天使のマスカレイド 第05話

「じゃあ仕事の説明をするよ。まず搬入口。次は倉庫、計量室、野菜室、加熱室、ミックス室、盛り付け室、米飯室、事務所、そして最後に品質管理課へという流れになる。それぞれ朝勤、昼勤、夜勤をしてもらうからかなり体力が居るので体調管理に気を配って欲しい。もっとも昼しか動いていない部屋もあるからそういう部屋は昼のみになるけど」

 ずいぶん沢山の部署があるものだ。以前勤めていた工場とは規模が違いすぎる。

「作業者からの食中毒感染を防ぐために当工場では食べ物の持ち込みは厳禁、必ず工場内の食堂で食事を摂る事。作業着は使用したら必ず更衣室にあるクリーニングの袋に入れて、毎日新しいものにしてね。新しい作業着は必ず就業後に事務所の申請箱に名前とサイズを書いた申請書を提出しておく事、忘れたら事務所の人の迷惑になるどころか、現場での作業が遅れるから気をつけて。化粧は厳禁。アクセサリーも駄目。爪は短く切る。当然ネイルしたりしない。長い髪は後ろに縛り作業着の中に入れる事。そうそう、更衣室の鍵はペンダントにするなり、ベルトにかけておくなりしておいてね」

「ずいぶんと細かいのですね……」

 おそらくこれでも触りだけだろう。目を回しかけている千歳は福沢に苦笑されてもまったく腹が立たなかった。千歳は将貴のためだけに勤務するのであって、工場で働きたくて来たわけではない。こんなにいろいろ気を使わねばならないのは気が滅入る。髪はショートヘアだからセーフだとしても化粧してきてしまったし、爪も今日の夜に切ろうと思っていたので少し長い。これではいい社員とは言えないだろう。

「化粧は明日からでいいです。知らなかったのですから。それより、結城さんは食品工場に勤めていたのではなかったですか?」

 福沢が千歳の履歴書を眺めながら言った。

「食品といってもお菓子工場でしたので」

「基本は変わらない筈ですけどね。まあいろいろな工場があるから違っても当たり前か。お菓子より惣菜の方が検査基準は厳しいので差が出るのかもしれません」

「そうですね、作業着は自分で持ち帰って洗っていたぐらいですし」

「へえ、不衛生ですね……。柔軟剤の香りがぷんぷんしている人はいませんでしたか?」

 履歴書をテーブルの上に静かに置き、福沢は腕を組んだ。そう言えば最近流行の外国製の柔軟剤の香りがキツイ人がいた気がする。

「香水も厳禁なので当然ここではきつい香料も禁止です。食品の風味を損ねる懸念にもなりますし、なにより作業員の意識が問われますから」

「そんなもんですか……」

「食品に携わるものなら当然の意識です。例えば結城さんはご飯を食べる時に美味しい料理の匂いより、香水の臭いが強かったりして食欲がわきますか?」

「それはさすがに……」

 福沢はうんうんとうなずいた。

「そうでしょう。最初は慣れないかもしれませんが、千歳さんなら大丈夫と佐藤氏が太鼓判を押していましたから、すぐに慣れると思いますよ」

「そうありたいものですが」

 なんだかまったく知らない世界に飛び込んだ気がして、千歳は自信がいつもにましてわいてこない。なにもかも禁止されて息が詰まりそうだ。

「この工場は石川が一から作ったんです。ですからこの工場で勤務するイコール石川を知る事になります」

「じゃあつい最近なんですか?」

「工場が動き出してからまだ二年も経っていません。HACCP(Hazard Analysis and Critical Control Pointの略。危害要因分析に基づく必須管理点)もまだ準備段階ですから」

 いきなり英語が飛び出してきて千歳は焦った。

「えーとそのHACCPというのは……」

「品質管理課に行けばわかると思います。簡単に言えば、品質の良い食品を提供する方法をマニュアル化するようなものです。大体の食品工場は導入しています。一度に言っては混乱しますね。ま、とにかくひとつひとつ覚えてください。そのうち石川の気持ちもわかるようになるはずですから」

「あの……石川さんと副工場長の関係って」

 ずうずうしいかもと思いながらも、千歳はこう聞かずにはいられなかった。福沢の表情はわずかに翳った。

「……親友です。とはいえあいつはそう思ってはいないんでしょうね。私だけが思い込んでいるんでしょう]

「…………」

「さ、今日の仕事場に行きましょうか」

 福沢は立ち上がり、首周りをすっぽり覆う布が垂れ下がっている帽子を被ると、作業着の中へ布を押し込んだ。そして布についているマスクをマジックテープで止める。もう見えているのは目だけだ。千歳も慣れない手つきで同じようにする。

「今の石川は誰にも心を開きません。もともとは優しすぎくらい家族思いの明るい奴だったんです。何が起きたのかは直接本人に聞いてください。その過程こそが一番大事なのだと思います」

「でも現実では会話すら成り立たないんです」

 マスクで、子供のように尖った口元が見えないのを千歳は幸いに思った。福沢は履歴書をファイルボードに挟んで小脇に抱え、目元だけでにこにこ笑った。

「家に入れただけでも進歩です。この数年、あいつはだれも自分のテリトリーへ入れませんでしたから」

「お母さんをちらつかせたら簡単だって、佐藤社長がおっしゃってました」

「はは。きっかけにすぎませんよ、今まではそれすらも駄目でした。佐藤氏にしたらきっかけがようやく掴めたからうれしいでしょう。あの誰も立ち入ることを許さなかった石川が、結城さんという赤の他人を受け入れたんです。私も期待していますよ」

「……はあ」

 本当に家では交流がままならないままなんだけどなと千歳は思いながら、静かにため息を吐いた。げんに品質管理課のシフトを見ると、将貴の勤務は夜勤に集中しており、昼勤や朝勤は週に一回ずつだ。それがまた千歳を避けるように組まれている。千歳が昼の時は夜、夜の時は昼といった按配だ。これだけ見事に避けられて先行きが明るいと思えたら余程の楽天家だ。

 事務所から廊下へ出て、常に摂氏20度に保たれている工場内を歩きながら、千歳は不安で一杯だった。支えてくれるのは義姉のあかりの言葉だけだ。

(大丈夫。諦めない限り絶対に道は開けるから)

 自分に強く言い聞かせて千歳は顔を真正面に上げた。

web拍手 by FC2