天使のかたわれ 第51話
春休み。
結ばれた雅明と恵美、そして子供たちは佐藤邸の人々に惜しまれながら、田舎の古い家へ戻ってきた。子供たちは家を恋しく思っていただけに、大喜びした一方で、ナタリー達とはあまり会えなくなるのが残念だと、しきりに口にしている。あれだけ懐いて甘えていれば、そうなって当たり前だった。
一家についてきたのは、アネモネとフリッツ、そして奏だ。
奏はあれからもう一度恵美に頭を下げ、子供たちにも謝罪したが、よそよそしい雰囲気は常に漂っており、人懐こい子供たちも傍に近寄らなかった。石川の家に滞在しているが、二週間以上経ってもこちらへは姿を現さない。
「お父様にそっくりなんだけど、顔だけだよね」
美雪が辛らつに言う。
「兄弟だからって性格まで似てるわけないでしょ。雅明たちだってぜんぜん違うじゃないの」
恵美が言い返すと、美雪はおやつのケーキを突きながら、うーんと首を傾げ、
「でも、やっぱり貴明おじ様とお父さんはどこか似通ってる。あの奏って人はまったく別人だよ。赤の他人」
結婚したものの、どうも雅明のお父さん呼ばわりは耳に慣れない。一瞬恵美は戸惑ってから頷いた。
「……そうかもしれないわね」
「あのひと、いつまでとうさんの家にいるの?」
穂高が聞く。
「病気が治るまでよ。あんたたちも行くんじゃないわよ。遊びじゃないんだから」
美雪はつまんないのと口を尖らせた。
「あの人にはひどい目にあったのに。皆親切よね」
「だからあんたたちは雅明が好きなんでしょう?」
恵美が言うと、子供達は顔をぱあっと輝かせた。
「うん!」
「そうだよね!」
やれやれと恵美は思いながら、やっと戻ってきた日常にほっとしていた。
振り返ってみると、あっという間の出来事だった。
正人がなくなったころから現れ始めた求婚者。彼らに見張られるストレスと、限界を超えていた身体の不調に耐えているところに、突然雅明が現れた。雅明は現実を見せ付けるかのごとく貴明と麻理子を連れてきて、倒れた恵美と一緒に佐藤邸へ戻った。病気が治った頃訪れたギリシャで奏に出会い、誘拐され、日本で求愛を受けつつ監禁された。雅明が救い出してくれたかと思ったら、彼にはあの偽者のソルヴェイが居て、奏と手を組んだ彼女に苦しめられた。
「奏さんに脅迫されて結婚させられたかと思えば……、本人も偽者に踊らされていただけで被害者」
おやつを食べて子供たちが居なくなったリビングで、恵美は一人ごちた。
「何それ?」
とんとんと引き戸を叩く音と同時に、雅明が入ってきた。
「いらっしゃい。奏さんは?」
「石川の家にいる。こちらには絶対に行かないと言っている」
「そう」
結婚したとはいえ、雅明は奏のリハビリにつきあっており、この家に寝泊りすることはない。来ても一時間も居ないので、それなら奏も一度、一緒に来てはどうかと誘ったのだった。
「今はアネモネが相手してる。奏……、あいつ、草むしりが物凄く上手い。あっという間に庭が綺麗になった」
「へえ……」
奏はどう見ても都会育ちなので意外だ。
雅明にお茶を手渡すと、雅明は喉が渇いていたんだと言ってうれしそうに啜った。
「もう大丈夫そう?」
「ああ、回復に向かってる……。このままいけば、月末には東京へ帰れるだろうな」
「よかったわ」
心の底から恵美は言った。雅明も頷く。
「あいつも早く東京へ帰りたいだろう。恋敵の世話になるなんて、屈辱だろうし。私も佐藤圭吾にそっくりの男の世話なんぞ、本当ならしたくない。あの面見てるだけで思い出すから辛いよ」
恵美はむっとした。
「ひどい言い方」
「それぐらいの仕打ちを受けてるんだぞ。私は執念深いんだ。あいつ、七歳の私を家の深い池に突き落としたんだ」
目線で雅明が自分の家を指した。確かにあの池はかなり深そうなので、大変だったろう。
「そのほかに何をされたの?」
「いろいろだよ。まあ、ほとんど貴明が被害を蒙ってる。双子ってやつは不思議なもんでね、お互いの経験や気持ちを共有してしまう」
「そんなものなの?」
「ああ」
恵美は自分のお茶を啜り、湯飲みを置いた。
「貴明は十八歳ごろ大変だったのよ」
「知ってる。恵美ちゃんを巡って佐藤圭吾とドンパチ、大立ち回りを派手に演じて全治一ヶ月の大怪我、大学に仕事に色恋にヘロヘロだろ?」
なんという言い方だと思いながら、恵美は頷いた。
「ほぼ同じ時期に私も人生のどん底さ。酒と女に溺れてヒモ生活。じじい……アルブレヒト翁に助け出されたかと思ったら、闇の組織の女に誘拐されて組織に入れられ、まあ……ひどいもんだ」
「さらっと言ってるけど、随分な出来事に巻き込まれてるわね」
