天使のかたわれ 第54話

 鉛のように重苦しい雲が垂れ込めているせいで、すっきりしない。

 恵美はそっとため息をついた。

 あれからすぐに恵美達は日本を立ち、ドイツに来ている。

 初めての海外旅行の子供たちは、車窓を通して次から次へ目に入ってくるドイツの街の風景に、いちいち大はしゃぎだ。

 一緒に来たリヒャルトとは用事があるからと空港で別れ、フィリップの運転する車で高速道路を走り、シュレーゲルの街へやって来た。確かに見慣れない風景で楽しい気持ちもするが、これから先のことを思うと緊張してくる。

 雅明も同じで言葉は少ない。子供たちに何かを聞かれると優しく答えてはいるが、やはり気掛かりなのだろう。

 風を感じて横を見ると、美雪が勝手に窓を開けていた。

「窓を閉めなさい」

 恵美の言葉を聞き、二人は素直に窓を閉めた。

 シュレーゲルに入ってずっと続いていた街なみも、家々も少なくなり、森の中へ入った。森というより山かもしれない。

 くねくねと曲がる道は一本道で、すれ違う車もなく、走っているのはこの車だけだ。時折、鹿などが現れて子供が歓声をあげる。

 雨が降って来たので、フィリップがワイパーを回した。

 森はまだ抜けない。それどころか深くなった気がする。

「森がずいぶん続くのね。シュレーゲルの館はまだ遠いの?」

 雅明が答える前にフィリップが言った。

「もうシュレーゲルの館の敷地に入っていますよ。この森を抜けたら館があります。……アウグストだけ降りますか?」

「何を言っているんだか、皆で行くに決まってるだろう」

 雅明が当然だろうという口ぶりで言う。

「伯爵は貴方の結婚を許されていないと聞きましたが」

「だから行くんだよ」

 雅明は怒ってはいなかったが、不機嫌そうだった。子供たちはそれ敏感に感じ取り黙り込む。館が近づいてきて、さすがの雅明も軽口を叩く余裕はなさそうだ。恵美が二人にお行儀よくするんですよと言うと、二人とも神妙な顔で頷いた。

 シュレーゲルの親族会議で、当の雅明が不在なのに、伯爵号を雅明に譲るかどうかが勝手に話し合われているという電話が、雅明を怒らせ苛つかせていた。雅明は何度も何度も断り続けているのに、まだ性懲りもなく自分を担ぎ上げようとしている人間がいるのが我慢ならない。

 伯爵号を譲られるということは、シュレーゲルにおける権力のすべてを譲られるということだ。そうなると早速やり玉にあげられるのは、配偶者の恵美であり、子供達でもある。やたらと誇り高い一族たちが、恵美達がドイツ人ではないと難癖をつけてこないはずがない。そしてあのエリザベートを押し付けられ、住みたくもないここへ無理やり定住させられるに決まっていた。

 国際電話で危機を伝えてくれたのは、親族会議に出ていた貴明だった。本人不在で決めることではないと、会議を中断させてくれている。

 やっと森を抜けた。

「わあ、お城だ!」

 美雪が素敵素敵と言う通り、童話に出てきそうな、西洋風の歴史の重みを感じさせる、シュレーゲルの大きな館が見えてきた。佐藤邸とは大きさの規模がまるで違う。この館にたどり着くまで、敷地の入り口の森から、ゴルフ場や、牧場などを抜けて、さてまて川まで渡り一時間ほどかかっている。

 シュレーゲルのトップになればこれらも、幾多の企業も他の各界の権威も手に入るというのだから、しがらみを何よりも嫌い自由を愛する雅明にとっては、本当に有難迷惑だ。それに付随する嫉妬や妨害の凄まじさは想像に難くない。

 門が開けられ、恵美達は一旦そこでフィリップと別れた。彼は入る資格がないのだという。

 恵美は送ってくれた礼を言い、

「あとで伺います」

 と言った。フィリップはにこりと笑う。

「お待ちしてますよ」

 このドイツ行きには、恵美の両親と、ソルヴェイ親子の墓参りも兼ねている。

 フィリップを見送って玄関へ入ると、あのエリザベートが早速姿を現した。

「よく来たわねアウグスト」

「来るしかないだろうが。余計な画策をするな」

 雅明は文句を言い、恵美達を守るように前に出た。

「そんなに警戒しなくてもいいわよ。何もしないしする気もないもの」

「信用できない。ギリシャでの仕打ちを思い出すとな」

「アクセルが脅してきたのよ。この三人に何かしたら、一切の縁を切るとね。アクセルはアメリカの経済界にとても明るいから、彼を手放すのはシュレーゲルにとって痛手なわけ」

