天使のかたわれ 第55話

 タクシーを呼び、恵美達はリヒャルトの館へ行った。シュレーゲルの館から三キロほど東にあるその館はこじんまりとしていたが、それでも大きい。応対に出てきた老執事は恵美を見て目を丸くし、フィリップやリヒャルトに笑われた。

「しつ、失礼いたしました。旦那様から伺ってはおりましたが、ここまで千代様に似ておいでとは思っておりませんでした」

 老執事は顔を真っ赤にして頭を下げ、また皆に笑われた。あまりにも真面目なのでおかしいのだった。

 雅明が玄関をぐるりと見まわし、リヒャルトに話しかけた。

「貴方はここにお住まいではなかったと思うが」

「ええ、ここから数キロ離れた所に住んでおりましたが、親族の勧めもあって此方へ引っ越ししました。兄の代の使用人の大半は辞めてしまいましたが、この執事を入れて数人は残っています。皆、千代やソルヴェイを知っていますよ」

「騒々しくてすみません」

 フィリップが謝った。

 ちらほらと年のいった使用人が、こちらを覗いているのを言っているのだろう。行儀いいとは言えないが悪意はまったくなく、皆懐かしそうにしている。老執事は雅明の許可を乞い、その数人に挨拶させた。

 彼らを下がらせると、リヒャルトは本当に昔のように穏やかな屋敷になったと、うれしそうに言った。ヨヒアムが居た頃は、怪しい闇の組織の人間が出入りして、物々しい雰囲気だったらしい。

「ソルヴェイと千代が使っていた部屋へ案内しよう。二人は同じ部屋を使っていた」

 老執事を先頭に皆、歩き始める。

「私は入ることすらできなかったな」

 雅明が呟き、今日も入れてもらえるとは思わなかったと言うと、リヒャルトは感慨深いものがあるらしく、わずかに涙ぐんだ。

 老執事が言った。

「……ソルヴェイ様は貴方と出会われて、幸せそうにしておいででした。最後は御不幸でしたが……それでもお優しいあの方は、貴方を恨んでなどおられないでしょう。こうして新しい伴侶をお連れになったのも、喜んでおいでに決まっています」

 恵美は老執事に尋ねた。

「ソルヴェイさんは、私のことをご存知でしたか?」

「ご存知であられたかどうかは存じ上げません。千代様は記録に残されたりもしておられませんでしたし……」

 執事の話に、リヒャルトが割り込んできた。

「君のことは千代と私と、この執事しか知らないよ」

「そうですか」

 千代もリヒャルトも、恵美のことは悲しすぎて封印してしまいたかったのだろうか。そうでなければ辛すぎて、生きていけなかったのかもしれない。

「さあ、こちらです」

 老執事の手で、一番西にある部屋の扉が開けられた。

 館の奥方や令嬢の部屋にしては、それらしい調度品が見られず、妙に殺風景だった。奥深くの壁に、肖像画が二つ飾られていた。小学生ぐらいの少女と、大人の女性だ。

 雅明がその絵を見て、リヒャルトにもの言いたげにした。

「私が隠して保管していました。兄のヨヒアムは君を激しく憎んでいた。この二つは君が描いたものだった」

 説明するリヒャルトの横を通り過ぎ、雅明は自分のサインを指でなぞった。

 目の前のソルヴェイは生きているようにきらきらと輝かんばかりで、描き手の雅明のソルヴェイへの愛情が強く溢れていた。大人のソルヴェイは赤ん坊を抱いていた。それがミハエルなのだろう。

