天使のかたわれ 第56話(完結)

 シュレーゲルの館では、貴明がまだ寒いというのにテラスのベンチに腰掛けていた。エリザベートがそんな貴明にお茶を持って来た。

「アクセル、風邪ひくわよ?」

「もう何年もひかないな。でも、お前に風邪引かれると、伯爵に何か言われそうだ」

 貴明はエリザベートが居る室内に入った。

 ぼんやりと無防備な表情をしている貴明を、エリザベートは不思議そうに見た。

「アクセルはどんな人に対しても、隙を見せないと聞いたのだけど」

「……人は選んでるよ。リシーは害にならない」

 ソファにだらっと横たわった貴明がくすくす笑う。エリザベートは温かい紅茶をテーブルの上に置き、貴明と向かい合わせに座った。

「アウグストか恵美に聞かなかったの? 私がギリシャ旅行でどんな意地悪したか」

「可愛い意地悪だったみたいだな」

「……偽物ソルヴェイに騙されて、馬鹿みたいだったわ。奏はうまく引っ掻き回してくれたみたいだけど、あきらめちゃったみたいだし……」

 エリザベートは深くため息をつき、紅茶を飲んだ。

「リシーにはもっとお似合いの男が現れるよ」

「そうかしら」

「雅明は恵美しか見えてないし、もうあれは誰がなんと言おうと別れないよ」

「そんなのわかってる。でも、我慢できなかったのよ。私はもう二十年以上アウグストを愛してるのに、たった数分で彼の心を奪うような女に負けたくなかったんだもの」

「数分ではないけれど、それには経験があるな……はは」

 貴明は寂しそうに笑って、エリザベートを見つめた。

「僕たちは似ているな。勝ち目の無い恋にみっともないほどあがくんだ」

「麻理子はどうなの?」

「あがいたさ。でも麻理子は僕に振り向いてくれたからね。だからリシーにも必ずいるはずさ、振り向いてくれる相手が」

「もう無理よ。三十を過ぎてしまって、誰も相手になんてしてくれないわ……」

「三十過ぎの女が好きって男もいるだろうよ。それにリシーが振り向いてくれるのを、待っている男がいるかもしれない」

 エリザベートは窓の外を眺めて、それならいいのだけどと、少しだけ微笑んだ。

「もうアウグストに恋するのは疲れたの。だから思い切り嫌われてやる事にしたの。下手な慰めが言えないくらいにね。案の定二回も殴られたわ。女扱いすらしてくれない冷たい男よ」

「……大成功だったみたいだな」

「恵美も子供も私の事が嫌いになったみたいだから、せいせいしたわ」

 エリザベートは悲しそうに呟き、そっと目頭を押さえた。恵美が見たら、別人かと思うか弱さだった。

「馬鹿だな、リシーは。もっと自分を大事にしないとね」

「いいのよ。もう二度と彼らとは会わないでしょうから。目の前で惚気られるのは地獄だわ」

 貴明は、あまりに自分に似ているエリザベートを不思議に思う。

「あーあ、女伯爵なんて私のガラじゃないのに。経営者はともかく」

 シュレーゲルの伯爵の称号を、エリザベートが継ぐ事に正式に決定したのだ。痴呆の症状が出ているアルブレヒトは、その決定には参加していない。

 ノックの音がして、執事がエリザベートに一枚の紙きれを手渡した。目を通したエリザベートはそれを貴明に手渡す。

「……うらやましいわ、何故アウグストは自由になれるのかしら」

「そうだな、がんじがらめの僕達は嫉妬を覚えるね」

 貴明は、その紙きれをひらりと床に落とした。

「『黒の剣』のトビアスも甘いのね。組織を抜ける男は殺すべきじゃないの?」

「ずっと『黒の剣』と敵対していたヨヒアムを葬ったら解放か。ま、監視はつくだろうけどね」

「監視と言う名前の……ガードがね……。どこまで愛されてるのよあの人たち、腹が立つわ」

 貴明は勝手に部屋の棚から酒の瓶とグラスを取ってきて、手酌で強そうな琥珀色の酒を満たした。

「僕はずっと雅明がうらやましかった。何故こうも人の心をとらえるのが上手なんだろうとね。あの恵美を一瞬で落としたのが、一番ムカつくね。身体はものにできても、心は絶対に奪えないんだよ恵美は」

