天使のマスカレイド 第11話

 恐ろしい暑さの加熱室で千歳は煮込みの作業をしていた。先週まで冷蔵庫と冷凍庫という極寒地獄に居たのに、今度は灼熱地獄だ。惣菜を煮込んだり揚げたり炒ったりする場所なのだから暑くて当たり前なのだが、仕事場の環境が激変し、千歳は北極からサハラ砂漠にいきなり放り出された気分だった。

「……熱すぎる。ううん、暑いというべきなのだけど」

 千歳に今日まかされたのは高野豆腐の煮込みだった。両腕を左右いっぱいに伸ばしたぐらいの大きさの平たい鍋に、きっちりと指定量の水と計量済みの調味料を入れる。沸騰したらこれもまた指定数の高野豆腐を投入し、形崩れしないように指定時間加熱するのだ。鍋から立ち上がる蒸気もさながら、隣が卯の花を作る巨大釜、反対側にパスタを茹でる大きな深鍋が並び、さらにその向こうで葉物野菜が巨大鍋でぐらぐらと茹でられている。そして後ろでは、巨大なフライヤーがフライなどの揚げ物を揚げているのだ。暑くて当たり前だった。湿気も酷いので、今なら真夏の東南アジアやアマゾンでも平気で過ごせるかもしれない。

 こんなに暑いのに作業服は他の職場と同じように、目だけが見えるあの格好だ。腕をまくるくらいは許されるが、胸元を開けたりマスクを外すのはご法度だ。どのみち腕をまくっても火傷防止のアームカバーをつけさせられるので涼しくはならない。

 千歳がグッタリしていると、パートの一人が同情してくれた。

「社員さんは最初必ず全部の現場を行かされるから大変ね。ここは部署が多いし」

「……はは」

 目の前でぐらぐらゆだっている高野豆腐が重ならないように、巨大な木のへらでやさしく突きながら、千歳は力なく笑った。汗が凄まじいので首周りのタオルは必須だ。救いはスポットという細長い筒型のクーラーが部屋の各所に設置されている事だ。そこから涼しい冷気が送られ、つかの間の涼しさを手に入れるというわけだった。

 ピピピとアラームが鳴り、千歳は袋がまくってある薄型のコンテナに掬い取った高野豆腐を丁寧に並べて入れていく。そして最後にハンドルを回して鍋を傾け、静かに汁を入れる。高野豆腐を収めたコンテナは空気に触れないように袋を丁寧に被せ、加熱室の隣にある冷蔵室ですぐ冷やすようになっていた。この冷蔵室は原料を入れる冷蔵室とはまた別の場所だ。サラダや揚げ物、そのほかの惣菜がすべてそこに綺麗に並べられていた。小さな紙がコンテナの側面のポケットに挟んであり、数量と同じ数がプリントされている。加熱室からこの冷蔵室に入るのが千歳の至福の時間だった。とはいえすぐに出なければならないのだが。

「……あ」

 冷蔵庫から出ようとした時、入れ替わりに福沢が入ってきた。帽子のつばの上の額の部分に名札がついていて、それで皆識別が出来るようになっている。福沢は目だけで笑った。

「今度は加熱室? 大変だろう」

「はあ、まあ……」

「次はサラダ室だけど、そこは普通だよ。頑張って」

「……ありがとうございます」

 福沢はあれから千歳を避けたり、会ってもこんな具合にそっけない。仕事中なのでべらべら話されるのも困るが、なんだか突き放すような言い方をする。こんなので一体どうやって自分に気があると思えるだろうか。

(柳田さんと将貴さんの妄想にしか、やっぱり思えないわ)

 加熱室の持ち場に戻った途端、千歳はなんだかほっとした。

 最近千歳は5キロも痩せてしまった。食べる量は前より増えているのに、やはり新しい職場というのは精神疲労が凄まじいようだ。同時に今回は肉体的にも疲れやすい。慣れたら元に戻るはずだが、これはよくないなと会社帰りのスーパーで思った。将貴もなんだか男にしては痩せ型でひ弱に見えるので、この辺で食事を見直す必要があるかもしれない。スタミナがつくものを食べようと千歳は思いながら、精肉コーナーへ向かった。

「あら千歳ちゃん、会うの久しぶりね」

「理絵さんこんにちは。あれ? 葵ちゃんは?」

 理絵は買い物の時はいつも葵を抱っこにするか、背中におんぶしている。理絵は楽しそうに笑った。

「うふ。今日はパパがおやすみだから預けてるの。久しぶりにフリーになったからたっくさん買い物しちゃった」

 そういえば理絵は今日は滅多に履かないスカートを履き、綺麗に化粧をしていた。目に鮮やかな紺色のラピスラズリのピアスが、水色のアンサンブルによく似合っていた。ハイヒールを履いているところなど初めて見た。

「どこか他の場所に行った帰りみたいですね」

「そう。この辺て何にもないとは言わないけど、流行の服とか、本とか、映画とかやってないでしょ? だから電車で行った帰りなの」

「へー……体力ありますね。私はもうへとへとで」

「若いのに何を言ってるの。子供が産まれたらもっとへとへとになるのに。24時間365日子供にべったりで、子供が寝ている時しか息つけないのよ」

「ははは……理絵さんはタフだ」

 見ると、理絵のカゴには和牛やマグロなど、いかにも精がつくようなものばかりが入っていた。

「タフでないと母親なんてやってられないわよ。今はまだ良いけど、成長したら精神疲労がすごいって話よ。何はともあれ体力、身体作りよ。千歳ちゃんも今のうちに身体作っときなさいよ。あの綺麗な旦那さんもなんだかひょろっとしてるし、このままじゃ共倒れだわ」