「……この絵は、返品されなかったが、燃やされたか捨てられたと思っていた」

 ぽつりと雅明が呟く。

「私が買ったのだよ。千代に見せてあげたくて」

 リヒャルトが言った。

 雅明はありがとうと笑顔で振り向き、再び絵を見やった。恵美の心を嫉妬がちくりと棘を刺したが、それくらいは許されるだろう。嫉妬は雅明を愛している証だ。

 恵美の知らない青年の雅明を、この絵のソルヴェイは知っている。

 あの偽ソルヴェイとは全然違う、優しそうで儚げな女性だ。雅明はあのソルヴェイを、即座に偽者と見破ったに違いない。顔はそっくりでも表情が違いすぎる。

 子供たちは不思議そうに絵を見上げていた。

 雅明はドイツ語で何かを呟いた後、さあ墓参りをしようと日本語で言った。

 四人の墓は館から数キロ離れた場所にある、リヒャルトが最近まで住んでいた館の裏手にあった。  

「千代はともかく、信二とソルヴェイと子供の遺体を、ヨヒアムは共同墓地に捨てろと言ってきた。私にはとてもできなかった。しかし、おおっぴらに埋葬もできなかったもので、こちらにひっそりと……」

 リヒャルトが詫びた。

 恵美の母の千代と父の信二、ソルヴェイとミハエルの墓は、きれいに掃除がされており墓も同様だったので、恵美や子供や雅明達はすぐに切ってもらった薔薇を墓に供えられた。

 薔薇の芳香が品よく漂い、四人にふさわしいと誰もが思う。

 ここに至るまでの長い年月を思い起こして、自然に恵美は頬を濡らした。

「おばあちゃんとおじいちゃんのおはかなの?」

 穂高が聞き、生まれのねと恵美は説明した。育ての親の房枝たちの墓は季節ごとにお参りしている。

 恵美はやっと自分にたどり着いた。

「……ごめんなさい、お母さん、お父さん。私はずっと捨てられたと二人を恨んできました。でも、お父さんは私を知らず、お母さん、貴女は私を生かそうと頑張ってくれたのですね」

 恵美は両親の墓に頭を下げた。

 自分が愛されて生まれてきたのだと、両親が愛し合った証なのだと、恵美はそれがうれしくてたまらなかった。涙が溢れて止まらず、それを雅明がハンカチで拭いてくれる。

「ねえお母様、圭吾お父様を愛してた?」

 美雪が聞く。

「愛してるわ」

 すると穂高が泣きそうな声でぶっきらぼうに言う。

「僕なんか入らない子だったんでしょ」

 恵美は微笑んで穂高を抱きしめた。

「貴明も愛してたわ」

 二人はうれしそうに笑った。

「正人お父さんも愛してたよね?」

「そうね……お兄さんみたいに愛してたかな。正人も妹にしか思えないって謝ってたし、本当にしょうがない奴だったわ、あいつは……。でも、私を……大切にして、貴方達を思って……だから……皆」

 泣き止もうと思っても涙は止まらない。

 幸せゆえの涙なら、いくら流しても構わないだろう。

 皆優しい目で、恵美を見ている。

 そして、ソルヴェイとミハエルの墓にも頭を下げる。

 雅明は何も言わなかったが、その眼にはいろんな感情が浮かんでは消え、優しいものを映していた。

 墓石を同じように見つめる恵美達は、目に入れていなくてもそれは何故かわかった。

 ソルヴェイはきっと、雅明が愛を込めて描いたあの絵画と同じ、優しい笑顔を向けていてくれている。

(雅明をきっと幸せにします)

