天使のマスカレイド 第07話

 社食のラーメンセットをトレイに載せて、千歳は休憩室に沢山並べられた机でも一番隅っこにある机を選んで座った。まだ親しく食べる人間がいないのでずっと一人で食べている。この会社は管理する人間だけが社員で、ライン作業するのはパートやアルバイト、派遣社員だった。パートやアルバイトは年齢がはるか上の人間が多く、派遣社員はブラジルやボリビア系の外国人ばかりだったので親しむのは難しい。品質管理課や事務所の社員が一番年齢が近いと言えたが、食事時間が大幅にずれていて会った事がない。そもそも同居人の将貴にすら会社で顔を会わせていないのだから、会わないのも当然なのかもしれない。

 寂しいといえば寂しい。楽しそうに笑ったり、話に夢中になっている人達を見ていると混ぜて欲しいなと思う。千歳はもともと一人でいるのがまれだった。

「ここいいかな?」

 食べかけのラーメンをつついていると、向かい側に福沢が日替わり定食のトレイを置いていた。千歳と同じように布つき帽子は更衣室に置いてきたらしく、短く刈り上げた髪が印象的だった。掛けられた細身の眼鏡がなぜか小さく見える。

「かまいませんけど、副工場長は他の皆さんとは召し上がらないんですか? 大体皆さん連れ立ってますけど」

「基本一人でいる方が多いかな」

 福沢は箸を手に取り米飯を頬張った。美味しそうに食べる男だ。一通り食べると千歳に目線を上げた。

「ところで今晩の予定とかありますか?」

 ちらちらと視線を感じる。福沢は佑太と同じぐらいの整った容貌なので、それなりに注目を浴びているらしい。休憩室は話し声でざわざわしていて、福沢の声は少し聞きづらかった。

「まあ暇です。ご飯は作ってきたしする事はありませんね。ま、どうせ同居人は食べませんけど……」

「じゃあおごるから、食べに行こう?」

 それは家へ戻りたくない千歳にとって、酷く魅力的な提案だった。

「……いいんですか? 綺麗な奥さんとかいらっしゃるんでしょ?」

「あれ? 偵察?」

 茶目っ気たっぷりに福沢が笑う。初日の堅苦しい雰囲気が消えた福沢は年齢相応の青年に見えた。

「違いますよ」

「それは残念」

 真面目な男というイメージがガラガラ崩れていく。千歳はラーメンを黙ってすすった。これくらい将貴がフランクに接してくれたら楽なのになと思う。

「男女関係のもつれとか面倒だから聞いただけです」

「それは同感だね。安心して、独身でフリーだから。結城さんあいつの件で煮詰まってるみたいだから、話を聞いてあげたいなって思ってね」

「……それは助かります」

 心底千歳はそう思い頭を下げた。傍目には新入社員を気遣っている副工場長にしか見えないだろう。事実そうなのだが。福沢はトンカツを頬張った後、何かを考えているような目つきで飲み下した。

「今日は夜の10時にあがりだったね。駐車場の俺の車わかる?」

 俺というぞんざいな言い方に内心で千歳はびっくりしていた。なんという変わりようだ。この男は警戒した方がいいのかもしれない。しかし家にはなるべく帰りたくないし、福沢は将貴の親友だという男だから、詳しい事が聞けそうだ。このチャンスを逃す手はない。

「知りませんけど……」

「ホンダのオデッセイだよ。色は白。自転車は積めるから家まで送ってやるよ。ただ他の人に見られるのは嫌だろうから、30分くらいずらして。できる?」

「じゃあ更衣室で時間つぶしてから行きます」

 

 時計は夜の10時20分過ぎを指している。ずっと将貴の顔がやたらとちらついて離れない。あの時将貴は何かを言おうとした。一体何が言いたかったのだろう。

 昼の2時から夜の10時まで勤務するシフトは午後勤と呼ばれている。千歳は昼勤の時間をずらして勤務していた。他の社員達が帰るのを見送ってから更衣室を出た千歳は、一人で夜の工場の廊下を歩いた。廊下はかなり薄暗く、節電のためところどころしか細長い蛍光灯がついていない。品質管理室は今日は真っ暗だ。いつも夜勤をしている将貴は今日休みなので当然だが、それを見ただけで家という場所がいやに心に圧し掛かってくる。

