天使のかたわれ 第45話

 時は半月以上を遡る。

 雅明の様子を見に来たソルヴェイは、想像以上の仕上がりぶりに狂喜していた。

「よくやったわ、フリッツ、アネモネ。この礼ははずんでよ」

 二人は頭を下げる、その横には視点が定まっているのか定まっているのかわからない、人形のような表情をした雅明が椅子に座っていた。傍目には恐ろしく精巧に作られた、美しい人形に見える。

「アウグスト。貴方は一億一千万円で落札されたの。ふふ。普通の人間なら数百万の価値しかないのに、よかったわね。貧乏画家だったら一生お目にかかれないお金ね」

 顔を覗き込まれても、雅明の表情は変わらず、ぼうっと前を見ているだけだ。

「本当に佐藤貴明は、何もしてこないのでしょうか?」

 フリッツが言うとソルヴェイは、ご機嫌だった顔を般若に変えた。

「あの男の話はしないで! 腹が立つったらありはしないわ」

 ソルヴェイは、懲りずにあれから何度か交渉したが、やはり貴明は勝手にしろとしか言わなかった。どれだけ雅明が嬲られている映像を送っても、まったく変わらない冷酷ぶりに、今では反対に寒気がする思いだ。反吐が出るほど欲に塗れた人間でも、愛する身内があんなふうにされたら折れてくる。また、自分もそうされてはたまらないとばかりに、金はいくらでも出すから止めてくれと懇願する者さえいた。

 貴明の外出時を狙って襲わせても、ボディーガードたちの後ろで顔色一つ変えないとの部下の報告に、ソルヴェイは地団太踏んだ。

 佐藤邸に居る間に、ソルヴェイは佐藤グループ及び佐藤貴明自身と彼に関するデータを集めていたので、それでさらに脅しをかけようとしたが、まったく動じない。恵美と奏の結婚に反対する仙崎敦史を突いて、佐藤家の弱点とも言える、美雪と穂高の存在を世間一般にばらまくと脅迫しても、勝手にすればいいと返された。腹いせに何人もの情報屋やネットにばらしてみたが、一向に拡散しない。貴明は情報機関も握っているようだ。

 麻理子を襲おうにも、恵美の時のようには行かなかった。彼女はソルヴェイのかけた網を巧妙に掻い潜るのだ。これは確実に、ヨヒアムの組織の内部に内通者が居るのを意味する。

 しかしそれが誰か、さっぱりわからない。

 日本のいくつかの闇の組織に佐藤家を揺さぶる話を持ちかけてみても、みな、佐藤家と関わるのを嫌がった。報復が恐ろしいのだという。反対に止めたほうがいいと忠告される始末だ。兄の雅明は財産争いの脅威になるから、お前の好きにさせるのだろうが、ほかに関わるのはやめろ。佐藤家しいてはシュレーゲル一族に害なそうとして、無事だった人間は過去一人も居ないと。兄一人の売上代金で我慢しろと言うのだ。うなるほどの大金がすくそこにあるというのに、ソルヴェイは指を咥えてみているしかない。

 腹いせに、ソルヴェイは徹底的に雅明をいたぶりたかったが、商品だけに傷がつけられなかった。

「ソルヴェイ様?」

 フリッツの声に我に返り、ソルヴェイは余裕のある笑みを浮かべた。クイと雅明の顎を掬い、値踏みするように見下ろす。

「午後に貴方は新しいご主人様のところへ行くの。ちゃんと言う事を聞くのよ?」

「……はい」

 素直に返事する雅明にソルヴェイは満足した。アネモネに振り返る。

「出発の用意はできていて?」

「車の手配は済んでおります。運転はフリッツが」

「いいわ。アウグストを着替えさせておいてね。いつでもお相手ができるように、それも忘れないで」

「了解しました」

 