雅明は恵美に断ってから、煙草に火をつけて燻らせた。
「……ソルヴェイとミハエルを救うために必要でね。二人は裏の世界の人間だったから、救いたければ入るしかなかった。結局は無駄足だったがな」
雅明は暗く瞳を揺るがせ、黙り込んだ。
恵美は、じっと雅明を見つめた。
何かを言おうとして雅明は逡巡している。重苦しい何かを吐き出そうとして、それを出すことで恵美に与える影響を恐れているかのようだ。
煙草はどんどん短くなっていく。
迷うのは、雅明らしくない。
「どうしたの?」
「やっぱり言っておこうか。フェアじゃない」
「何を?」
開けていた窓から、冷たい風が吹き込んできた。まだ肌寒いのでそろそろ閉めるべきだろう。立ち上がった恵美は、それよりも先に雅明に手を引かれた。
「雅明?」
風は二人の髪をむちゃくちゃに弄び、テーブルに置いてあった新聞が、ぱらぱらと捲られながら落ちていく。
二階から子供の笑い声がするのは、先日買ったゲームを楽しんでいるからだろう。
雅明は恵美を見つめたまま、少し荒れた恵美の両手の甲にそれぞれ口付けた。官能の匂いはなく、どことなく神の前に懺悔する人間のようだった。
両手はそのまま雅明の胸に引き寄せられた。
どくどくと、雅明の力強い心臓の鼓動が響いてくる。
風が一瞬止んだ。
「偽者のソルヴェイと、ソルヴェイの父親を、私はこの手で殺した」
「────!」
恵美は逆らわず、雅明に抱きしめられた。
「どうして……?」
「二人が、私のソルヴェイとミハエルを残忍に殺したからだ」
「そう……なの」
おそらく血塗られたであろう手を持つ雅明を、恵美は不思議に怖いとは思わなかった。雅明の腕が震えており、まるで縋り付かれているかのように感じたのもあるが、かつて、弟の貴明が同じように恵美に懺悔してきたのを思い出したからだった。
あれは、貴明が捧げてきた想いを受け入れられないと、きっぱりと断った夜。
貴明は泣いていた。
何度も何度も謝っていた。自分などが愛してごめんと。ひどいことをしてごめんと。
(……貴明は、謝ってきたけれど、私に許しなど求めていなかった。ただ、私を解放しようとしていた)
恵美がうなずくはずもない、アメリカ行きに誘ったりして。
圭吾が亡くなった後、身体を重ねたのは、お互いの気持ちは友情でしか交わらないと確認するため……。
恵美は、雅明の腕を優しく解いて顔を見上げ、エプロンの端で涙を優しく拭ってやった。
「大丈夫よ……。ソルヴェイさんもミハエルくんも、今頃は天国で楽しく過ごして、あんたを待ってるから」
「そうだろうか?」
「決まってるでしょう。二人が何の罪を犯したというの?」
「そうだな」
まるで自分は罪を犯してばかりだと言わんばかりに、雅明はほろ苦い笑みを浮かべた。
黙ってその雅明に抱きつくと、雅明は先ほどのように強く抱きしめてこず、煙草を口にして壁に凭れた。
「生きることは罪を犯すことか」
「人を幸せにすることよ」
間髪いれずに恵美は言い、雅明の口から煙草を取り上げて、雅明の湯飲みに落とした。これ以上口にしていたら、火傷してしまう。
「その為に私を手に入れたんじゃないの?」
「もちろんそうだ。私はこの家族を守っていきたいし、また自分も幸せになりたい」
「それならもうこの話は終わり」
恵美は雅明の鼻に人差し指を軽く触れると、湯飲みを回収してキッチンへ入り、シンクに置いた。
雅明がついてきて、今度は背後から抱きしめてきた。
「愛している」
「私も愛してるわ」
頬に口付けられながら恵美は幸せ気分を味わったが、窓から丸見えなのに気づいて恥ずかしくなり、閉めようとして、見慣れない紺色の外車が家の前に止まったのを見た。
「……誰かしら? シュレーゲルの人?」
「いや、違うな」
呼び鈴が鳴った。
玄関に居たのは、見慣れない初老と若い白人男性二人だった。
初老の男性は恵美を見るなり、うれしそうに顔をくしゃくしゃにした。
「はじめまして恵美。私達は貴女と縁がある者です」
ドイツ語だった。雅明が通訳してくれる。
「縁……?」
「はい。私はドイツから、貴女のご両親について話に来たんです。特に貴女の母親、千代について」
恵美は雅明の先ほどの告白よりも驚き、足をふらつかせた。雅明が背後からしっかりと支えてくれなければ、その場で後ろへ倒れていたに違いない。
恵美は、信じられない思いでいた。
誰の子供か知りたくて、真実を渇望していた子供時代。
いつしか、親について考えることすら諦めたのに、それを知っている人間が突然目の前に現れたのだから……。
風は相変わらず強く吹き込んでくる。