天使のかたわれ 第52話

 驚きの後、恵美の心に生じたのは疑惑だった。

 今頃になって実の両親について話しに来るなど、作り話も良いところだと追い払うべきだ。本人すら知らない出生の話を、赤の他人の、しかも一面識も無いドイツ人が知っているとは、普通なら考えがたい。

 雅明を見ると頷いてくれたが、言ったのは正反対の言葉だった。

「あがってもらったら?」

「え? でも……」

 雅明は強引に恵美を押しとどめ、二階から降りてきた子供達が目を丸くしている前で、二人に家に上がるように促がし、さっさと応接間に連れて行ってしまった。

 ドイツ語でなにやら話す声がする。

「おかあさん。あの人達、おとうさんの家の人?」

 穂高が聞くのに、恵美は首を横に振る。

「違うわよ」

 親族ならもっと親しいだろう。取りあえずお茶を出さなければと思いながら、キッチンへ入った。風がやはり強く吹き込んでくるので、シンクの向こう側の窓を腕を伸ばして閉めると、美雪が言った。

「お父様の弟さんだ」

 来客用の茶碗を洗いながら窓の外を見ると、確かに遠くに見える石川の家の前を、奏が掃き掃除しているのが見えた。

 奏とずっと話したかった恵美は 来客用の茶碗を洗っていた手を拭いた。

「お話ししてくるわ」

「え? お客さんはいいの?」

「少しぐらい構わないわ。こちらが招いたわけでもないし」

「あの人、お母様に変な事しない?」

「雅明が黙ってないわよ。それにフリッツさんとアネモネもあの家に居るし」

「そっか。じゃあ私がお茶淹れよっか?」

「うれしいけどいいわ。貴方達は呼ばれるまで二階にいらっしゃい」

「はーい」

「はい!」

 奏は農作業をしていたのか、泥がついた作業服の上下だった。リハビリを兼ねてやっているそれは、雅明によると奏に良い効果をもたらしているらしく、それは今こうして見ると違いは一目瞭然だ。東京に居た時よりずっといきいきしている。

「こんなに沢山いただけませんよ」

「そう言わずに。これは天ぷらにも酢の物にもいいんだ。あんた、好きだって言ってたじゃないか。な?」

「源さんには敵いませんね」

 近所の老人から、採りたての山菜を載せた箕を押し付けてられて、奏は笑いながら受け取った。とても親しげだ。

「おや、恵美さん、こんにちは」

 老人が恵美に気づいて、挨拶をする。恵美も返した。

「こんにちは源さん。お二人が仲が良いって知りませんでしたわ」

「いやいや、この奏さんにいろいろ手伝ってもらってな。まだ渡せるような野菜はないから、たらの芽を持ってきたんだよ。あとで恵美さんの家にも持っていくよ」

「それはありがとうございます。子供達も喜びます」

 恵美が礼を言うと、源は自分の家へ帰っていった。

 改めて奏は恵美を見て、優しげに微笑んだ。

「久しぶりですね」

「初めて家の外に居るのを見たわ」

「もう元気になりましたし発作もありませんから。雅明さんから聞いているでしょう? 来週には東京へ帰ります」

「そうですか」

 一瞬、夫婦であった時の空気が流れたが、すぐに消えた。

「貴女が幸せそうで、良かった」

 心底うれしそうに奏が言う。

 恵美は切なくなった。

 仙崎奏は、貴明や雅明と同じように弱くて優しい男なのだ。誘拐や監禁をするなどという狂った行為は、誰よりもこの優しい男を切り刻んで苦しめていたに違いない。そんな罪を犯してまで自分を求めざるを得なかった奏の寂しい境遇に、心が締め付けられる思いだ。