 だから、雅明を愛することを許してほしい。

 お姉さん……と、声が聞こえた気がした。

 優しい風が頬を撫でた。

「恵美」

 不意に雅明の腕が伸びてきて、恵美ははっとした。同じように子供たちを抱き寄せる。

 いつの間にか、見知らぬ男たちに取り囲まれていた。明らかに一般人とは思えない、異様な雰囲気を醸し出している。

「それが貴方の愛しい奥方なの?」

 男たちの間から、やけに美しい女が現れ、こちらに向かって歩いてきた。

 いつの間にか、雅明の右手に拳銃が握られている。

 子供たちは震えてしがみ付いてくる。恵美も緊張して震えた。こんな怖い光景は生まれて初めてだ。

 リヒャルト達は男たちに羽交い絞めにされた。

「トビアスの指示か?」

 雅明が言う。

「違うわ。あの人は貴方を大切にしているもの……」

「アンネ……」

「愛しい奥方の前で、名前を平気で呼ぶのね。屈辱だわ」  

 アンネは恵美をじろりと見た。そして値踏みをするように上から下まで見た。

「私の何が、この女に劣るのかしら」

「何も劣らないさ。お前はお前で、恵美は恵美だ」

「でも貴方は、私を愛してくれない」

 わざとアンネは、恵美にわかるように英語で話した。恵美は初めて見るアンネが、雅明と関係しており、さらに雅明を深く愛していることを知った。

「ねえ恵美。貴女とソルヴェイはそっくりよね。アウグストは、ソルヴェイの面影を貴女に見ているだけではなくって?」

「何を……っ!」

 雅明が言うより先に、恵美はこたえた。

「そんなわけないでしょう。本人ではない人間にそれを探しても、絶望するだけよ。私は私でソルヴェイさんはソルヴェイさんだわ」

 アンネの目に殺気が籠った。危険だった。それなのに恵美は挑むようにアンネに歩み寄った。子供たちを後ろに庇いながら。

「私を殺して雅明が手に入ると思うのなら、やってみなさい」

「アウグストに愛されている自信たっぷりね」

 アンネは馬鹿にしたように微笑む。恵美の身体は拳銃に怯えて震えていたが、心は震えていなかった。雅明は自分のものなのだ。それだけは誰にも譲れない。

「当たり前でしょう」

「ソルヴェイと一緒にね」

「それの何が駄目なの?」

 恵美の答えにアンネは言葉を詰まらせ、持っていた拳銃を下した。

 雅明の、自分の身体に回す腕に力が籠った。大丈夫だ。この腕に頼っていれば自分も子供たちも安全だ。

 そう思わせる力強さだった。

「私はソルヴェイさんも愛している、雅明が好きなのよ」

「私だってそうよ! それなのにどうして……」

 アンネが叫び、雅明を見る。悲しいほど雅明は、冷たい瞳でアンネに拳銃を向けていた。ためらいもなく撃つ気なのだ。

「今ここで恵美達を殺したら、私も死ぬよ。ソルヴェイも恵美もいない世界なんて、生きる意味がない」

「私がいるじゃないの! ソルヴェイが死んだ時のように慰めてあげる」

 雅明はアンネを拒絶した。

「アンネ……、あの時ほど私たちは若くない」

「たった数年前じゃない」

「私はこの数年で、人より年を取った。私を年相応の男にしてくれるのは恵美だけなんだよ」

 アンネの手が挙がって拳銃が轟音を放ち、その弾が雅明の右腕を掠った。鮮血が飛び散ったが、雅明は拳銃を放さない。

 ぽたぽたと地面に血が滴り落ちていく。

「ではシナリオを書き換えてあげる。私もいっしょに死ぬの」

 雅明が苦笑した。

「古臭い映画のようなセリフを言うな。だが、そんなことをしても同じだ。私はお前が好きだが、お前が望むような愛は返せない」

 今度は雅明の右の頬を弾が掠めた。

「アンネ。もう終わりにしよう? 私はお前とは仲間だけれど恵美のようには愛せない。お前はそれをわかっているから、こんな馬鹿な真似をするんだ」

「知ったような口を利かないでよ!」

 アンネは泣きながら叫ぶと拳銃を放り出し、その場に座り込みわんわん泣き出した。恵美は子供のようなアンネに呆気にとられて雅明を見上げると、雅明は肩を竦め、怯えている子供たちに謝ってもう大丈夫だと言って安心させた。

「アンネ」

 男達の中からトビアスが出てきて、アンネの背中を優しく撫でた。アンネはそれを嫌がったが、最後には大人しく横抱きにされる。

 トビアスがゆっくりと歩いてきた。

「ひどく騒がしい結婚祝いだな」

 そう言いながら、雅明は拳銃をおさめた。

「すまなかったな。殺せるわけがないから好き勝手にやらせてしまった。君たちも悪かったね」

 トビアスが恵美と子供たちに優しいまなざしを向けたが、トビアスがどれだけ隠そうとしても隠し切れない、得体のしれない闇が子供たちに緊張を強いたので、子供たちは見上げるだけだった。恵美も同じだ。