「はあ……」

 自転車置き場も外灯がぽつんとついているだけで薄暗い。自転車を押して出ると、ちょうど私服に着替えた福沢が出てきたところだった。福沢はコットンシャツにボトムという格好の千歳に少し笑った。

「山へ行くみたいな格好してるね」

「仕方ないですよ、自転車に乗ってるのにひらひらスカートなんて履けません」

「そりゃそうだ」

 とは言え、福沢も似たような格好だったので千歳は安心した。オデッセイの後部座席を倒して千歳の自転車を載せると、福沢は千歳のために助手席のドアを開けてくれた。

「車に乗るの久しぶりです」

「そうなの?」

 ばたんとドアを閉め、福沢は車のエンジンをかけた。ミッションのギアを握る福沢の手が妙に男らしくて、千歳の胸が騒いだ。思えばよく昨日は将貴の腕を掴めたものだ。異性の腕を恋人でもないのに触るなんて余程の事がないとしないだろう。もっともあれはその余程の事だったと思う。

 走っている車は市街地へ進んでいくにつれて多くなった。あのいつもの知っている陸橋が現れる。車だと一瞬だ。千歳はそれがいつもより気分よくて微笑した。やがて車はあの寂れた商店街に入っていく。不思議な事に昼間はあんなに寂れていたのに、夜は派手な電飾が至る所でついていて人通りも多く、妙に活気付いている。若者の姿も多かった。一体皆どこから沸いてきたのか不思議だ。

「聞くの忘れてた。美味しい天麩羅屋へ行こうと思うけどいい?」

「天麩羅久しぶりでうれしい。家では大人数じゃないから作る気になれなくて」

「そうだね、あれは一人分だけ揚げたって美味しくない」

 小さなパーキングに福沢は車を駐車し、二人はアーケードが貼られている商店街へ出た。昼のように明るいうえ、久しぶりの夜歩きが妙に気分を浮き浮きさせる。天麩羅屋は商店街から外れ、狭い路地の一番奥まったところにあった。入り口に紙風船と筆書きされた大きな赤いちょうちんが下がっている。あたり一面においしそうな天麩羅の匂いが漂っていた。木製の引き戸を開けると、より一層天麩羅の香ばしい匂いがむわりと千歳達を包んだ。店内にカウンターは無く一面畳敷きで、低いこげ茶のテーブルが十卓ほどあり、いずれも人で溢れかえっていた。

「相変わらず繁盛してるな。あ、あそこの隅が空いてる」

 福沢が柱の陰になって死角になっている場所が、ちょうど二人分空いているのを見つけた。大体一卓につき大人が5、6人ほどで相席が基本なようだ。少し汚れている座布団に並んですわり、福沢がメニューを取ってくれた。壁は油汚れで黒光りしていた。

「うわ、いろんな種類の天麩羅があるんですね」

「おすすめはアスパラガスかな。まるまる一本揚がってて、女性は食べやすい」

 おそらく恋人と来た事があるんだろうな思いながら、千歳は食べたいものを数点選んだ。

「お酒は飲まない?」

「ざるですから福沢さん泣きますよ? 大ジョッキ三本は軽くいけますから」

「うわー、大人しそうな顔してすごいね結城さんは」

「ふふ」

 久しぶりに千歳は笑った。紺色の作務衣を来た店員が注文を取りに来て、二人は注文した後テーブルに置かれた水グラスを手にした。工場の休憩所より店内はかしましく、休憩所以上に大声で話さないとお互いの声が聞きづらかった。