「ふん」

 エリザベートは恵美達三人に冷たい視線を送ると、こちらよと踵を返した。

 館の中は驚くほど静かだった。

 歩きながら雅明が言った。

「やっぱりじじいの仕業か」

「そうでもしないと来ないでしょう? おじいさまに伯爵号を譲る意思がないとわかりきってる貴方を、こちらへ呼び戻す方法なんて」

 エリザベートは、こちらに寄り付かない雅明が悪いと言わんばかりだ。

「そんなにまた悪くなってるのか?」

 声が極端に小さくなる。

「内緒だけれど……もって数か月とお医者様が。時々痴呆も入るようになったの」

「そうか……」

 会話はドイツ語でなされていたので、恵美に話の内容はわからず、頭にも入ってこない。ただ、ただ、西洋の芸術の極致を詰め込んだような、館の中の素晴らしさにひたすら圧倒されていた。場違いだという気持ちが強くなり、子供二人がそれぞれの腕を掴んできたので、恵美は二人を抱き寄せながら歩いた。佐藤邸にもあった、異質なものを排除しようとする空気が漂っている。

(圭吾なら、自分の家みたいに平気な顔で歩くんでしょうね)

 小心な自分にはできそうもない。

 曲がった角の部屋の扉が突然開き、雅明より少し年上ぐらいの男性が出てきた。いかにもといった感じの西欧紳士だったが……。

「おや、そちらは誰だい?」

 紳士らしくなく、恵美達をじろじろと見てくる。

「お兄様には関係ないわ」

 エリザベートがそのまま素通りしようとするのを、男性が引き留め、話す言葉を英語に変えた。

「関係ないわけないだろ。どう見てもそっちの子供は、アウグストそっくりじゃないか」

「……アクセルの子供よ」

 面倒くさそうにエリザベートも英語で言うと、男性は驚いたようだった。

「は?」

 男性にしげしげと覗き込まれた穂高は、怖がって恵美の腰にしがみ付いた。次に男性は恵美を見、なるほどと言った。

「佐藤圭吾の愛人か」

 愛人。

 その言葉はこれまで何回も恵美を傷つけたが、今ほど傷つけられたことはない。口惜しさと恥ずかしさで顔が赤くなるのを抑えきれない。穂高を見るだけで貴明との関係や、圭吾との過去を知っているということがやりきれない。どこまで広まっているのだろうか。

(でも、だめ、ここで怖気づくわけにはいかない。私がちゃんとしなきゃ……)

 恵美は動揺する内心を押し隠して、きっと顔を前に向け続けた。

 雅明が怒気を漲らせてずいと男性に足を進め、何かを言おうとするのより早く、背後から男性を威嚇する声がした。

「彼女を侮辱する命知らずは誰だ?」

 恵美が振り向くと、貴明が立っていた。

「貴明……」

 貴明は恵美を一瞥して、男性の前に立った。

「彼女の今の境遇を作ったのは僕だからな。僕に喧嘩を売るのならいつも買うが」

 鋭く睨まれて、男性は目をぱちぱちとさせた。

「……いや、侮辱するつもりはなかった。確認しただけだ」

 男性は悪気は本当になかったらしく、頭を貴明にも恵美達にも下げた。エリザベートは何も言わない。それに恵美は違和感を持った。彼女ならもっと騒ぎ立てて侮辱し、甚振るだろうと思っていたのだ。

「不愉快な思いをさせてすまなかったね。私はフランツ。さっきエリザベートが言ったように、このエリザベートの兄にあたる」

 手を差し出されたので、恵美は同じように名乗り手を握った。子供たちにも差し出されたので、穂高は怯えながら、美雪も警戒しながら手を握る。

 一行は再び歩き始めた。

 シュレーゲル伯爵アルブレヒトは、相変わらず顔色は悪かったが椅子に座って恵美達を待っていた。恵美は緊張するまいと頑張ったが無理だった。アルアブレヒトの持つ威厳は、これまで会ったどの人間よりも重く鋭く、貴明や圭吾とは比較にならない。国の違いなのか人の格の違いなのかはわからないが、瞬時に飲み込まれてしまう。それでも震え上がらずに済んだのは、雅明や子供たちのおかげだ。