 雅明を落札したのは、東京から三時間ほど離れた都市にある、土地成金の夫婦だった。多人数でセックスをするのが好きで、しょっちゅうあの人身売買オークションを利用しており、今回はとびきりの美青年の雅明に惚れ込んで、かなりの資産を出して落札したという。遊び飽きたら転売するのだと思われた。

 夫妻の家は緑深い山の中腹部にあり、外からは伺いにくいように塀に囲まれていた。車を玄関につけてアネモネが来訪を告げると、応答があって頑丈な門扉が開いた。

 執事のような男が出迎えて、客間へ案内する。

 待ちかねていた夫妻は、映像で見るより遥かに美しい雅明の容貌に大喜びだ。

「ご満足いただけるように、しっかり調教済みです」

 ソルヴェイが説明すると二人は頷いた。

「それはそれは」

「今日もこのあとゆっくりお楽しみいただけますよ。いい買い物をされましたわ」

 夫の方の、いかにも嗜虐趣味がありそうな壮年の男は、小切手を配下の男にソルヴェイへ渡させた。ソルヴェイはそれが本物であると確認して、自分の革のバッグに入れた。

「お約束ですわ。ご夫妻のコレクションを拝見させていただけるのかしら?」

「かまいませんが、これからも良しなにお願いしますよ」

 にやにやと夫の男が笑う。夫妻は今までオークションで落札した人間を、この家の監禁部屋に住まわせているのだ。これからは雅明もそこに住むことになるという。夫妻の希望で昔のフランス貴族のような、やたらとごてごてとフリルがつけられた白いブラウスを着せられた雅明は、夫の男に腰を抱かれて歩かされた。その後をアネモネとソルヴェイがついていく。フリッツは待機を命ぜられた。

 表と裏と完全に居住空間が分けられていて、そこは指紋認証の鍵がかけられていた。

「ここへ他人を通すのははじめてですのよ」

 妻の、やたらと肥満した厚化粧の女が言う。アイシャドウをつけすぎているので、目の周りが真っ黒だ。彼女は雅明を先ほどからべたべたを触りまくり、それにうれしそうにする雅明の反応に喜び、きわどい部分にふれるようになってきた。

「おいお前、人前だぞ」

 夫の男が注意する。

「あら少しぐらいいいじゃないの。高かったのよ」

「まあ、当てられますわね」

 夫妻とソルヴェイが笑う。

 入った先は、一見佐藤邸のような洋式の華やかな内装が続いていたが、やたらと派手に飾りつけられているだけの、趣味の悪い内装だった。まるで装飾の見本市だ。

 ガラス製の扉の向こうに、全裸で十字架に縛り付けられている若い女が居た。卑猥なおもちゃが彼女の胸や陰部につけられていて、声はまったく聞こえないが、何かあられもないことを言っているのがわかる。

「あれは、経営が行き詰ったどこかの企業の令嬢でしてな。楚々とした美少女だったのに、今では娼婦顔負けの淫乱さです」

 夫の男が説明する。ソルヴェイは麻理子の自分を蔑みきった、令嬢然とした気高い顔を思い出す。あの女もこうしたかったのにと思う。

 しばらく歩くと、今度はまだ高校生ぐらいの少年がベッドに座っているのが見えた。夫妻の姿を見るなり駆け寄ってきて、ガラスの扉にへばりついて何かを言っている。

「これは、親が借金を苦に私に売りつけてきましてな。あまり味がよくないし顔もいまいちですから、あのオークションにかけようと思っております。どこかの風俗で売れれば元は取れるでしょう」

「すばらしいですわね。完全に防音になっておりますのね」

 感嘆してソルヴェイが呟くと、妻の女がそりゃそうよと頷いた。

「あの子達はすぐ大声をあげるの。いくら山奥でも外に聞こえては困りますからね」

「まあ。そんなにお楽しみなんですね?」

「金はいくらでもありますからな」

 夫の男がいやしく口を歪め、さらに奥に進む。突き当りの部屋は誰も居なかった。

「ここが雅明君の部屋だ。豪華だろう?」

 ガラスの扉が開かれ中に入ると、贅が尽くされてはいるが赤を中心としたどぎつい内装に加えて、さまざまな責め道具が配置されており、まるでちいさなSMクラブのようだった。

