天使のかたわれ 第41話

 翌日、アネモネがやって来た。

「メグミ元気? マリコもおはようございます」

「おはようアネモネさん」

 麻理子はアネモネに丁寧に返事をして、恵美の身体の状態を手短に説明し、次の仕事のために部屋を出ていった。

「はあ……すごいわねあの人。さすがタカアキが選んだだけあるわ。てきぱきと行動して的確な指示して、……タカアキってやっぱり凄いわね」

「アネモネってば、まだ貴明が好きなの?」

 婚約破棄したとはいえ、ラウルという男性がいなかっただろうか。

「好きに決まってるじゃない。私の中では最高の男なんだもの」

「……なんかね、アネモネが心配になるわ」

 恵美は長い髪を後ろにまとめ、窓の外を見た。今日は雪は降っておらず、太陽が出ている。

「私はメグミがわからないわ。なんでタカアキを振ったの?」

 いい加減に貴明から離れてくれないかなと恵美は思いつつも、アネモネが聞きたがったのでしかたなく答えた。

「友人としてしか見れなかったから」

「まあ……そうなの。でも、同じ顔で兄弟なのにマサアキを愛せるのはどうして?」

 直球で聞かれ、恵美はいささがどぎまぎした。

「ど、どうでもいいじゃない。そんなことより」

「どうでもよくないわ。重要なことよ」

 そんなことを言われても、何故かなんて恵美にもよくわからない。顔をまっかにしている恵美に、さらにアネモネは畳み込んできた。

「ケイゴとは似ても似つかない男でしょう?」

「圭吾は圭吾よ。代わりに愛したいんじゃないわ」

「そりゃそうよね」

 アネモネは恵美の向かい側の椅子に座り、恵美と同じように窓の外に目を移した。

 出会った時はなんて非礼で厚かましい男だと思った。

 だけど、まるで家族のように雅明は恵美達の中へ入り込んできた。以前からそうであったかのように。子供にも優しかった。的を射るなら馬を……とか、そういう下世話なレベルではなく、雅明は本当に包み込むように恵美達の隣りにいた。ひょっとするとあの厚かましさも、恵美に負担をかけさせまいという配慮があるのかもしれなかった。

