天使のかたわれ 第39話

 それから数日が過ぎた。

 麻理子にソルヴェイとは関わるなと言われたものの、向こうからやってくるのを避けるのは難しかった。恵美と違って麻理子は佐藤邸の女主人として何かと忙しくしており、暇がたっぷりあるソルヴェイのように恵美と一緒にいられる時間が限られるからである。

 どうやらソルヴェイは、一緒にいることで雅明を近づけないようにしているらしい。どれだけ恵美がそっけなくしてもソルヴェイは恵美にひっついて離れず、恵美は子供が帰ってくる夕方が待ち遠しかった。

 ソルヴェイは雅明の過去をよく話してくれた。それは恵美にとっては興味のあることだったのだが、結局はソルヴェイといかに仲が良かったかというふうに話が流れていくので、恵美としてはやってはいられない気分になる。じわじわと向けられる敵意は恵美には初体験で、どうしたらいいのかわからない。はっきりとした敵意ならきっぱりと撥ね付け、その相手を寄せ付けないようにできる。ソルヴェイという女はおとなしそうな外見とは裏腹に、巧みに人の弱みを突いて、そこから侵入するのに長けていた。

 麻理子が忙しい合間を見て助けに来てくれても、また数時間後にソルヴェイは現れる。暇を嫌がったのは確かだが、これには流石に恵美も参った。

(雅明さん、絶対にどこかで見てるんでしょう? 助けてくれたっていいじゃないの!)

 恵美は姿を現さない雅明に毒づいた。

 今もソルヴェイは、焼いてきたというアップルパイを恵美に切り分けながら、ひっきりなしにおしゃべりをしてくる。相槌を打つのも疲れている恵美は、黙ってそのアップルパイを口に運んだ。

「私、パイを焼くのは得意なんですよ」

「おいしいです」

 だがこれは、彼女が焼いたのではないと恵美はピンときた。どこかで食べた記憶がある。麻理子が以前、どこかのケーキ屋で手に入れたというアップルパイの味だった。

 こういうところも恵美は好きになれない。しかし、あからさまに指摘するのも面倒くさくて、恵美は黙ってソルヴェイの話を聞いていた。

「アウグストも好きなんですよ、甘い物。ものすごく好き」

「そうなんですか?」

 おかしいと恵美は思った。雅明は甘いものは亡くなった圭吾と同じぐらい駄目で、彼が喜んで食した甘くないクッキーぐらいしか食べるのを見たことがない。反対に弟の貴明は大好きで、しょっちゅう品のない食べ方をして、かつて恵美が呆れたように、妻の麻理子に呆れられている。

 一体何故こんなに嘘をつくのだろうか。己の評判を好んで下げているようにも思われる。ソルヴェイはうっとりと言った。

「昔はブラウニーとかよく焼いたわ」

 チョコレートとバターをたっぷりと使ったお菓子だ。貴明は大喜びで食べたが、雅明はひとくち食べて、渋いお茶かエスプレッソをねだっていた。

「お菓子作るのお好きなんですか?」

「ええ。でも、今はあまり作っていませんの。今日は特別です」

「それは……ありがとうございます」

 なんだか押し付けがましい。こういうところも疲れる。

 ソルヴェイは、ふふと笑った。

「駄目ですよ。これくらいで参っていたら、アウグストの恋人なんて」

「え?」

 いつもじわじわと向けられた悪意が、いきなりはっきりとして恵美に切り込んできた。

 身構える恵美に、挑戦的に目を光らせてソルヴェイは笑った。

「アウグストはあの美しい容姿でしょう? 弟のアクセルよりも人気があるんです。女性にも男性にも。本当にそういう艶聞はたっぷり」

「…………」

「私と別れて数年、彼、ブリュッセルの娼婦たちを幾人も恋人にしていたの。その中でトップクラスの娼婦とは一年も同棲していたっけ。そして、組織に引き入れらたら男まで虜にし始めて、世界中に恋人が居るような男なの。貴女、それに耐えられて?」