「本当に勉強になりますわ。ありがとうございます」

 心底感嘆の声をあげるソルヴェイに、夫妻はすこぶる満足そうだ。

「なになに、いつでもいらしてください。ふっふ」

「ほほほ」

「さあ雅明、お前のために用意した椅子だよ? 腰掛けなさい」

 夫の男が目をぎらつかせて、雅明を座らせようとする。

 肘掛に金の手錠がついているそれは、座る部分に妙なでっぱりがついていた。見るからに淫靡な椅子だ。

 その瞬間だった。

 されるがままだった雅明が俊敏に動いて夫の男をその椅子に座らせ、手錠をすばやくかけた。あまりの早業に驚く妻の女は、ろくな抵抗もできないまま、置かれていた金の鎖でぐるぐる巻きにされて、天蓋つきベッドの柱に括り付けられる。

「な、どういう……」

 ソルヴェイが目をアネモネに走らせると、アネモネは微笑みながら銃口をソルヴェイに向けていた。

「裏切る気!? ラウルがどうなってもいいというの?」

「ラウルはとっくに我々が救出した……」

 自我を抜かれたはずの雅明が、ゆっくりと近づいてくる。その目は打って変わって鋭くソルヴェイを射抜いている。後ずさりしたソルヴェイはスマートフォンを手にして部下を呼ぼうとしたが、アネモネの発砲によって破壊された。そこへフリッツが部屋へ走りこんできた。

「ご無事ですか!?」

 ソルヴェイはほっとした。

「いいところへ来たわフリッツ! この二人を処分して!」

 しかし、フリッツは足を止めて雅明を見ただけだった。

 ソルヴェイはそこで、部下二人の裏切りを知った。裏切り者はこの二人だったのだ。フリッツなどは何年も一緒に居ただけに、ソルヴェイはショックを隠しきれない。

「いつの間に……」

 バッグに忍ばせていた拳銃を、ソルヴェイはゆっくりと握る。

 雅明は苦く笑った。

「フリッツは私に調教された。ラウルとアネモネは、最初から婚約破棄なんてしちゃいない。保護したお前に見張りをつけていないわけがないだろう? 死んだはずの妻が生きていた……なんて頭から信じる馬鹿がいるか」

「そんな……。エリザベートは騙せたのに」

「あいつは私に揺さぶりをかけたかっただけだろうから、信じてたかどうかは知らない。そうそう。言っておくが、今裏で使われているメカニックは、ほとんどが私が考案したものだ。お前がいくらそれを改造しても、すぐにパスワードなど解読できる。佐藤邸の内部に入り込んでいろいろ探ってたようだが、あれ、みんな偽の情報だし。恵美の部屋の薔薇はわざとそのままにしてたけどね」

 分が悪いと悟ったソルヴェイは一転して、雅明の足元に膝をついて哀願した。

「私、ヨヒアムに脅されていたの。こうしなければ殺すって……。貴方もミハエルも、一旦売った後に必ず助けようと思ってたの、信じて!」

「ああ、そうだろうね」

 慈悲深い笑みを雅明は浮かべる。アネモネとフリッツは息を飲んだ。

 すばやくソルヴェイが雅明の懐に飛び込んで、トリガーを引こうとしたが、雅明は半瞬の差で身体をひねって避け、ソルヴェイから拳銃を奪い取り、ソルヴェイの背後から彼女の頭へ銃口を押し付けた。