「こういうお店は化粧した綺麗な格好の女性とは来れないんだ。なにしろ油臭くなるから」

「そうでしょうね」

 よく見ると店内はほとんど男性だ。一人で入ったのなら気後れしてしまうが、福沢と一緒なので特に気にならなかった。福沢がグラスを置いて意味深に笑った。

「将貴がよく一人で来ているらしいよ」

 石川と呼ばずにわざと将貴と言った福沢に、千歳は忘れていた将貴の顔を思い出して胸が痛み、ぷいと正面を向いて頬杖をついた。おおよそ上司に対する態度ではないが、歳が近いのとお互いがラフな格好をしているので違和感はあまりなかった。

「あんな格好で来たら、場違いな銀行強盗ですよ」

「そりゃ言えてるな。さすがに店内ではマスクはしてないみたいだけど」

「本当に一人で来てるんですか?」

「そう。あの奥の厨房で太ったおばさんが天麩羅揚げてるだろ? あの人、ここの店長の奥さんなんだけど、ジャニーズとかああいうのが好きらしくて、美形には目がないんだ。だから覚えてるらしい。将貴はとびきりだからな」

「どーやって見破るんですか?」

 自分ならまったくわからない。

「なんだか品があるらしい。くたびれたティシャツと穴だらけのジーパンでも、生まれは隠せないもんだ」

「へえ、食べてるところ見た事無いのでわかりませんが」

「結城さんはあいつの顔に見惚れたりしないのか?」

「え?」

 福沢がからかうように笑う。

「ちょっとやそっとじゃお目にかかれない美形だろ将貴は。あいつより綺麗な顔を俺は見た事が無いし、無反応な結城さんが珍しくてね。大抵の女性ならイチコロになるから珍しいと思って」

「はあ、確かにお綺麗ですけど。んー……、男女として好きになるかと言われたらタイプじゃないです。私はアウトドアな男の方がタイプですから」

「成る程。佐藤社長が珍しいタイプだからと言ってたのがわかった」

 何やら一人で納得している福沢に、千歳は納得がいかない。一体なんだというのだろう。

「お待たせしました」

 天麩羅の皿がやってきた。いずれもからりと揚げられていて湯気がホカホカと出ている。店内にはクーラーが寒すぎるほどかけられていたが、天麩羅の放つ熱気の方が勝っていて、いささか暑苦しく感じる。アスパラガスを箸で摘み穂先から食べてみると、程よく塩気が効いたやわらかなアスパラガスと、ぱりぱりとしている天麩羅の衣が口腔内で溶け合って香ばしさが広がった。

「おいしい……」

「だろ? この大きな海老とかも最高だよ。塩が用意してあるけど必要ないくらいだな」

 福沢は海老の天麩羅を食べた後、数点頼んだ鯛の天麩羅を次々と平らげていく。千歳はアスパラガスの天麩羅を食べた後、海老の天麩羅にレモンをかけて食べた。海老のぷりぷりした身が甘くて蕩けそうだ。じゅわりと汁がしみるのもたまらない。文句なしに美味しい。今度一人で来よう。

「なんだかエビフライが食べたくなっちゃいました」

「天麩羅屋で何言ってるんだ。まあ気持ちはわかるけど」

 福沢が噴出した。千歳は今度は大根おろしのサラダを頬張り、油だらけになった口の中をすっきりさせる。やっぱりビールを飲みたいなと思ったが、親しくない福沢と飲むのは躊躇われた。店のサービスだという茄子の味噌汁と漬物が運ばれてきた。茄子の味噌汁は不思議な事に真っ黒ではなかった。

「ねえ副工場長?」

「ちょ、結城さん。さすがに仕事場の外でその呼び方はやめてくれ。福沢でいいから」

「あ、すみません、福沢さん……」

 この茄子の味噌汁はなんで黒くないのですかと言おうとした千歳は、店内へ入ってきた人影を見て固まった。隣の福沢は不審げに千歳を見て、次いで千歳の視線の先を見る。

 そこに立っていたのは、帽子を深く被り黒のサングラスをかけている将貴だった。

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