「はあ……」

 その前に自分達は結婚していないのだけど、と千歳は心の中で呟く。

「あとで精力がつくレシピをあげるわ。今夜はそれで励んで頂戴」

「……は……はは。ありがとうございます」

 人込みでざわざわうるさい夕暮れ時のスーパーで、なんて話をしているんだろうと千歳は顔を赤らめた。どのみち千歳と将貴が理絵の言う意味で励む日なんて来ない。理絵は車で来ているのでそのままスーパーで別れ、千歳は自転車でアパートに帰った。アパートのポストに理絵からの封筒が入っていて、レシピとだけ書かれていた。部屋に入ってキッチンでそれを見ると、なるほど、主婦が手軽に作れるようなものばかりだ。理絵は少し年上なだけなのにすごいなあと千歳は心底感心した。自分はとてもここまで手の込んだものは思いつかない。料理というものは一種の化学実験のようなものだ。調味料と食材をあわせて、その微妙な変化でおいしい味を作り出すのだから。

「鰻や牛肉は確かにスタミナがつくけれど、その前に自分の胃腸の様子を見てあげなきゃ駄目。弱っている時に食べても内臓を壊すだけ……か、成る程なー、確かに吸い上げてくれなきゃこんな重量がありそうな食材食べたら下痢になりそ」

 むー……と、千歳がレシピとにらめっこしていると、リビングの奥の部屋から将貴が出てきた。何を見ているのかという目で将貴が千歳を見たので、千歳はいささか恥ずかしかったがそれを見せた。将貴はレシピにさっと目を通して、考え込むような目になった。そして千歳を上から下まで見る。

『確かに痩せたなお前』

「今だけだと思うんですけど。私、食べたら食べただけ肉になる体質ですし」

『下痢とかあるのか?』

「たまに。あんまり便通はよくないかな」

 独身女が便通なんてよく言うわと内心で突っ込みながらも、千歳は正直に答えた。すると将貴はふむと頷き、部屋の片隅にパンチで穴を開けて吊るしてある広告の裏を使ったメモ用紙を一枚ちぎった。リビングからペンを持ってきてキッチンのテーブルでなにやらさらさら書き始める。千歳はなんだろうと思いながら、流れるように横へ綴られていく将貴の綺麗な字を眺めた。その将貴の姿が一瞬佑太とダブった。あの経営者のオーラだ。なんだかんだ言っても将貴は経営者体質なのだろう。

(あの佐藤社長も柳田さんも、鉄パイプでぶん殴っても弾きそうなぐらいの力が満ち溢れてるわよね)

 暫く経って将貴はペンのキャップを閉め、そのメモ用紙を千歳に渡した。見ると、理絵のレシピをさらにアレンジしたようなレシピが書かれている。

「うわすごい。こんなのいきなり思いつくなんて」

『お前が知らなさすぎなんだよ』

 和食中心のそのレシピは、バランスよく栄養がとれるように配慮されたものばかりだ。理絵のものよりもずっと細かい。

『俺の事を気にかけてばかりだから、お前は自分の事がおざなりになってんだよ。夏は暑さにやられて疲れやすいし、しかも今は熱かったり寒かったりの職場だろ、自律神経が狂ってる。そこから治さないとスタミナなんて駄目だな』

「そうみたいですね。和牛をいきなり買わなくて良かった」

『まああれも食べたほうがいい時もあるんだけど。今のお前が食べるんならオージービーフみたいに脂肪が少ないやつの方がいいんじゃないの?』

「くわしいですね」

『食品工場にいたらこれくらい当たり前だ。お前、整体観(せいたいかん)勉強しとけよ』

「整体観……ですか?」

 整体に行くのもいいかも知れないなと思っていると、将貴がちがうちがうと唇を動かした。

『例えば今みたいに体力が落ちてる時、大抵の奴はスタミナつけるとか言ってやたらと重そうな牛肉とか鰻とか食おうとするだろ? そうじゃなくて、まず今の環境を考える。次に自分の身体を観る。そして最後にどこが悪いか考える。一部分だけを観るんじゃなくて、自然や季節、今の環境を含めてひとつの統一体として見るってのを整体観って言うんだよ』

「それって仕事に関係あるんですか? そういう惣菜を作ってるとか」

『そうだな。ある意味では関係している。さすがに星の数ほどいる客個人の健康状態など構っていられないからな。HACCPもまだ未完成だし……、ともかく身体が資本だから自分の健康管理はちゃんとしとけ』

 将貴には言われたくないなと千歳はぶーたれた。それがもろに顔に出たらしく、珍しく将貴が意地悪げな表情を浮かべた。

『佑太に何言われたか知らないけど、お前よりは健康だと思うよ。そもそも造りが違う』

「そうですか!」

 千歳がむくれたのがおかしかったのか、将貴が優しい顔で笑った。30歳前なのに何故この男は天使のように綺麗な顔で笑えるのだろう。柳田や佑太の様子を見ると、相当の辛い出来事があったはずなのに。自分だったらあの最初の無表情を絶対に崩せないだろう。千歳は複雑な思いを抱えて、キッチンを出て行く将貴の後姿を見つめるのだった。

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