 ────……私は戦う女なんていらない。疲れた時に癒してくれる女がいい。負けて帰ってきても、変わらない笑顔をくれる女がいいんだ。

 ────ずっと願ってた。あの田舎の小さな古ぼけた家で、愛する人と一緒に暮らせたら……って。 

 ────それだけをずっと願ってた。

 そう語る時の雅明は、父であり兄であり汚れをしらぬ子供でもあった。

 優しく自分を見つめる瞳は、時折激情を帯びて虹色を帯びる。

 春風のように飄々とした気まぐれな男。

 だけど、ずっと側にいて安心させてくれそうな男。

 ────恵美が選ぶのは私だ。

 その通り。もう雅明しか今は選べない。それだからこそ側にいられない。雅明は自分は貴明の影だと言っていたが、それでもやはり彼も夜空に煌く星なのだ。

 エリザベートやソルヴェイが言うように、輝かしい男の隣に、幾人もの男を知り、彼らを不幸にしていった自分は傍目にどう映るだろう。

 貴明は恵美を選ぼうとして、ひどい目に遭った。

 圭吾と正人は死んでしまった。

 くそくらえだと雅明が言っても、周りは許さない。

 恵美も許せない。

「雅明さんも、奏さんも、私から開放されるべきなのよ」

「後ろ向きね」

「私は女である前に母親なの」

「そうやって母親が我慢してるの、子供にしてみたら辛いわよ」

 やけにアネモネはしんみりと言う。

「うちはメグミと同じ母子家庭だったわ。私を育てるためにほしいものも恋も我慢して、がむしゃらに働いてた。自分のせいで母親が不幸になってると思ってたわね」

「そんなはずないじゃない!」

「そうよ。貴女は幸せだもの。だから自ら不幸を選ぶなんて馬鹿よ。マサアキを離さないのが子供にも幸せなのよ」

 アネモネは何もかもお見通しのようだ。

 恵美は視線を断ち切るように立ち上がった。そのまま隣の部屋へ行こうとする後ろ姿に、アネモネがさらに続ける。

「メグミは怖いのよ。幸せに慣れていないから、いつか壊れると信じ込んでる」  

「そんなことは!」

 振り返って反論しようとし、恵美は言葉を詰まらせた。

「子供たちは貴女の弱気の犠牲になってる。私、メグミのそういうところが大嫌いだわ」

「アネモネ……」

 うなだれる恵美に、アネモネは自分がいい例よと肩をすくめておどけてみせた。 

 夜、アネモネに守られながら、恵美は佐藤邸を出た。久しぶりの外だ。まだ20時過ぎだったので人通りは多く、街中は賑やかだ。

「アネモネとこうして出るのは、ギリシャ以来ね」

「そうよ。でも、本気で仙崎奏と対決する気?」

 口調は恵美を責めており、恵美は自分の無鉄砲さを思わないでもない。自分一人なら絶対に避けるが、アネモネは頼りになると太鼓判も押してもらったので、いざとなったら逃げられるはずだ。

「アネモネがいるなら、大丈夫よ」

「ご期待に添えるように微力をつくすわ」

 アネモネの横顔はとても固い。神経を尖らせているのだろう。信号が青になり、アネモネはアクセルを踏んだ。

「都心から外れているのね」

「それなりの場所を選んだのよ」

 ゆるい渋滞に幾度か捕まり、一時間ほど過ぎた頃、アネモネはシティホテルの駐車場に車を乗り入れた。

「ホテル飛鳥?」

「つい最近できたところよ」

 人が居なくてしんとしている駐車場に車は止まり、二人は車から出た。

「遅かったな」

 聞き覚えがある声に、恵美は緊張した。

 いくつか止められている車の向こう側に白いスカイラインがあり、雅明が立っていた。

「来るだろうと思ってたわ」

 アネモネがため息をつくと、こっちがつきたいくらいだと雅明が言った。

「アホかお前たちは。何、敵の陣地に乗り込んでるんだ?」

「恵美の意志よ。ねえ?」

 悪いことを咎められている気分になった恵美は、アネモネの背中に隠れながらも頷いた。

「馬鹿なことをする……」

「貴方もね。マサアキ」

 アネモネは肩をすくめて指を鳴らした。するとどこに居たのか、ばらばらと数人の男たちが出てきた。

「え? な、何よこれ……」

 異様な雰囲気を感じ取った恵美は、車に戻ろうとして強く腕を横へ引かれた。

「はなし……っ!!!」

「久しぶりですね」

 引っ張ったのは、これから話し合いをするはずの奏だった。雅明は男達に腕を後ろ手に縛られている。

「彼らは俺の部下たちです。……連れていきなさい」

「アネモネ! なにこれ。どういうこと? なんでこんなところで……。奏さん、雅明さんをどうするつもり?」

「落ち着いてください。当然話し合いをする部屋へ皆行くんです」

 にこりと微笑む奏が恐ろしい。アネモネはサングラスをかけてしまい、表情が見えなくなってしまった。

(裏切られた……?)

 怒りよりも悲しみのほうが大きかった。恵美は震える足で歩いた。

 その前を、男たちに両腕を掴まれた雅明が歩いている。

 連れて行かれた部屋は、最上階のスイートルームだった。恵美はそこに居た女に目を瞠った。

「ああら。本当に引っかかったのね。お馬鹿さんたちだこと」

 いやに派手で、挑発的な赤いスーツを着たソルヴェイがそこに居た。

「ソルヴェイさん……」

「驚くほどうまくいった。これは報酬です」

 奏が小切手を切り、ソルヴェイに手渡す。ソルヴェイはそれを満足気に見やり、高そうな革のポーチに入れた。

「ほう……しゅう?」

「そうよ。私もアネモネも、奏と契約したの。本当に頭が猿なみに馬鹿よね貴女。私の挑発にあっさり乗って、敵になったとも気づかずにアネモネについてきて……。ああ、アネモネ、現在価格を見て頂戴」

