天使のかたわれ 第47話

 そして現在に時は戻る。

「おい、これ飲めるか?」

 雅明がシロップ剤に水を混ぜた物が入っている吸い飲みを差し出すが、意識が朦朧としている奏は返事をしない。ただ、しとどに汗をかいて、息をか細く吸ったり吐いているだけだ。

「だれか他に人はいないのか! って、今摘み出されるわけにはいないんだよな。こいつも麻薬中毒とかばれるのヤバそうだし。くそ、アネモネを連れてくりゃよかった」

 雅明は一人でぶつぶつ呟き、たっぷり一分迷った。

「……こいつは佐藤圭吾じゃない、佐藤圭吾じゃない、奏じゃない、赤の他人だ、仕事関係の男だ。死にかけてるから助けるだけだ。恵美のためにもなるし貴明のためにもなる。佐藤圭吾じゃない、奏じゃない……」

 雅明は自分に呪文をいくつもかけ、しぶしぶ奏に口移しで薬を飲ませた。かなり零してしまったが最後には半分以上嚥下された。

 吸い飲みを置いた雅明は、自分の唇をごしごしと何回も擦った。

「最悪だ。よりにもよって恋敵の。佐藤圭吾そっくり男と……うううううっ。私が吐きそう!!! 絶対今夜は悪夢を見る~ッ!」

 恐ろしいほどのダメージを食らった雅明は、部屋の奥の洗面台で口を何度もすすいでうがいをした。敵地で何をしているんだと、貴明が見たら呆れそうだ。

 やりすぎではと思われるほどうがいをしたくった雅明は、よろよろと窓に手をかけた。

「空気を入れ替えるんだ。心を入れ替えるんだ」

 変な呪文を唱えて窓を全開にする。よく晴れている日だが真冬なので、凍てつく風が吹き込んできた。これぐらいしないと、雅明は己のダメージを回復できそうもない。

 さらなる精神の安定のために、携帯灰皿を出して煙草を吸う。

 二本ほど吸ったころ、ようやく奏がおちつき、

「俺だって最悪だ」

 と蚊のなくような声で呟いた。

「悪態がつけるようなら、症状は本当に軽そうだな」

 窓を閉めてエアコンの温風を強風に変え、雅明は机の上に座った。そして、ソファに寝転がっている奏を見下ろす。

「偽ソルヴェイはもうこの世に居ないから、あの薬は駄目だぞ。ちなみにお前が飲んでいたのは、麻薬の又従兄弟だ。あの女は、徐々に薬を強くしていって依存症を発症させ、抵抗できなくなったお前を操り、仙崎の会社を乗っ取ろうとしたんだ」

 奏は失笑した。

「やられたな。……だが、俺に……そんな価値があるわけない」

 仙花グループは親族が多い企業で、さらにいまだに年功序列の考えがしつこくのさばっている。いくら奏が現社長の敦史の息子で毎年黒字の業績をあげても、彼らを押しのけて頂点に立つのは至難の業だった。敦史の兄弟でも二人の叔父がおり、彼らの息子達が全員奏より年上で四人も居て、一番若い奏の順位は最下位なのだ。