「よく来た」

「呼ばれたから来たんだ。旅費も馬鹿にならないから、あとで請求させてもらう」

 雅明が軽く文句を言った。

「何を言っとるか。お前にははした金だろうが」

「私はシュレーゲルを継がない。貧乏なんだよ」

「……ふん。お前を焚きつけるにはそのキーワードしかないからな」

 雅明は腕を組んで、壁にもたれた。

「シュレーゲルのお偉方が、闇の世界に入ってる、それも半分以上日本人の私などに伯爵号を継がせるなんて認めるわけがない。本当に話し合われている内容は、この穂高をシュレーゲルの人間として認めるかどうかじゃないのか? なにしろ貴明の血を引いているんだからな」

「認めると皆言っている。だが……」

「声高に権利を主張されたら困る、だろ。馬鹿げた話だ。じじい、年を取りすぎてだいぶ耄碌したらしいな」

「アウグスト、言葉が過ぎるわ!」

 エリザベートの言葉を無視して雅明は続ける。

「言っておくが、私にとっても貴明にとっても、シュレーゲルなんぞなんの価値もないんだよ。既存の権利などいらないし、過去の栄光を自分が背負いたいとも思わない。皆、自分自身の才覚で勝ち得たものでなければ、意味はない」

 アルブレヒトはそれはわかっていると頷いた。

「それをわかっているからこそ、お前が欲しいのだ。誰よりもシュレーゲルを具現化しているお前がだ」

「いらないね。いい加減に観念してくれ。私は日本が好きだ。恵美を愛している。私の夢は日本の家で愛する妻と子供たちで、ささやかでも幸せに暮らすことなのさ。企業経営も重苦しい栄光もいらない。私はおのれを知っているよ、私は光にはなれない、決してだ。生まれた時から私は弟の貴明の影だ」

「アウグスト……」

 それでもアルブレヒトは、それなら伯爵号を譲らないとは口にしない。ギリシャから無理やり連れてこさせた時、称号など自分の代で終わらせたいと言っていたくせに、本音はこれらしい。頑固もここまでくると賞賛ものだった。会話はドイツ語でなされているので、恵美には理解できないが、アルブレヒトが子供っぽくごねているように見えた。

 ちらと貴明を見ると、貴明は吹き出しそうになるのを堪えているようで、視線を窓の外に逸らしており、エリザベートもフランツも困ったように顔を見合わせていた。

 それに気づいたアルブレヒトは咳払いをして、貴明とフランツとエリザベートを見た。三人はおとなしく部屋を出ていく。

 五人だけになった。

「じじい。紹介する。こちらが私の妻の恵美、長女の美雪、長男の穂高だ」

 雅明が英語で恵美達を紹介した。

 アルブレヒトはにこりとも微笑まずに、それを受け、一人一人をじっと見つめた。穂高に至っては泣きそうになっている。恵美は静かに穂高の背中を撫でてやり、最後に自分をじっと見つめるアルブレヒトを見返した。するとアルブレヒトは、さらに深く覗き込んでくる。先ほどのフランツと同じだ。

「恵美。お前はこのアウグストの妻になるのが、どういうことかわかっているのか?」

「わかっています」

「自信たっぷりだな。この家やエリザベートを見て何もわからんかったのか?」

「ここは、雅明の家ではありません。雅明の家は日本の石川の家、ただ一軒です。雅明の妻は私です」

 雅明が抑えきれぬ笑いを零す。ばつが悪そうにアルブレヒトは雅明を見、そして苦笑した。

「……確かにそうだ。だが、血筋と家柄は消せん」

「確かに消せません。ですがそれは、自分の生きるスタート地点を示しているのに、過ぎないのではないでしょうか? 例えば私は捨て子でした。ですが養ってくれた義理の両親が私にそのスタートを示してくれました。だから今の私が居るのです。雅明も同じです」

