天使のマスカレイド 第01話

 冷房がいささか効き過ぎているスーパーから出た千歳を、夏特有のむわりとした熱気が押し包んだ。入れ替わりに部活帰りの男子学生達が、まるで涼を取りに来たかのようにはしゃいで店内へ入っていく。隣接している駐車場の車はアイドリングなど知らないように、皆冷房を効かせて熱い排気を周囲に撒き散らし、それが店の裏側にあるクーラーの室外機の群れが吐き出す熱気と一緒になって、夏という季節をさらに強調するのだった。

 千歳が両脇に抱えているエコバッグの一つは保冷バッグだが、あまりの暑さに二十分先のアパートまでもつかどうか心配になる。後方から歩いてきた子連れの若い主婦は、幼児をおんぶしながら両手に荷物を持っているにも関わらず、千歳の横をあっという間に通り過ぎ、先のマンションの曲がり角へ姿を消した。おそらくあのおしゃれな外観のマンションに住んでいるのだろう。千歳は駐輪場にある中古の古い自転車の後方に二つのエコバッグを括り付け、背負っていた小さなグレーのリュックサックから自転車の鍵を取り出して開錠した。午後の二時という時間帯は敬遠されるのか、自転車置き場に千歳以外の人影はなかった。

 自転車に乗りペダルを扱いだ。田舎の商店街はシャッターが下りている店が多く、貸し店舗と書かれているくたびれた貼紙が、寂れた物悲しい雰囲気を漂わせていた。スーパーと、うるさく騒ぐパチンコ店だけがこの古びた商店街で唯一活気を見せている。

 商店街通り過ぎると自動車が行きかう県道へ出た。大きな陸橋が架かっていて、ここを自転車で上るとペダルに石がついたかのように重いったらない。太陽の熱がアスファルトを焼き、自転車のタイヤのゴムを焼いてしまいそうな錯覚に陥る。間違いなく今横転したら、すりむいて怪我するどころか太陽の熱で火傷をするだろう。息を荒く吐きながらなんとか橋の一番上までペダルを扱ぐと、今度は自転車はいきなり蘇ったかのように下り道を走り降りていく。頬に当たる風は生ぬるいがとても気持ちが良かった。

(……こんな田舎に来るなんてね)

 県道を通り過ぎると田んぼばかりの田舎道になった。アスファルトで一応舗装はされているが、道幅は車一台が辛うじて通れるくらいの狭さだ。この細い田舎道の先に千歳が数日前から住んでいる古いアパートがある。わずか四部屋しかない鉄筋コンクリートの建物は、昭和の高度成長期に建てられたものらしい。千歳はアパートの横にある自転車置き場に自転車を置いて、鍵を掛け、荷物を両手に持って自分達が住んでいる二階の部屋を見上げた。同居人が帰っている様で黒い自転車が隅にきちんと置かれている。

「千歳ちゃんおかえりなさい。暑かったでしょ」

 不意に背後から声をかけられて、千歳は荷物を取り落としそうになった。一階に住んでいる専業主婦の三上理絵(みかみりえ)がくすくす笑いながら立っている。その腕には生後5ヶ月になる理絵の娘、葵が眠っていた。

「ぼうっとしているから声かけたのよ。熱中症になっちゃったのかと思ったわ」

「まだそこまで衰えてませんよ。葵ちゃん今日はよく寝てるみたいですね」

「夜に夜泣きしたらごめんね」

 葵は最近夜泣きが始まり。理絵は寝不足そうに目を瞬かせている。大変なのと言いながらも夫婦の仲がむつまじい理絵を一瞬千歳は眩しそうに見やり、保冷バッグからカップのバニラアイスを一個手渡した。

「これ先日のスイカのお返し……にもならないけど、どうぞ」

 理絵はうれしそうに笑いながら受け取った。

「ありがとう。あの綺麗な旦那様とはうまくいってる? 前と変わらず無表情なんだけど、さっき帰っていらしたみたい」

「あー……気にしないでください。うまくやってますんで」

 千歳は深く追求されるのを恐れ、アイスが溶けると美味しくないと理絵を部屋へ押し戻し、会話を強引に打ち切った。近くの森から聞こえるアブラゼミの声がやかましい。一緒に叫びたくなるのを我慢し、ひびの入ったコンクリートの階段を一段一段あがった。建物の影に入っても暑さは変わらない。千歳はためいきをつきながら自分の部屋の鍵を開けた。

「なんでいるんだろ……」

 狭い玄関の隅に薄汚れたよれよれの男物の運動靴がある。狭いバスルームからシャワーの音がするので、同居人は汗を流しているのだろう。

 アパートは古い割には70㎡ある2LDKだ。玄関のドアを開けるとまず左手にバスルーム、続いてトイレがあり、廊下を挟んで右手に6畳の和室がある。廊下の突き当たりがリビングダイニングになっていて、その隣がまた6畳の和室になっていた。玄関に近い方の和室が千歳が使っている部屋だった。

 冷蔵庫に食材を入れているとバスルームの引き戸が開く音がして、足音がリビングへ入ってきた。千歳は入ってきた同居人の男に顔を上げた。

「シフト変更したんですか? 将貴さん、確か今日は夜勤でしたよね?」

 将貴と呼ばれた同居人の男は、タオルで濡れた頭を拭きながら無言で頷き、開いている冷蔵庫から冷えた麦茶が入っているボトルを取り出した。

「お茶ぐらいいれますよ」

 千歳が棚のグラスを取ろうとするのを、将貴はまた無言で制して自分で取り出し、静かにグラスをテーブルにおいて麦茶を注いだ。干渉をすべて拒否する将貴に千歳は手を焼いている。そしてそのまま自分の部屋に戻ろうとするので、千歳は慌てて声をかけた。

「お昼、そうめんとカツ丼とどっちがいいですか?」

 そこでやっと将貴が千歳に振り向いた。将貴は親譲りの金髪と青色の目を持つ美しい若者だった。ただ、その双眸には生気が無く、感情というものがいちじるしく欠けていた。

『どっちもいらない』

 声は無く、唇だけが動いた。

「でも……」

 夏ばてになるから食べたほうがいいと言おうとした千歳は、すぐに背を向けた将貴に口を噤んだ。その背中にある無言の拒絶の壁はまだまだ崩せそうにない。将貴の後姿は、すぐにリビングの奥の和室へ消えた。その部屋には絶対に入らないようにと言われており、将貴はアパートにいる時間の大部分をそこで過ごしていた。従って会話らしい会話をした事はこの数日間で皆無だ。階下の理絵の部屋から、わずかに葵の泣き声が響いてくる。泣き声は母に甘えていると明らかにわかるもので、千歳は壁を隔てた下にある彼女達の温かな生活がうらやましくなった。この部屋にある音といえば、おそらく将貴が家に帰ってすぐにつけたクーラーの音と、外から漏れ聞こえてくるアブラゼミの五月蝿く鳴く声だけだ。音がもっと欲しくなり、千歳はリビングのテレビをつけた。ニュースの時間帯でさして面白くもないが、音がないよりましだ。千歳は自分一人のためだけの昼食作りに取り掛かった。

 4家族が入っているこのアパートは、左の上側が老夫婦で下側に若夫婦が住んでいた。右側の上が千歳達で下が理絵達一家だ。みなそれぞれ結婚しているのだが、千歳達は事情が違う。何しろ将貴に初めて会ったのはほんの数日前であり、本当は結婚などしていないのだから。

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