「彼女は、アクセルも好きだったんでしょ?」

「……母が子供を思うように……ね。恵美に魅せられる者は皆そうだ」

「アウグストもそうなのかしら」

「さあね」

 エリザベートは自分のグラスを持って来て、貴明と同じように注いだ。

 二人は雅明と恵美に乾杯した。

「リシー、悪酔いするぞ」

「可愛くない女ですからね。うわばみなのよ」

「麻理子もうわばみだが綺麗で可愛い。だからリシーも可愛いし美しい。酒の強い女は安心する。男に落とされにくいと安心していられるから」

「恵美は弱いの?」

「弱すぎるよ。だから雅明のように、いつもそばに居られる男でないとね。仕事優先の僕では駄目なわけ」

 エリザベートは上品にお酒を飲み干した。

「母のようにアクセルを愛していたのだから、いいでしょ」

「すごく傷つく……」

「早く日本へ帰って、溺愛している麻理子に慰めてもらう事ね。そういえば彼女臨月でしょ? それなのによく貴方ここに来たわね」

「仕事をおざなりにするような亭主は、離婚だと脅されてね」

「見事に尻に敷かれているわね。ふふふ」

 上機嫌にエリザベートは笑った。

 貴明はふと思う。

 前にこんな清々しいけれど一抹の寂しさを覚えたことがあった。

 そう、義父の圭吾が亡くなって、恵美が佐藤邸を出た時だ。

 ──恵美、今度こそ幸せにおなり……。

 自分のかたわれの未来に幸せが満ち溢れていることを、貴明は強く願った。

 

 季節は移り変わり、真夏の太陽が照りつける夏になった。

 相変わらずうるさいくらいの蝉の声が、開けられている二階の窓から家の中へ降り注いでくる。午後になったら一 層やかましくなるだろうなと、雅明は思いながら絵筆を取っていた。

 階下から恵美が作っている昼食の匂いが漂ってきた。同時に会話も聞こえてくる。

「穂高、お父さん呼んできて。フリッツさんは今日は外出でいないのよ」

「僕、今、盛りつけてるから無理だよ」

「私も駄目~。今、学校から帰ってきたばっかりだから動けない」

「はいはい」

 呼ばなくても筒抜けなのにと雅明は口元を楽しそうに歪める。ややあって、階段を上る恵美の軽やかな足音が近づいてきた。

「雅明、御飯できたわよ。あんたの好きな素麺と天ぷらにしたけど」

「それはうれしいね」

 雅明は絵筆を置いた。キャンパスには相変わらずわけの分からない抽象画が描かれている。だが明るい楽しくなるような感じがする、いい絵だ。

 風が少し強く吹き、暑さを吹き払ってくれた。

「窓を閉めておいた方がいいかもしれないなあ……」

「まだこれくらいなら大丈夫でしょ」

「そうだな」

 机の上に置かれている紙に、雅明は重しをした。そして恵美に軽くキスをしてから一緒に階下に降りていった。

 紙は夏の風を受けて、少しはためいた。

 その紙には愛が綴られている。

 ──── 恵美へ

 この手紙を受け取る頃、お前の隣に私は存在しているだろうか。居るかもしれないし居ないかもしれない。ただ一つだけ言えるのは、確実に私はお前の中で永遠に生きているだろうなという事だけだ。そして私の中にも恵美は永遠に生き続ける。

 黙っていたが私には弟が居る。私を捨てた母は結婚して今も生きているらしい。だが会いたいとは思わない。一度弟が会いにきたのだが、私はすぐに追い返した。

 私は『佐藤圭吾』として生きていくと美雪と同じ五歳の時に決めた、もう誰も愛さないと決めたはずだった。

 それなのに私はお前を深く愛している。どうしようもない程愛している。

 不思議なのだが、会いたいと言ってきた弟を思い出すたびに、無性にお前を抱きしめたくてたまらなくなる。何故なのだろうな。

 恵美、お前にも父母は存在する。詳しい内容は同封されている書類にすべて書かれている。これを読む時、やはりお前が私と同じ想いを抱いてくれるように私は祈っている。

 恵美、お前がずっと幸せでいられるように……。

 最愛の妻へ 佐藤圭吾 ──。

 第四章 未来へ 終わり

 【天使のかたわれ 完】

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