 心底おかしそうにソルヴェイは笑う。

 アネモネがノートパソコンを机上で操作し、ソルヴェイに見せる。

「順調ね。もう七万ドル……ふふふ」

 何の話だと顔を青くしている恵美に、奏が椅子に座るように促す。座った恵美は机に置かれていた婚姻届に心を凍りつかせた。

「なんで……私、結婚はしないわ」

「しないと大変ですよ?」

「私は、結婚はしないと話に来たのよ。貴方は私を愛していない。錯覚なのよ。だからそれを話し合うために……」

「でも、これにサインしないと、雅明さんは売られてしまいますよ?」

 恵美はぎょっとして奏を見、楽しそうに笑うソルヴェイを見た。ソルヴェイは恵美に気づいてさらに笑った。

「アウグストを人身売買のオークションに掛けたの。ものすごいのよ……あら、もう誰かが早速七万五千ドルにしてる。凄いわねえ」

「貴方! 雅明さんの奥さんで愛しているのでしょう!?」

「愛しているわよ。私を豊かにしてくれるんですもの。ああ、フリッツ。早くアウグストのお手入れを開始してくれるかしら?」

「はい、フラウ」

 奥のベッドに、数人がかりで押さえつけられた雅明が居て、フリッツと呼ばれた大男が注射器を持って近づいていく。

「止めてよ! 雅明さんに何をする気!?」

「何ってお手入れよ。ご主人様に忠実な性奴隷にするための」

「なんですって……!?」

 次から次へと放たれる恐ろしい言葉に、恵美は半狂乱に陥った。止めさせようとして椅子から立ち上がったところを、奏が背後から阻まれる。

「放して! 止めないと……」

「止めたいのなら、届にサインをなさい」

 恵美は奏に振り向いた。奏はいやに慈悲深い笑みを浮かべていた。

「書かねば……売られてしまいますよ、雅明さんは」

 恵美はふるふると首を横に振った。

「そんなの信じられない。書いたって売る気よ!」

「いいえ、売らないと約束させます。ねえ……? ソルヴェイ?」

 ソルヴェイは面白くなさそうに腕を組んだが、フリッツに注射を打つのを止めさせた。雅明は暴れるため手刀で急所を打たれ、気を失っている。

「このホテルをこの先も使わせてくれるなら……、手を打ってもいいわ」

「だ、そうですよ。どうします?」

 悪魔たちに取り囲まれ、恵美は気を失いそうになりながらも、雅明を売らせまいと必死になって婚姻届にサインをした。たった一枚の紙切れが、とてつもなく重い一枚に見える。

 今、恵美の運命が決まってしまった。

 奏は婚姻届を大切にスーツのポケットにしまい、ソルヴェイに再び目をやる。ソルヴェイはわかったわよと、つまらなそうに言った。アネモネに命じてオークションの取引を中止させ、雅明を男達に運ばせる。

 不安になった恵美は、通り過ぎるソルヴェイの右手を掴んだ。

「どこへ連れて行く気? ちゃんと……」

「売らないわよ。それより貴女には大事なお勤めがあるでしょう? 私達はこれで失礼するわ。じゃあね奏、良い夜を」

 ソルヴェイはさも汚そうに、恵美の手を振り払う。

「そちらも」

 恵美は縋るようにアネモネを見たが、サングラスをした彼女は、恵美を一瞥もせずにソルヴェイの後ろについて部屋から出ていってしまった。

 ばたんと扉が閉まる。

「……恵美、こちらへ」

 奏に手を引かれて、さっきまで雅明が寝かされていたベッドまで歩かされる。何も言われなくてもわかる。これから何が起こるのか。

 がたがた震える恵美をベッド寝かせ、奏が優しい手付きで服を脱がせていく。

(大丈夫。雅明さんさえ無事なら……何だって我慢する)

「やっと俺のものになってくれましたね」

「……貴方は馬鹿よ」

「ふっふ。優しい悪態だ。安心なさい。ソルヴェイはちゃんと雅明さんを佐藤邸へ返すか……、ああ、もう戻れないのか、佐藤社長と仲違いしたから。多分、ドイツのシュレーゲルへ送り返すでしょう。お子さんの事も安心なさい。ちゃんと俺の子供にしてあげますから」

「一生……許さない! ……っ!」

 不意に、あらわになった乳房を握り込まれ、恵美は顔を歪ませる。

「口の聞き方に気をつけなさい。俺の気分一つで雅明さんは売られてしまうかもしれませんよ?」

「ごめ……ごめんなさい」

 痛みに涙を零す恵美に、奏は満足したのか握り込むのを止めて、優しい手付きになった。

「明日から、俺の妻にふさわしい場所へ連れていきましょう。幸せに暮らすためにね」

 幸せはあの古い家にあった。雅明が居て、子供たちが居て、みちえ達が居て……。

 あの優しい数ヶ月前が、砂のようにもろく崩れ去っていく。

 恵美は目を閉じた。

(雅明。心だけは貴方のものよ。永遠に)

 望まない口付けは、恵美に絶望しかもたらさなかった。

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