「たとえその身にどんな血が流れていようとか?」

 アルブレヒトの瞳に鋭さが増す。

「もし仮に……私の両親が罪人であったとしても、同じことを思います。消せない過去の上に新たな自分の生きる意味を見出すだけです」

「お前は佐藤圭吾の愛人であり、アクセルの想い人でもあった。父親の違う子供も二人も生んでいる。世間はお前に冷たかろう」

「冷たい人もいますが、それ以上に温かい人も幾人もいます」

 麻理子やナタリー、みちえやアネモネを恵美は脳裏に過ぎらせた。

「子供やアウグストがそのせいで悪く言われてもか」

「それが私の罪なら耐えましょう。そして償いましょう」

 自分がとても罪深い女だということを、恵美は知っていた。圭吾を愛して雅明も愛しているとは、なんという業の深さだろうか。

「私は、自分の罪ゆえに、ずっと母親としての存在であろうと思っていました。ですが……」

 恵美はちらりと雅明を見た。雅明は誇らしげに微笑んでいる。

「この雅明が現れたんです。雅明は、温かな家庭を配偶者と一緒に作るという、私の夢を思い出せてくれました。私は今、とても幸せです」

 アルブレヒトはじっと恵美を見つめたままだ。恵美も視線を外さない。

「……こんなふうに、雅明を育ててくださったのは、シュレーゲル伯爵、貴方でしょう?」

 アルブレヒトは、はっとしたように目を見開き、初めて恵美に対して表情を動かした。

「本人から聞きました。雅明の過去を。雅明を育て、また、地獄から救い出してくださってありがとうございます」

 恵美はきっちりと頭を下げた。

 頭をあげて再びアルブレヒトを見る。目を逸らしてはならなかった。

 無言で見つめあう。

 部屋の壁に掛けてある大きな時計が時を刻む音だけが響いていたが、時計の針が午後二時を指し、涼やかな金属音を二度たてた。

 先に目を逸らしたのはアルブレヒトだった。

「……もう二度とここには来るな」

 そう言って、手のひらをひらひらとさせる。この癖はシュレーゲル特有のものなのかと思うぐらい、それは雅明や貴明のするしぐさとそっくりだった。

 廊下へ出ると、貴明達三人が待っていた。

「終わったのか?」

「終わったよ。ここには二度と来るなだと。後は頼む」

 貴明にこたえた雅明に、エリザベートが冷たい笑みを向けた。

「貴方達はおじいさまに認められなかったってわけね。当然よ。薄汚い闇の組織に使った男に、日本人の猿と子猿達なんて、シュレーゲルの恥だもの」

 恵美の制止する声は間に合わなかった。雅明の手が翻り、強かにエリザベートの頬を打つ。貴明が彼女を支えなければ、以前と同じように床に接吻していただろう。

「恵美を侮辱するなと言ったはずだ……」

 悔しそうに睨むエリザベートに一瞥もせずに、雅明は恵美の腰に腕を回し、貴明にあとは任せたと言って歩き始めた。子供たちは目を丸くしていたが、後をついてくる。

 玄関から外へ出ると、雲の切れ間から太陽の光が幾筋が伸びていた。

「雅明、女性に手をあげるのはどうなの?」

「私の愛する人間を目の前で侮辱する馬鹿には、当然の報いだ。何度警告しても止めないのだから、馬鹿の上塗りにもほどがある」

 美雪は痛そうだったねと言い、でも、と付け加えた。

「このお屋敷の人冷たい感じ。あのお爺さんも……。ここ、嫌だなあ」

「ぼくも」

 不安そうに見上げてくる子供たちに、雅明はにっこり笑った。

「安心しろ。二度と来ることはないよ」

「本当?」

「本当さ」

 わあいと二人は手を挙げた。

 子供達にはわからない。あのアルブレヒトの態度こそが、雅明達に対する無言の祝福であることに……。

 雅明は内心でアルブレヒトに感謝し、場を設けてくれた貴明に礼を言った。

 恵美は複雑な思いで館を振り返った。

(エリザベート、貴女はひょっとして……)

 考えて恵美は心の中で首を横に振る。さあ、次はいよいよ両親たちの墓参りだ。やっと二人に会える。

 雨が降っているのに、恵美の心には太陽の光が差し込んでいた。 

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