「え、と。それは、あのエリザベートさんもご存知なのかしら?」

「知っていると思うけれど、ま、彼女はあの通りのご気性と血筋と美貌だから、跳ね除けちゃうでしょうね。これくらいで参っている貴女とか格が上よ」

「……格」

「そうよ。人間としての格」

 勝ち誇ったようにソルヴェイは鼻をそらした。

「貴女は何もかも劣っているわ。彼女たちから見たら、貴女なんて本当に人間以下。猿だわ」

「…………」

 その刺は、深く恵美の心に突き刺さった。

「貴女の身体を幾人の男が汚したのかしら? 汚いわよね」

「汚い……」

「アウグストは違うわ。彼は人に望まれて、もしくは望んで魅惑を振りまくの。高嶺の花のような男。貴女みたいな男の性欲処理のための猿じゃないわ」

 顔を青くして黙り込んだ恵美に、ソルヴェイはにっこり笑った。

「それなのに仙崎奏は、貴女を妻にしたいそうよ。一端の人間扱いしてくれる彼は貴重ではなくって? お子様も養子にするおつもりだと、エリザベートから聞いたわ。そうしたら、まともな人間扱いされるでしょう。だって上の長女は庶子、下は一応前夫の長男だけど、本当はアクセルの庶子。日陰者の惨めな子供だわ」

「…………」

 麻理子の言葉を思い出そうとしても、ソルヴェイの話す現実のほうが重すぎた。確かに皆自分を慕ってくれて入るが、それは恵美の素性を知らないからだ。知ったら、このソルヴェイのように攻撃してくるか、また、侮蔑の視線を投げつけてくるか、どちらかだろう。

「アクセルと麻理子も優しいから、奏との結婚を望まない貴女を守っているけれど、貴女と関わる限り評判は落ちていくのではないかしら。気の毒にね。輝かしい経歴をお持ちなのに。生まれるお子様もどうなるのかしらね。それに貴女、本当の両親は知らない捨て子なんでしょ? そのご両親も貴女が高校の時に事故で亡くなられた……。貴女にはなんにもないのよね」

「────っ!!!!!」

 突然、事故死した両親がフラッシュバックして、恵美は悲鳴をあげた。

 あの顔のない両親を思い出した恵美は、恐怖と混乱で発狂したように叫び、震え、部屋の中を逃げ惑った。ソルヴェイが慌てて麻理子を呼び、麻理子が貴明を呼んですぐに駆けつけた。暴れる恵美は男の貴明が渾身の力で押さえつけなえればならないほどで、麻理子が顔を青くしながらソルヴェイを詰った。

「何を言ったの!」

「何も……。ただ、このアップルパイを差し上げただけですわ」

 心外だとソルヴェイは泣きそうに顔を歪めた。そこへ雅明もやってきて、ソルヴェイはその雅明に抱きついた。

「助けてアウグスト。怖いわ。恵美さんがいきなり叫んで狂われてしまったの」

 雅明は震えるソルヴェイを見、貴明に押さえつけられながらなだめれられている恵美を見た。

「フラッシュバックか……。何人か見たことがある」

 恵美は近寄ってきた雅明を見て、絶叫した。

「雅明、部屋から出ろ! お前が一番駄目なようだ」

「!」

 貴明に睨まれて雅明は足を止める。ソルヴェイが出ましょうと囁き、雅明はしぶしぶ彼女と部屋を出ていった。「落ち着け恵美。大丈夫だ。すぐに医者が来るから」

「来たって駄目……。だって、だって、お医者様は誰も助けてくれないもの……」

 ようやく落ち着いてきた恵美は、あふれる涙をそのままに貴明に言う。

「そうでしょう? お父さんもお母さんも、圭吾も、正人も……皆死んでしまったわ」

「恵美……」

 恵美は、ぽたぽたと床に涙を溢し、長い髪をはらはらと落とした。麻理子がその髪をかきあげて、自分のハンカチで恵美の涙を拭ってくれる。

「麻理子さん……」

「はい」

「私、やっぱり駄目です。あなた達のような星にはなれない」

「何をおっしゃってるんですか?」

 恵美は力なく。ふるふると首を横に振った。

「いえ、いいんです……。ごめんなさい大騒ぎをして……」

 呼ばれた医師がやってきて、恵美は貴明に支えられながらもベッドまで自分で歩き、横たわった。医師の診察を受ける間、恵美は心配そうに見ている麻理子から目を逸らし続けた。

(私に、こんなふうにして貰う価値なんてありはしないのに)

 強くなりたいと恵美は思った。

 だが願えば願うほど弱くなっていく。消せない過去が足を引っ張り、お前はここにいろと言うのだ。

(子供たちだけは絶対に不幸にさせない。日陰者になんてさせない)

 それには自立が必要だった。

(甘えていたら駄目。なんと言われようがここから出ていくべきだわ)

 鎮静剤を打たれて眠りに落ちるまでの間、恵美は覚悟を決めた。 

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