「聞いてはいたが、カビが生えたような会社だな」

 雅明は煙草を携帯灰皿にしまった。

「ま、偽ソルヴェイは日本の事情に暗かったからな。佐藤に手を出してあの世行きだ。なあお前、あの女が偽者だって知ってたのか?」

「……どっちでもよかった。この苦しさから開放してくれるなら」

「阿呆か。だから麻薬依存に仕立て上げられそうになるんだぞ」

 こんこんとノックをする音がした。返答がないので不審に思った秘書の奈津が入ってきて、社員でもないうえ見覚えもない雅明に目を吊り上げた。

「どちら様ですか!? 関係者以外は出て行ってください!」

 奏が手をあげて奈津を制止した。

「俺が呼んだんです。佐藤グループの社長の兄に当たる方で、恵美の事でお呼びしました」

 奈津はしぶしぶ引き下がったが、それでも雅明を机から降りさせた。奏が言った。

「申し訳ありませんが、最近身体の調子がとても悪いので、数日仕事をキャンセルしたいのですができますか?」

「あ、はい。一週間ほどでしたら」

「一月は必要だ。それくらいなら支配人達にやらせれば乗り切れるだろ」

 雅明が口を挟み、奈津がむっとした。部外者に会社の経営を言われたくないのだろう。

 奏はしばらく考え込んだが、雅明に従った。雅明の言った期間は、そのまま麻薬を抜く期間を意味すると気づいたからだ。

「でも総支配人……。そうなるとあの方が」

「乗り込んで来かねませんね。なるべく俺の不在を知られないようにしてください」

 あの方とは誰のことか雅明にはわからないが、奏の立場をおびやかす親族の誰かだろうと察しがついた。

 奏は起き上がれるようになると、奈津に部屋を退出させた。

「お前、いつから心療内科にかかってたんだ?」

「恵美を知って……、半年ほど経った頃でしょうか」

「ふうん、そう長くはないな。医者はなんと言っていた?」

「ストレスからくる自律神経の狂いらしい、本当はもっと根深いと……」

 雅明は背もたれに凭れ、奏をじっと見つめた。どうやらここ数日薬が切れて、断薬症状にほとほと参っていたようだ。

「私が伝を頼って、療養所を案内してもいいが」

「……恵美から離れたくない」

「私が一緒ならいいが」

「お前と?」

 顔には明らかに嫌だと書いてある。雅明だって嫌だ。貴明や麻理子だって反対するだろう。だが、この数ヶ月奏と恵美を見続けた雅明には、そうせねばならない理由があった。

「正確に言うと、そのほか何人も一緒だ」

「それならいいが、俺の家族は連れて行きたくないし、お前の家族も嫌だ」

「恵美の家族は連れて行くぞ」

 奏はそれには異存ないらしく、頷いた。

 妙に素直なのが気になるが、これが本当の奏なのかもしれない。かといってそこで雅明は気を緩めたりはしなかった。 

「ところで今日、恵美の子供が、恵美と食事だと言っていたんだが、お前が許可したのか?」

「まさか!」

 寝耳に水とばかりに奏は目の色を変えて立ち上がった途端にふらつき、差し出された雅明の胸に倒れこんだ。

「お前の母親が呼んだらしい。自分が一緒なら大丈夫だとか言って……」

「冗談じゃない!」

 情報通の雅明も、表にめったに出てこない、美和子の病気を微細に知っているわけではない。だが知っている奏には大問題だ。貴明にそっくりの穂高を見たら、彼女の中で拮抗が生じ精神異常の発作が出るのは、想像に難くなかった。昔から美和子は、奏が少しでも圭吾らしくしないことをすると、狂ったように貴方は圭吾だと叫びながら奏を折檻したのだ。

 奏の説明に雅明は頷き、それならすぐ行こうと立ち上がった。

「俺も連れて行ってくれ……」

「お前はもう少し寝てろ」

「俺にしか母は止められない」

 雅明と奏は見詰め合った。

 本当なら奏は恵美を卑怯な手で奪い取った恋敵で、協力などとんでもない。だが、それが二人の愛する恵美に関わるとなると、話は違う。

「仕方ないな。恵美のためだ」

 雅明はまだふらつく奏に肩を貸し、地下の駐車場へ降りた。

「食事会とやらは何時から?」

「十二時三十分。食事会の場所の料亭は、飛ばせば間に合う」

 ナビゲーションに行く先が表示された。

 流れ行く車窓を、奏は焦りと絶望と悲しみで見つめた。

 子供二人を引き取ったら、別の一軒家を借りようと思っていた。同居していたのは敦史に認めさせるためだけだったが、それはもう不可能だ。恵美も限界を超えていて、このままでは彼女の心が壊れてしまう。

 恵美を愛している。幸せにしてやりたい。

 二人の仲を、敦史に認めてもらわなければ、仙崎の親族にも認めてもらえない。これから先の会社経営にも支障が出てくる。

 愛する人を取るか、地位を取るか。

 奏は人生の分岐点に今立っていた……。

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