈んだ貴明を、浮上させるように雅明が明るく言う。まったく持ってその通りだ。最近の麻理子は気丈さは保っているものの、なにかと情緒不安定だ。時折自分でも感情をもてあましているのがわかる。
「わかった。もう仕事に戻るよ」
「それがいい」
貴明は恵美と雅明について考えるのをやめた。
もう自分が恵美にできることは、なにもないのだから……。
貴明が出て行くと、雅明は頭に手をやり、くしゃりと銀髪をかき回した。柄にもない、自分らしくない説教をした気がする。
(ともあれ、すべてはこれからだ)
ためらいがちのノックの音が響き、雅明はまたかと思いながらも返事をした。扉が開き、恵美となんとなく似た面差しの女が入ってくる。
「アウグスト。恵美さんの様子はどう?」
「疲れているようだが、すぐ治るだろう」
女は近くのテーブルの上へ、飲み物が載ったトレイを置いた。
「当分目覚めないから持ってきても仕方ないぞ。茶は私が淹れたし」
「……それはもうお茶じゃないでしょう? アクセル様はほとんど飲まれていないじゃないの」
テーブルの上のカップを女は指した。
「あいつは味にうるさいからな」
「貴方に比べたら皆そうなるわ。お気の毒」
女は恵美に近寄り額に載せられていたタオルを取って、近くの水の張った洗面器に浸して絞り、再び載せる。
その親切な女の態度が、雅明にはたまらなく不愉快だった。
「ソルヴェイ、ドイツへ帰れ。もう暴力を振るう男は始末したから、大丈夫だと言っているだろう」
「何を言っているの? いなくなったから貴方についてきたんじゃない。ミハエルも喜んでいるわ」
深々と雅明はため息をついた。
「何度も言っているはずだ。もうお前とは家族じゃない。お前は事情はどうであれ私とは離婚し、あの暴力夫と結婚していたんだ」
みるみるソルヴェイの双眸に涙が浮かぶ。
「私たちを見捨てるの?」
「見捨てやしないさ。だが、もう家族には戻れないし、戻る気もない」
冷酷ともいえる雅明の言葉に、ソルヴェイはわっと泣き出した。
「ひどいわ! 私だって何も好きで貴方と別れたわけじゃない! 貴方を救うためだったのよ!」
抱きついてきたソルヴェイを邪険に払うこともできず、雅明は天井を仰いだ。
死んだと思っていたソルヴェイが生きていて、暴力夫に苛まれていると知り、エリザベートに救出してもらうまではよかった。しかしそれ以降がよくない。エリザベートによるとソルヴェイは何度も何度も雅明に会わせろとしつこく要求し、エリザベートはアルブレヒトやシュレーゲル一族の手前もあって、それらをすべて撥ね付けていた。ソルヴェイの父のヨヒアムを刺激したくなかったのもある。雅明も援助をする気はあったが、会うつもりは無かった。もう彼女との仲は過去のもので清算済みだったからだ。
それなのにソルヴェイは監視の目をかいくぐり、日本へ行こうとしている雅明を空港で捕まえ、子供のミハエルといっしょにこの佐藤邸まで付いて来てしまったのだ。
「私もソルヴェイが嫌いになって別れたわけじゃない。だが、もうあの頃には戻れないんだ」
「いやよアウグスト! もう一度やり直しましょうよ! もう落ち目の父に遠慮はいらないわ、だから」
「駄目だ」
雅明はしがみついてくるソルヴェイを引き剥がし、そこで初めてベッドの上で起き上がってこちらを見ている恵美に気づいた。
恵美の顔色はやはり悪かった。
「あの……雅明さんそちらは?」
雅明が言うより前に、ソルヴェイが言った。
「アウグストの妻のソルヴェイです。初めまして恵美さん」
「妻……?」
訝しむ恵美に、ソルヴェイは合点がいったように、微笑む。
「死んだことにされていただけなんです。でも、こうやって再びアウグストに逢えたんです」
「は……あ」
雅明がソルヴェイを押しのけようとして失敗する。さらにソルヴェイは続けた。
「アウグストは貴女を誘拐犯から救うために、わざわざ日本へ帰ってきたんです。でも、すぐに帰ります。ご安心くださいね」
「ソルヴェイ!」
雅明が怒鳴るのをものともせず、ソルヴェイはだってと言う。
「アウグストの絵の活動はヨーロッパでしかできないわ。日本では無名でしょ? 組織だって……」
「それは私が決める。お前が決めることじゃない」
雅明とソルヴェイが言い合いをするのを、恵美は熱を抱えたままぼんやりと見つめた。
悪夢はまだ終わっていない。
恵美はそう思った。