 本来なら裁判で訴えて当然の犯罪だというのに、恵美はとっくに奏を許していた。

「きっと素敵な女性と、奏さんは幸せになるわ」

「居るでしょうかね。こんな極悪人に」

「奏さんの悪ぶりなんて、圭吾や貴明に比べたら可愛いものだわ。二人ともそれでも幸せになってるんだから、貴方もなれるはずよ」

 奏は傷ついた表情を浮かべた。

「貴女はどうして俺を許すんですか? 許すのは愛していないのと同じだとわかって言っているんですね」

「そうね。私は貴明も奏さんも許すけど、圭吾は一生許すつもりは無いわ」

 奏は辛そうに視線を落とし、深いため息をついた。

「ここまで残酷な言葉を、この先言われることはないでしょう。でも、俺のしたことを思えば当然の報いですから、一生受け入れて生きます」

「いいえ、貴方を愛する女性が、その罪から解き放ってくれるわ」

「そうでしょうか」

 やや投げやり気味に言う奏は、どことなく子供っぽく見えた。

 そうだ。

 奏が恵美に求めていたのは、理想的な母親像だ。だから愛せなかったのかもしれない。

 恵美は母親として奏を見つめた。

 傷ついた奏は、自分を愛してくれる人間が現れる未来を、信じられないのだろう。

 だが恵美は必ず現れると確信していた。全ての罪を受け止めて前へ進もうとする姿は、素晴らしく魅力的に人の目に映る。この先、奏がずっと誰からも愛されないとは思えない。

 罪を告白した雅明の薄茶色の瞳が、不意に恵美の脳裏をよぎった。

 恵美は話題を変えた。

「会社はどうなっているのですか?」

「ホテルを一つだけ死守しましたが、他はみな取り上げられました。仙花グループからも名を消されて、誰も俺を助けないように父が根回しをしたようです」

「ひどい……」

 心配そうな恵美とは対照的に、奏の顔は晴れやかだった。

「俺はやっと自由を手に入れた。もうこの先の人生では、父からも母からも干渉されない。俺は俺で居られる。そのきっかけを作ってくれたのは、間違いなく恵美さん、貴女だ」

 山鳥が甲高い声で鳴いて飛び去っていった。

「本当に大丈夫なのですか?」

「どん底からのスタートですが、こんな俺を慕って、何十人もホテルで待ってくれています」

「何十人……」

 奏は空を見上げた。

「ええ、秘書の山下奈津が、電話で先日教えてくれました。……俺は、こんなに軽やかで温かな気持ちを、生まれてこの方味わったことがありません。俺は全てを手放して、一人ぼっちだと思っていました。でもそうではなかったのだと」

 不安定な奏はもう居ない。本物の自信を持った男が確かにそこにいた。

 うれしそうに口を綻ばせている恵美に、奏は手を差し出した。

「……幸せに、なってください」

「貴方も」 

 恵美はそっと握り返す。

 いつの間にかアネモネとフリッツが、玄関の戸口に立っていた。フリッツは、エプロンをかけてしゃもじを手にしている。これからお昼なのだろう。

「雅明は来客よ」

 恵美が言うと、アネモネは、

「そのようね。そちらで食べてもらって構わないわ」

「了解。それじゃ、奏さん……さようなら」

 手を放す。

「さようなら」

 奏は一瞬だけ微笑み、すぐに恵美に背を向けて家へ入っていった。

 完全にぷつりと、二人の間にあった糸が切れる音が、恵美の頭の中に響いた。

 それは、一抹の寂しさを含んでいた。

 

 家へ戻ると雅明がどこへ行っていたんだと、少し責める口調で睨んできた。それに恵美は詫びながら、一方でどうして面識の無い外国人を入れたのかと睨み返した。

「これだよ」

 雅明が差し出したのは、彼が貴明から受け取った圭吾の手紙だった。

「何これ」

「奴が亡くなる前に書いたものを、数年後の決められた期日に届けるというシステムで、お前が佐藤邸へ帰る前日に届けられた」

「……そんなものが」

 恵美は受け取り、開封されているのを見て渋い顔をした。雅明は肩を竦めた。

「仕方ないだろ。見るからに怪しいんだから。貴明や佐藤グループに悪意を持つ輩が、悪さを仕組んでない手紙とは言い切れないんだから」

「……そうね」

 中の手紙を開き、入っていた数枚の写真を見る。現像は新しいが、元の写真が古いとみえて色あせて見えた。自分に似た若い女性と、見知らぬ若い男性、そして外国の男性二人の写真だ。外国の男性の一人は、今来ている若い男性によく似ていた。

「あの若い人いくつなの?」

「それはあの年寄りの若い頃さ。そっちのもう一枚の外国人は、私の元妻のソルヴェイの父親。ヨヒアム」

「ええ?」

 驚く恵美に、雅明はくすくす笑った。

「恵美とソルヴェイが似ていて道理。その書類を見ればわかるさ。佐藤圭吾、あいつはお前の出生の秘密を死ぬ前に暴いた。恐ろしいほどの深い愛情に恐れ入るね。まあ、負ける気はしないけれど」

 書類をさっと取り上げた雅明は、取り返そうとする恵美の手首を引いて、その頬に優しく口付ける。

「書類の内容は、あの二人から直接聞こうよ? あの人たちは、この書類以上に真実を暴いてくれるだろう。やっと諸悪の根源のヨヒアムが死んでくれたから、二人は来た。お前の幸せのために」

「幸せ?」

「ヨヒアムって奴は、私が知っている中で一番の悪党だ。。奴に比べたら、佐藤圭吾や貴明なんて善人どころか天使様だね」

 雅明は書類を封筒にしまい。早くお茶を持っておいでと言ってキッチンから出て行った。

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