 ため息をつき、トビアスは雅明を睨みつけた。

「お前には監視をつける。解放されると思うな」

「わかってるよ」

「お前たちは夫婦そろって老若男女誑かしまくるからな……、ま、頑張れ」

「えらく親切で薄気味悪いな」

「ありがたく思ってるんなら、キスの一つぐらいしろ」

「仕方ないな」

 雅明が恵美をちらりとみる。恵美は黙ってうなずいた。

 目の前で雅明がトビアスとアンネに口付ける。

 仕事なのだからと恵美はおのれの心に言い聞かせたが、かなり内心は複雑だった。

 雅明は、このトビアスという男とも身体の関係があるのだと、わかってしまった自分がうらめしい。

 ぐったりとしたリヒャルト達の代わりに、雅明が車を運転し、館へ戻った。

「いつでもいらしてください」

 リヒャルトが言い、恵美達は必ず来ると約束する。

 再びタクシーに揺られながら、恵美は雅明に聞いた。

「私たち、石川の家に住むことになるのかしら」

「そうだな。お前たちが今住んでいるのは借家らしいし、石川の家へ来た方がいいだろう。なに、近所すぎるから特に変化はないさ、な?」

 雅明がバックミラー越しに美雪と穂高に聞くと、二人はうんと頷いた。もう先ほどの銃撃のショックは抜けたらしい。雅明が現れる前まで、親子三人で怪しい男たちを追い払っていたので、こういう危険な修羅場はいくつもあったのだった。とはいえ、拳銃を持ち出すような人間はいなかったのだが……。

 タクシーはそのままシュレーゲルを出て、空港の近くにあるホテルに着いたのは夕刻だった。子供たちは夕食を食べた後すぐに眠ってしまった。

 バスルームでシャワーを浴びていると、雅明が入り込んできて、恵美はびっくりした。

「ちょ……狭いから嫌なんだけど」

「気にしない気にしない」

「私は気にするわよ!」

 いくらスイートルームで部屋が広く分かれていても、子供たちが居るところで、男女のことはしたくない。それなのに雅明は恵美と自分に泡を塗りたくり、愛撫し始めた。

「も……ほんと……っん!」

「昼にね、怖い目してたから」

 キスしていたことだろう。恵美は口付けようとしてくる雅明から顔を背けたが、雅明はそれをとっくに見越していて、隙をついて口付けてきた。

 こうやって火をつけられると、もう止まらない。恵美は瞬く間に身体を燃え上がらせ、でも声を必死にこらえて雅明にしがみついた。

 雅明は巧みだった。

 狭い浴室で恵美を抱えて何度も達せさせた後、温めの湯を張った浴槽で恵美を己の慾で貫いて揺さぶった。たまらない甘美な愉悦を恵美は訴え、雅明はそれに応えてくれた。

 いつの間にか広いソファに移動していて、そこで抱き合っていた。

 気づいたのは、やっと雅明が慾を開放してくれ、小さく息づいたそれがじんわりと広がるのを感じたからだった。

「おそらくは、フリッツと一緒に住むことになる」

 かすれた声で雅明が言う。妙にそれが色っぽくて、恵美は雅明に口付けた。

「嫌じゃないのか?」

「……それが条件なら仕方ないでしょう。アネモネは?」

「近所に住む」

「大家族なわけね」

 雅明の手のひらが乳房に伸び、柔らかく揉みしだく。解放されたはずの慾がまた固くなっていて、再び貫かれて恵美は悶えた。

「幸せになろう?」

「当たり前じゃないの……」

「ささやかで平凡とはいかないのは、仕方ないのかな?」

「貴方と私だもの。でもいいの。あそこで雅明と子供たちとで暮らせたら……それでいいの」

 本心だった。

「そうだな」 

 雅明も頷く。

 二人は夜遅くまでひっそりと、それでも激しくお互いを求めあった。

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