天使のマスカレイド 第03話

「ああ、面接して断られた所に、そういうセクハラする馬鹿建設会社があったね。大気建設だったっけ? 下ネタがんがん飛ばされても笑顔でいないとだめだとか言ったんだってね、そこのクソ面接係。断られて正解だったよ。だって、そういう色気馬鹿ばっかり取っては半年で手放すの繰り返してる、女をキャバ嬢扱いしている男尊女卑会社だからねー。基本建設会社の男って女を馬鹿にしてるのが多いから仕方ないけど」

「それは貴方の偏見でしょう。そうじゃない所も多いですから」

「へえー」

 短縮で派遣会社に電話をすると、千歳は一身上の都合でたった今退職する旨を管理社員に申し出た。管理社員は当然激怒したが、決まったのだからは仕方がないとだけ言い、すぐに通話を切ってポケットに戻し、ソファを立った。

「これで御社には迷惑は掛からないと思います。では失礼します」

「話はまだ終わってない。本題に入ってもいないよ」

 二、三歩歩きかけたところを呼び止められ、千歳は佑太を振り返った。彼はもう笑っていなかった。

「とってもおいしい話があるんだ。君は借金から開放されて、頑張り次第で一千万円手に入れられる」

「美味しい話には必ずとんでもない裏がありますから、お断りします」

「そうとげとげしくしなくてもいいよ。僕は闇金融じゃないし、慈善事業をするわけでもない。それなりに厳しいからなり手がなくてね。君みたいな人ならやれそうだなと思ったから声かけてるんだ。まあとにかく話を聞いて」

「…………」

 給湯室に姿を消していた秘書が、二人分のコーヒーをトレイに載せて運んできた。話が長くなりそうなのと、おそらくこの男は話を聞かないと開放してくれそうもないと悟った千歳は、仕方なくソファへ腰をおろした。

「まず僕の家族関係から話しておこうか。僕が君についてを隅々知っているのに、君が知らないのはフェアじゃないし。僕の名前は佐藤佑太、企業を経営している」

「え……」

 千歳は驚いて身体ごとのけぞった。目の前の男が重役であろうとは察していたが、まさかこの会社の経営者だとは思っていなかった。佐藤グループは従業員が一万人を超える大企業だ。そこの社長が話を持ちかけているとなれば驚いても無理もない。

「本邸に妻の美留(みる)がいて彼女は妊娠八ヶ月。そこには会長となって経営から退いて病気療養している父の貴明(たかあき)と、母の麻理子(まりこ)が住んでいる。双子の妹……咲穂(さほ)は結婚してドイツにいるから今日本にはいない」

「…………」

「そして同居していないけど、兄がいる。名前は今、石川将貴に変えてるけどそれはいとこの家から借りた姓。本当は佐藤将貴という」

 秘書が千歳に数枚の書類と写真を差し出した。写真に写っているのは金髪碧眼の恐ろしく美しい男だ。兄弟だというのに目の前の佑太は黒髪で、全然違う。佑太の顔は整ってはいるがこの写真の男には及ばない。将貴という男は見る者の背筋を思わずぞくりとさせる、そんな美しさだった。

「この人が何か?」

「いま現在兄は関西の食品工場で管理部の部長をしているんだけど、病気を患っていてね。ストレスから来る心因性失声症だ。これを君に治してもらいたい」

「私は看護師でも医者でも専門家でもありません」

「そういう人達を兄が拒絶するから手を焼いている。治らない病気ではないのにもう十年以上が過ぎている。声は出ないままだ」

 書類の一枚目に将貴の経歴が書かれていた。都立の小学校と中学校を卒業後、そのまま同じく都立の普通科の高校を卒業している。大学は関西の大学で聞いた事も無い学校だった。そこに異様な違和感がある。

「あの……なんでお兄さんは、こう……普通の……」

「偏差値の低いところばかり行ってるかって? そういう出来の人だったからだよ」

 淡々と事実を話しているだけなのに、なぜか佑太の顔つきが冷たいものに見えた。

「ま……、別にそれは兄さんが悪いわけではない。天才の子が凡人なんてよくある事だしね。経歴からわかるように兄は専門家とか学歴が高い人間を嫌う傾向にある。医者なんてプライドの塊のような連中が多いから、兄さんは大嫌いなんだ。だから君は住み込みの家政婦として兄と同棲して欲しい」

