天使のかたわれ 第37話
病気も治り、ただの居候をしているのはかなり心苦しいので、恵美はなんでもいいから仕事をしたいと貴明と麻理子に言った。
「仕事……ねえ。うーん、悪いけど足りてるから」
貴明は気まずそうに口を濁した。
「なんでもいいのよ。清掃係でもなんでも……」
「そんなの、身内にさせるわけにはいかない。そして、恵美にうちの仕事ができるとは思えない。きっと苦労する」
「やっぱり高卒では駄目?」
「中途でたまに入れるけれど、相当なキャリアを持ってる者ばかりだ。清掃は業者を入れてる。恵美の気持ちはわかるけれど、しなくてもいい苦労をするのがわかってて、雇えないよ」
「そう。そうよね。ごめんなさい」
よく考えたら厚かましい考えだった。いきなり企業のトップにこんな願い事をするなど、コネもいいところだ。この会社で、なんの特技も特別素晴らしい学歴も経歴もない、平凡な主婦の恵美にできる仕事などない。
「そうね、貴明も麻理子さんも高学歴だものね……」
「いえ、私は」
麻理子が謙遜しようとして失敗し、気まずそうに顔をそらした。そうなのだ、麻理子は深窓の令嬢で、国立大卒だ。おまけにメイドは家柄までが重視され、紹介状がないと門前払いされる。普通の社員より入るのは難しい。
恵美は大学を中退して、そのままだった。
「勉強でもしてみたら? 資格を取ればできることがあるかも」
貴明が提案する。
「そうね」
言いながら、恵美は乗り気ではなかった。専門学校や大学にでも通わないと、ろくな資格はとれない。民間の資格など殆ど無いに等しく、まともに取り合ってくれる企業などないだろう。
「家でもどこでも勉強はできると思うよ」
「そうね」
頭のいい人はそうだろうと思いながら恵美は貴明にうなずき、もうこの話はいいわと打ち切った。あらぬことで八つ当たりしてしまいそうで怖い。
恵美はエリートとまでは行かなくても、成績は決して悪くなかった。中途で退学した大学も偏差値の高い方だったし、辞めるまではそれなりの成績をキープしていた。好きで辞めたのではなく辞めさせられたのだ。あの、監禁の日々が始まった日に。
あれがなければ、今頃は夢だった翻訳家にでもなっているだろう。もしくは、外資系の企業でそういう関係の事務の職を得ていそうだ。
「あの、私のお仕事を手伝ってくださったら……。それぐらいなら誰も何も言いませんわ」
麻理子が遠慮気味に口を挟んできた。
「麻理子さんのお仕事?」
「ええ。ちょうど今、新しい服を作っているところなんです」
「……私、お裁縫は全く駄目なんです」
「そうですか……」
がっかりした麻理子に申し訳ないが、恵美の裁縫の腕は小学生以下だ。遺伝子を受け継がなかった長女の美雪が天才的に上手で、繕い物が出たらすべて美雪に任せている。
「ごめんなさい。面倒なことを言って。すべてが解決するまでおとなしくしているわ」
「……うん」
「そうですわね。私も時々来ますから、なにかお願いするかもしれませんし」
「お待ちしてます」
午後の仕事の時間になったので二人が出ていくと、恵美はどっと疲れが出た。
またやってしまった。
きっと貴明はまた自分を責めてしまうのだろう。監禁の原因を作って、恵美の夢を壊してしまった責任は彼にも少しはあるのだから。
自分の行いを深く反省した圭吾からは、何度か大学進学をすすめられたが、美雪が幼かったこともあって恵美は断っていた。手がかからなくなったら入ろうと思って勉強だけはしていたものの、その矢先に圭吾が事故で亡くなり、大学どころではなくなってしまった。正人との生活はすぐに妊娠したため勉強などできるゆとりもなく、出産したらしたらで、子育てに、正人の病気の看病にと、なにもかもが流されていってしまった。
「……結局自分が悪いのよね。でも仕方ないわ。子供のほうが大切だもの。どっちもなんて器用な真似は私にはできなかった」
無駄かもしれないが、とりあえず参考書を取り寄せて勉強するべきだろう。何もしないよりはマシだ。
自分のために紅茶を入れて、恵美は深くソファに沈んだ。
それにしても、いつまでこの状態が続くのだろう。奏が恵美を諦める日までと貴明は言うが、この間の状態を見ていたらそんな日は当分来ないように思われる。かといって、あまり居候を続けたら、社員たちからあらぬ憶測をたてられそうで怖い。結婚するだろうと思われていた相手に家族が居たという事実は、実際のところ面白おかしく社員たちが噂しており、時々恵美の部屋に現れるメイドたちもそういう目で恵美を見ていた。
子供たちもきっと辛いに違いない。
(もう一度話し合うべきだわ)
そう思っても、話し合いをできるような相手ではないから、できるわけがなかった。できる相手なら誘拐という手段を取ったりしない。
雅明には妻子がいる。身体は元気にはなったが家へは帰れない。奏は自分を諦めていない。この状態は子供たちにも誰にも良くない。