「ちぃ!」

「ソルヴェイとミハエルを殺したお前を、私が許すと思うのか?」

 ソルヴェイの目が見開かれる。

「本当の二人は、ベルギーからシュレーゲルへ戻った時に、ヨヒアムの意をうけたお前にかかって殺されて、極秘に葬られた」

「そんなこと、どこで……知って」 

「似ているのも道理。お前はソルヴェイの従妹。お前達母娘は彼女と彼女の母を憎んでいた……違うか?」

「誰に……」

 雅明の美貌に凄みが増した。

「誰だろうな? それにしてもうまく入れ替わったな。私が数年前見ていたのはお前たちだ。東洋人の顔は似通っているから、エリザベートやほかの人間には見分けがつきにくい。ましてや、ソルヴェイの従妹のお前はよく似ていた。ご丁寧にさらに似せるために整形までして! な」

「…………」

「あのでっちあげの新聞は、しつこく監視を続ける私たちの目を欺くためと、ソルヴェイを殺した秘密でヨヒアムを強請ってきたワルターを、公然と始末するためだったとか……?」

 敵方の雅明が、ヨヒアム本人しか知りえない事を知っている。それの意味するところに女は戦慄する。

「……ボスを殺したわね!?」 

「お前を保護すると見せかけて、監禁していた時にね。お前もヨヒアムもシュレーゲルを舐めきっていたから、簡単だった」

 そう。黒の剣に入る前の雅明ならたやすかった。ここまでになっているとはヨヒアムも想像もしていなかった。故意にそう思わせるようにしていた雅明だった。

「なあソルヴェイの偽者。楽しかったか? 私の最愛の恵美をいじめてゆさぶって、奏と結婚させて……、私を高値で売りつけて……んん?」

 ごりごりと銃口を頭にのめりこまされて、女の顔は蒼白だ。

「あ、あれは……ボスに脅迫されて、仕方なく」

「何でも仕方なくか。じゃあ、お前が今これから殺されるのも仕方なく、だ」

「やめて! 私は死にたくない!」

「そうソルヴェイも願ったはずだ……」

 命乞いをするヨヒアムから聞いたソルヴェイの最期は、雅明の胸を後悔の爪で掻き毟らせた。彼女は最後の最後まで雅明とミハエルの助命を懇願し、目の前でわが子を撃ち殺された後、同じように殺された。

 ヨヒアムが、なぜ娘と孫をそんなに残酷に殺せたのか、雅明には理解できない、したくない。

 助けてと、ソルヴェイは雅明に何度も縋っただろう。来てくれる事を望んだだろう。

 それなのに雅明はその時、ベルギーでさ迷い歩いていただけだったのだ。

「私はね……、ソルヴェイとミハエルを失った時、もう失うものは何もないと思ったんだ。だけど恵美と出会って、また新しい恋をした。だがその恋を……彼女を、彼女の家族を、私の家族をまたお前達は壊そうとした。断じて許せない!」

 懇願がすべて効かないと悟った女は、別の手を考えた。

「め、恵美がどうなってもいいというの? 私からの連絡がなければ……」

「奏が佐藤邸にお前を送り込んだように、こちらも仙崎の家に手の者を潜り込ませている。奏はお前の渡した麻薬もどきの副作用で、恵美に手をつけられたのはたったの一回らしいな。だが私はそれも許せない。薬で意識を操られなければ、あいつは恵美を抱けなかったはずなんだから。仙崎も狙いがやって。どこもかしこも欲しがるからすべて失うのさ」

 憎悪をみなぎらせて女は雅明を睨んだが、絶対零度に凍りついた瞳の前には無力だ。

「あの世で罪を償うがいい」

 雅明がトリガーを引く。

 崩れ落ちた身体を雅明は蹴飛ばした。この女にかける情けは一片もない。また、ソルヴェイとミハエルに捧げる償いの一つにもならない。

 雅明は己の罪深さをよく知っていた。

 ソルヴェイとミハエルを不幸にしたのは、他ならぬ雅明自身だったのだから……。

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