天使のマスカレイド 第04話

「聞いてる?」

 記憶の回廊をさ迷っていた千歳は、佑太の探るような声ではっと現実に戻った。多分この佑太という男にはわかっているのだろう。最初から千歳にはYesしか選択肢がないのだと。

「お兄さんがまともに食事を摂られるようにしたらよろしいんですね」

「そう。そうしたら失声症も治るかもしれない」

「……お兄さんは私の同棲に賛成するでしょうか?」

「反対はしないさ。母親からの懇願だと言ったらね。あの人の弱点はいつも母さんの涙だ」

「…………」

 沢山の隠し事があるのはわかってはいたが、借金取りに追われる暗い未来よりも、この男の兄と同棲して食事を作るほうがはるかにましだった。御曹司なのだから闇金業者よりはるかに普通の人間だ。

「本当に借金を帳消しにして、実家への闇金融業者の圧力も消してくださるのですね?」

「もちろん。奪われた土地や家も取り戻してあげる。今すぐに実行できるよ。柳田……」

 秘書の名前は柳田というらしい。

「このお嬢さんの前で手配してくれ」

「はい」

 ものの三十分で借金の借用証が部屋に届き、土地や家の権利書まで帰って(返って)きた。千歳は佐藤佑太が持っている権力を思い知らされ、同時に怖くなった。にこにこ笑っている温和そうなこの男は、鈴木たかしよりはるかに悪党で、一番関わりたくない人間だ。狙われたら最後なのだ。青ざめている千歳に佑太は晴れ晴れとして両手をぱちぱちと叩いた。

「じゃあ契約書の作成と行こうか。婚姻届とはいかないけど、一応夫婦にしてもらうから同棲していても近所から不審がられずにすむよ」

 

 高速道路のインターの近くに、その惣菜工場はあった。隣に物流センターがあり、そこから商品を載せたトラックが幾台もインターから高速道路へ入って各地へ走っていく。千歳は自転車置き場に自分の自転車を置き、工場へ入った。白い階段を昇って靴を上履きに替える。そして事務所や品質管理室、倉庫、休憩室の横を通り過ぎてタイムカードを押し、奥の更衣室で白い作業着に着替えた。今日は千歳の初出勤の日だった。

 千歳が挨拶をしながら事務所へ入ると、近くの机で帳簿をつけていた女性が立ち上がり、奥の応接室へ案内してくれた。やはり緊張する。時計は8時5分を指していた。ややあって同じ白の作業着を着た若い男性がドアを開けて入ってきた。千歳はすっと立ち上がり頭を下げた。

「おはようございます」

「おはようございます、結城さん。どうぞ掛けてください」

「はい」

 ソファに千歳は大人しく座った。どきどきと胸の鼓動がうるさい。緊張はそうそう直りそうもないようだ。

「副工場長の福沢篤志(ふくざわあつし)です。事情は佐藤氏から聞いておりますのでなんでも聞いてください」

「えっと、あの?」

 福沢がくすりと笑った。妙に甘い雰囲気の漂う男で警鐘がなりそうなものだが、福沢は鈴木のような薄っぺらな雰囲気は無く、真面目な仕事人の管理職という感じだった。

「実はこの会社の工場長は佐藤将貴……、つまり石川将貴なんです」

「はあ?」

 そういう事は事前に言って欲しいと、千歳はこの場所に居ない佑太に怒りたくなった。肝心なところが適当な男だ。知り合いが居るとも聞いていない。それが伝わったのか福沢が何故か謝罪した。。

「すみません、将貴にコミュニケーション能力が欠如しているのを忘れていました。いくらなんでもそれぐらい貴女に言うと思っていたのですよ」

「言うって……、石川さんは話せないから無理ですよ」

「筆談はできますからね。会社ではいつも鉛筆かスマートフォンを持ち歩いています」

「……はあ」

 数日一緒に暮らしていて、筆談などした記憶がない。家電の使い方や食事の事を聞いても頷くか、使い方を無言で教えるかどちらかで親交などほとんどなかったのだから。にこりとも笑わないし、拒絶している方が多い将貴に、深く込み入った事や仕事の話など聞くなど不可能だった。

「予想はしてたけど、本当に重症だ」

 両手をあげて福沢は降参と言った。しかし実際に降参したいのは千歳の方だった。

 千歳が勤務するのは管理部の品質管理課になる。工場で作っている惣菜や弁当などの細菌検査をするのが仕事だ。商業高校出の千歳には細菌に関する知識はまったくないが、石川が詳しいので大丈夫だと福沢は笑った。それこそ不安だと千歳は思う。相手は自分を避けているのにどうしろというのだ。

「まあそう落ち込まないで。石川は仕事ぶりはいいから、仕事の面ではとても助かると思うよ」

「はい……」

 新入社員はもっと明るく元気よくとは思うが、同棲でほとんど無視され状態が続いていたので千歳のテンションはかなり低い。

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