それなのに身動き一つできず、気晴らしもできず、ひたすらこの邸内で耐えているしかない。貴明や麻理子だって、好きで恵美を閉じ込めているわけではない。本当に仕方ないのだ。警察に相談しようと言ったら貴明はもみ消されるだけだと言い、手をひらひらとさせた。奏の家はかなりの権力持ちらしい。
深い深い溜め息をつき、恵美はひとりごちた。
「……私、気づかない間に、誰かに悪いことをしてしまっているのかな」
そう思わずにはいられないほど、災難続きなのだった。
かたりと音がして、恵美ははっと後ろの窓を見やった。寒い中、外から雅明が窓を叩いている。無視しようと思ってカーテンに手をかけると、更に強く叩かれた。雪はひっきりなしに降っていて、見るからに寒そうだ。雅明はコートを着ておらず、傘もさしていなかった。このままでは風邪をひいてしまうだろう。
仕方なく窓を開けると、雅明は一足飛びで入ってきた。暖かな部屋の空気が雅明と一緒に一瞬冷え、恵美はぶるりと身震いをした。
「寒い寒い。すぐに開けてくれよ」
ふるふると頭を振り、雅明は雪を振り落とした。
「……扉から来たらいいじゃないの」
「開けてくれないから窓から来たの。なぜそんなことをする?」
じろりと雅明は恵美を睨んだ。助けてもらった日からこの一週間、ソルヴェイの居ない時に何度か雅明は部屋へやってきたが、恵美はそれをすべて無視していたし、子供たちにも遊ばないように注意していた。それを雅明は言っていた。
「なんでって当たり前じゃない。自分の家族を優先しないでどうするの?」
「もう家族じゃなくて他人だが」
あまりに冷たい物言いに、恵美はソルヴェイが気の毒になった。もし圭吾にこんなふうに言われたら、自分なら立ち直れない。
恵美の気持ちを表情で読み取った雅明は、どっかと椅子に座り、仕方ないだろうと言った。
「確かに嫌いになってわかれたわけじゃないが、空白の数年の間、彼女は幸せに他の男と生きていたんだ。その男が豹変して暴力夫になって気持ちが冷めた途端、もとの夫の私に鞍替えというのは、虫がよすぎると思うが?」
雅明は過去を映すかのように、遠い目をした。
「私は、ソルヴェイには悪いと思っている。私が手を出さなければ、確かにあの暴力夫とは結婚させられなかっただろう。だが、私といる時より、確実に幸せそうな家族そのものだった」
「……知ってたの?」
「死んだと新聞で読んだ時まで、遠くからよく見てたよ。そのために私は闇の組織に入った。そうでないと、近づくことも、情報を得ることもできなかったからな」
煙草を吸おうとしてズボンのポケットに手を入れたが、そのまま何も持たずに雅明は椅子の肘掛けに頬杖をついた。
雅明がなぜマフィアのような組織に入ったのか、やっと理由はわかったが、なにか釈然としないものが恵美にはある。
「他の男の人と幸せそうにしてたから、もう愛せないの?」
「違うな。本当に愛する人間ができたからだ。自分に嘘を私はつけない」
ひたと雅明の視線が恵美をとらえる。
「残酷だわ」
「事実だから仕方ない。恵美さんだってそうだったはずだ。命がけで愛してくれる貴明を選ばなかったのは何故だ?」
「! それは……っ」
「監禁してまで、己の人生を変えた男を選んだのは? どうしようもないほど好きだったからだろう?」
言葉の矢に射抜かれて、恵美は言い返そうとしてできなくて、口を閉じた。
「その灼熱の相手だけを愛して人生を終わらせようとしたけれど、私を受け入れようとしてくれたのは何故だ?」
雅明は椅子から立ち上がって、恵美の前まで歩いてきた。恵美は何も言い返せないまま、雅明を見上げて後退りした。すぐに壁があり、逃げられなくなって雅明を見上げる。
「でも……、彼女は、家族だったんでしょ?」
「そう。家族だった。愛してた。それだけだ」
「彼女は違う」
するりと雅明の冷たい手が頬を撫で、首筋をたどり、肩から腰へまわり、抱きしめられた。離れようとしても到底敵わない。
「だとしても受け入れられない。私が彼女を女として愛することは二度とない」
「雅明さん」
「雅明」
呼び捨てにしろと雅明は言い、恵美がそれに言い返す間もなく口付けてきた。突然のそれに恵美はびっくりして、混乱した。腰に感じる雅明の手が冷たいだけに、唇の熱さが余計に熱く感じられ、それが雅明の恵美を想う温度そのもののように思われた。まだ大人になれきれていなかった純粋でひたむきな熱さだった貴明とも、女心を知り抜いた圭吾のそれとも違う、不思議でとらえどころがなく、それでいて離れがたくなる甘さ……。
(駄目! ソルヴェイさんがいるのよ……!)
足の力が抜けた恵美を、雅明の腕がしっかり支えてくれた。
「また頑固に戻ったな」
唇を離して、雅明は声もなく笑う。
「待つよ。恵美が、誰をどれだけ傷つけても私を選ぶまで」
「それ……は」
雅明のことはギリシャで諦めたのだ。諦めたはずだった。
それなのに……。
雅明は力が抜けた恵美を椅子に座らせて片膝をつき、まるで中世の騎士が姫君にするように右手に口付ける。
「恵美が選ぶのは、私だ」
見上げてくる雅明の薄茶色の目はわずかに虹色がかっていて、恵美は魔法をかけられたような気がした。