天使のマスカレイド 第02話

 結城千歳(ゆうきちとせ)は、高校卒業と同時に地方から東京近郷の食品工場へ就職した。地元を離れたのは東京への華やかさに憧れたためでもあり、一方で夢を掴むチャンスが多く転がっているように思えたからだった。夢といっても何かのプロになるとかそういうものではなく、都会でいい男を見つけて結婚するという幼さに満ちたもので、世間知らずの田舎娘を食い物にしようという連中には絶好のカモに見えた事は間違いない。

 当時の千歳は地面に足がついていないという表現そのままの人間で、高校を卒業してちゃんと会社で働いているというだけで、立派な大人だと思っている子供だった。ラインで流れてくる食材をチェックして機械をあやつりながら、その無防備さで工場内の男達を惹きつけていた。

『結城ちゃんって他の女と違ってお高くとまってないし、素直でものすごく可愛らしいよね』

 そう言ってさわやかな笑みで千歳を魅了したのは、工場の女子社員の中で一番人気があった鈴木たかしだった。鈴木は千歳の受け持っているラインを含む五つのライン専門の管理をしていて、役職は係長、年はまだ二十六歳で独身だった。役職についているという事も、さわやかな男らしい容貌も、甘い言葉を自分にだけ囁いてくれるのも男と付き合った経験のない千歳には酷く魅力的で、鈴木と同棲してすべてを捧げるのに一週間もかからなかった。それなのにだまされていると気付くまで七年もの年月が必要だったのだ……。

 結局そうめんにした千歳はリビングの小さなローテーブルに鉢を置き、テレビに向かって一人麺をすすった。そうめんは一応二人分つくり、一つはラップに包んで冷蔵庫へ入れた。将貴が食べた事は一度もなく捨ててばかりだが、そうしないとなんだか悪い事をしでかした気分になる。

 いつも思うが将貴は日がな一日あの部屋で何をしているのだろう。テレビを観ているわけでも、音楽を聴いている風でもない。肉体のトレーニングをしている様子もなく、和室は常にしんと静まり返っている。寝ているのかもしれないが、それだと寝すぎだと思う。

『兄さんは心因性失声症だから、何も話せないよ。もっとも昔からあまり話す人じゃなかったから大差ないけどね』

 将貴の弟の佐藤佑太(さとうゆうた)はそう言って笑っていた。佑太には兄の将貴のようにすべてを拒絶する冷たい壁はなく、人を惹きつけて止まない魅力的な笑顔をいつも浮かべている男だった。しかしその笑顔は作られたものであり、人の心を掴みやすくする見せ掛けの物だと初対面で千歳は見破った。何故なら鈴木と同種の臭いがぷんぷんしていたし、ひょっとすると鈴木など足元にも及ばぬ分厚い仮面であったのだから。千歳が佑太よりも悪い人間であったならそ知らぬふりをして騙せたが、残念ながらそこまで千歳は人間がこなれていない。あっさりとそれは佑太に伝わり、相手の興味を強く引いてしまった。

 佐藤佑太の経歴は輝かしいの一言に尽きる。幼い頃よりその英才の一端を見せ、何ヶ国語も流暢に操り、スポーツも学業も万能で、友達がとても多い。彼の育った家が、貴族の血を引く華やかな一家だった事もその才能に拍車をかけた。父親は佐藤グループという不動産業を営む大企業の社長で、後継者となる一族の男子にはとても厳しかった。普通の者なら耐え切れない要求を佑太はいとも簡単にやって見せ、海外の難関大学をスキップで卒業し、父親の会社へ入社した彼は、神業といっても過言ではない早い出世を遂げた。エリートの宝庫である佐藤グループで、人に反感を抱かれること無く、今では立派に代表取締役として企業経営をしている……。年は今年で二十七。まさしく天才としか言い様がない男なのだ。