「え……!?」

 家政婦はともかく同棲とはどういう事だ。

「んー、まあぶっちゃけ兄さんの食生活は食品工場に勤めているにも関わらず最悪なんだ。それ以外はちゃんとしているみたいなんだけど、どうも調べたら会社の検体の惣菜しか食べてないらしくて」

「あの……惣菜って」

「ああ。兄さんの工場はスーパーやコンビニの弁当を作ってるところなんだ。サラダとか寿司とか煮物とか。つまり栄養バランスが最悪なわけ。今の食生活を続けてたら新たな病気になるのは目に見えてる。でも僕達の意見は絶対に聞かない。変に突いてまた逃亡されたらたまったもんじゃないからね」

「逃亡……って……」

 穏やかではない事をさらりという佑太に、千歳は顔をわずかに歪めた。どうもこの男が理解できない。千歳はさっきから馬鹿みたいに佑太の言葉尻を繰り返しているが、もう何がなんだかわからない。佑太の斜め後ろに立っていた秘書の若い男がこほんと軽い咳払いをした。

「社長、いきなりすぎて結城様にはついていける話ではありません。とにかく仕事の話をしてください」

「ああそうだった。ごめんごめん」

 佑太ははっと気付いたように頭を掻き、千歳ににっこり微笑んだ。

「失声症も気になるけど、とにかく食生活だけでもなんとかしてやりたい。君は生活能力だけは人よりあると結果が出ているから、家事はお手の物だろう?」

「はあ、まあ。でも同棲は……」

「兄さんは人嫌いだから君に手を出したりないよ。これだけは確信持って言える」

「貴方が確信持ってても。色気のない私でも痴漢に遭遇した事はあるんですよ?」

「いや、本当に大丈夫。もし手を出されたら、慰謝料を一千万上乗せする。だから引き受けてくれないかな?  それに引き受けてくれたら、親御さんのところに毎日つめかけてる闇金融を処理してあげるよ」

 そこで初めて千歳の心が動いた。破産が通用しない闇の借金のせいで、父母のところにまで闇金融の業者が押しかけ、田畑ところか家まで取り上げてしまったのだ。義姉は千歳を庇ったばかりにお腹にいた三ヶ月の子供が流れてしまった。それに父母と兄が激怒し、千歳を永久に勘当すると言ったのだった。一生父母や兄、義姉に合わせる顔がない。

『千歳ちゃんが悪いんじゃないの。悪いのは鈴木って男と相手の女よ。だから負けないで』

 義姉のあかりは病院のベッドに千歳をひそかに呼び寄せ、そう言いながら生活費にと五十万円の入った封筒を千歳の両手に握らせた。固辞する千歳の両手を、ベッドから起き上がれないあかりは、点滴を受けた左手と、震える右手で力強く握った。外は雨で、病院の個室は嫌に薄暗かった。

『大丈夫。諦めない限り絶対に道は開けるから。今千歳ちゃんはどん底だけどこれ以上下はないわ。今ここで何もかも諦めたら、鈴木って男や闇金融の奴らに負けた事になる。負けたままでいいの?』

『でも』

『鈴木って男に復讐しろというわけじゃないわ。復讐は天にあるのだから千歳ちゃん自ら手を下す必要はないの。それよりも絶対に幸せになるのよ。真面目に働いて前向いて生きてたら、きっといい男性と出会えるから。その人と結婚して子供産んで幸せになって』

『……お姉さん』

 自分の方が余程辛く、千歳が呼び寄せたといっても過言ではない闇金融の男達に突き飛ばされたせいで、流産という辛い目に遭っているのに慰めの言葉で力づけてくれるあかりに、千歳は泣きたくなった。でも泣いてはならない。あかりの前で泣く権利は自分にはなかった。

 あかりの涙をあの時初めて見た。彼女はいつも人の為に涙を流す人間だった……。

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