 そんな男が経営している会社へ、派遣会社の掃除係として入ったのが千歳の運の尽きだったのかもしれない。普通の社長なら、正社員でもないうえ特に有能なわけでもない、また書類などを作成して自分の形跡を残すわけでもなく、ひっそりと社屋を磨く千歳など目に入れないはずだった。それはほんの偶然の重なりの結果で、ある日千歳は残業を言い渡されて、佐藤グループの支社内の応接室を掃除する事になった。ただ、千歳は普通に掃除していただけなのに、たまたま忘れ物を取りに来た佑太に紅茶を入れるように頼まれ、面倒くさいなと思いながらも断れずに隣接している給湯室で紅茶を入れて、応接室の椅子に座っている佑太に差し出しただけだ。

『地獄を見てきたっていう目をしているな』

 作業に戻ろうとした千歳は突然そう言われ、一瞬トレイを左脇に抱えたまま固まった。佑太は紅茶を優雅に口元へ運んで飲み、これは美味しいと微笑む。初対面の人間に向かって言う言葉ではなく、気持ち悪くなった千歳は作業を手早く済ませて応接室を飛び出した。一目で自分の内面を見破ったのは、鈴木の手ひどい裏切りの後はこの佑太が初めてだった。

 翌日、千歳は再び同じ応接室に掃除に行けと管理社員に言われた。用事があるから残業は無理だと言うと、一番最初にしろお前に言っているんだと言われ、千歳は嫌に重くなった胸を抱えながら応接室に入った。するとそこには昨日の男……佐藤佑太が居た。しかも今度は秘書と思われる若い男性と一緒に。

「やあ来たね。おはよう。そこへ掛けてくれる?」

 部屋へ入るなり千歳はにこやかな笑顔を浮かべた佑太に言われた。

「おはようございます。ですが、私は掃除をしに来たんです」

「掃除に呼んだのではないよ。派遣会社には言ってある。さあ掛けて」

 佑太の前の黒革のソファを示され、仕方なく千歳は掃除用具を部屋の隅に置き、ソファの横で一礼してから浅く腰を掛けた。

「早速本題に入ろうか。君の事は調べさせてもらった。結城千歳二十五歳。出身は長野県。十八歳で地元の商業高校を卒業後、東京にある食品工場で勤務。そこで出会った鈴木たかしと七年間同棲し、結婚も秒読み段階だったが、数ヶ月前に結婚資金五百万円を奪われた上一千万円の借金を押し付けられる。鈴木は逃亡して行方不明。女が居てその女と海外へ逃げたものと思われる。借金は運悪く闇金融に証書を売られて膨らんでいる最中で、日夜借金取りに行動を見張られている。昼は派遣会社で清掃員として働き、夜は工事現場で交通誘導員をしている。睡眠時間は毎日4時間弱。アパートは派遣会社の借り上げ、借金の返済に給料の大半が消えており、一日一食摂るか摂らないかの劣悪な環境で生活している」

「……ひとつ抜けています。両親に勘当されています」

「ああそうだった。あんまりひどいんで忘れてた」

 はははとやたらと明るい笑い声が部屋に響いた。千歳は佑太が笑い終わるのを待ってから口を開いた。

「それでなんですか? わざわざ派遣社員をどうこう言うのはおかしいと思いますけど」

「うーん……困るんだよね。そういう毛並みが悪すぎる社員が派遣でも来ると。うちは一応毛並みがいい企業だし」

「そうですか」

 千歳は自分のスマートフォンを灰色の作業服のポケットから取り出した。派遣会社の電話番号がそこに入っている。

「ん? 何? なんで電話なんか出してるの?」

「都合が悪いとの事ですので、退職します」

「今辞めたら、君、今度こそ風俗なんじゃないの?」

「しませんよそんなの。自分に色気がない事はよく知っておりますので」

 ピ、ピ、と音を立てて、千歳は電話番号を検索していく。佑太がそれを見やりながら長い足を組み、その上に両手を組んで背もたれに凭れた。

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