天使のマスカレイド 第12話
それから千歳はさまざまな部署へ入った。そして今日は現場で一番最後だという弁当のラインに入っている。10メートルほどあるベルトコンベアがあり、最初に弁当のトレーが置かれ、十人ほどが個々の受け持ちの担当の惣菜をそのトレーへ詰めていく。すべて収められると蓋が被せられ、ラップを包む機械に入った後、値段や商品名がついているシールがラベリングされるという工程になっていた。それらは搬送用のコンテナに入れられ、向かい側の保管冷蔵庫へ移動する。そこで配送業者の仕分け担当者達が、受注データをもとに契約店舗別にさらに区分けし、指定時間ごとに車に乗せられて搬送されていくのだ。
原材料の受付から今の工程に入るまで、一度も食品は元の部屋に戻ったりしない。流れ別に冷蔵室があり、調理され、またはトレーに盛り付けされ、一定の方向へ流れていく。各部屋は厚い透明のビニール樹脂のカーテンに仕切られていて、ドアは皆、ドアの横の足を入れる穴に片足を入れて開ける、自動ドアになっていた。清潔を保つ事が一貫しており、惣菜などを扱う時は必ずゴムの手袋をして、消毒液を満遍なく振り掛けてからでないと触れてはいけないと注意された。さらに一度脱いだり、他の場所へ触れた場合はすぐに他の手袋に変えて消毒するようにとも。作業台も同様で、使用したら直ぐに洗浄消毒される。使わない時は上から透明なシートが被せられた。
「結城さん、もう少しエビフライは右へ寄せて」
「あ、はい。すみません」
ぼうっとしていたのかもしれない。唐突に背後から福沢に注意されて千歳はどぎまぎした。周囲のパート達が、まあまあと励ましてくれる。マスクに隠れていて良かったと思うくらい、顔が熱く火照った。人前での注意は恥ずかしいものだ。それなのにさらに福沢が言った。
「……なんか臭うね。帰れと言うほどでもないけどちょっとキツイ」
「すみません。昨日、近所の奥さんからいいからとすすめられた柔軟剤なんですけど、今の方が臭いますね」
「うーん、他のみんなへの示しが付かないから、もう使用しないでくれる?」
「わかりました。洗濯し直します」
「頼んだよ」
福沢は他のラインへ歩いていったが、千歳はやってしまった……と落ち込んだ。理絵がアロマテラピーの店で買ってきたという柔軟剤だが、やっぱり匂いがきついようだ。ひょっとすると将貴も臭っているかもしれない。ボトルを洗濯機の隣の棚にある洗剤の場所へ置いてしまったし、いつも使っている柔軟剤はきれてしまっていた。洗濯は各個人がしているので同じものを使っているとは限らないが、使っていないとも限らない。パート達は気にするなと言ってくれたが、やはり気になる。
「はい次はカツ丼になります。コンテナ替えてください」
ラインの先頭のパートが言う。今度はカツ丼をピッキングするようだ。千歳はカツを載せる担当らしく、目の前の棚に置いてあった漬物のコンテナが、カツのコンテナに差し替えられた。皆がラインを雑巾で綺麗に拭き、消毒液を吹きかける。そして一斉に新しい手袋に替えた。このライン作業というのは今まで作業の中で一番疲れる。同じ場所にずっと立っていなければならず、他の場所へ行って別の作業をしたりしない。なかなかラインの流れに目が慣れず、時々ラインが止められるとふんわりと逆方向へ流れていく錯覚が起きる。バス酔いやブランコに乗った時のあの三半規管の狂いになんとなく似ていた。
「あら珍しい、管理部の部長だわ」
隣のパートが言い、千歳はそちらを見た。あの小柄でやせぎすな姿は確かに将貴だ。名札に石川とあり真っ黒なサングラスをしていた。
「目が悪くて失声症だと聞いてるけど、なんかあの人素敵よね」
「まーた敏子のやばい癖が始まった。あんなの副工場長にくらべたらへちゃだわよ」
「あんな人が旦那だと毎日が楽しそう」
「新婚の幸せバカップルが何言ってるんだか」
「幸せだよ。でももっと夢が見たいの」
千歳をはさんでパート達が作業しながら言い合う。福沢と将貴はファイルをぱらぱらとめくって打ち合わせをしている。仕事をしている将貴はよりシャープに見え、顔が見えなくても雰囲気的に素敵だ。あれで福沢並みに身長があったらあの格好でもかなりもてるだろう。
(確かに将貴さんかっこいいなあ。あんな妙なサングラス取っちゃえばいいのに)
将貴は勤務中ずっと帽子を被りマスクを外さないらしい。来客などへはどう接しているのか謎だ。ラインにご飯を載せたトレイが流れてくる。千歳はつぎつぎにカツを載せていった。作業は単調なのにとても疲れるし、だるい。床へ身体が吸い寄せられるようだ。
「結城さん、カツがはみ出ていてあんがかけづらいわ」
「すみません」
隣のパートにあやまり、千歳はカツを直す。今日は朝から調子が悪い。斜め前の壁掛け時計を見るとまだ勤務時間は二時間も残っている。終日この作業だろう。ふうと静かにため息を吐き、新しいカツを手に取った。なんだか手の感覚がなく指先が冷たい気がする。ラインの部屋は冷蔵庫並みに寒く、一ケタ台の温度に設定されているので本当に冷えたのかもしれない。
トレイはどんどん流れてくる。いつになったらこの流れは終わるのだろう。
「結城さん!」
隣のパートの叫びが遠くに聞こえる。千歳は目の前が真っ暗になり、そのまま床に崩れ落ちた。
────幸せだよ。でももっと夢が見たいの。
昔の千歳はただ漠然と結婚して幸せになるのだと考えていた。しかし砂糖菓子のように甘いその夢は叶わず、千歳は夢を見た代償のように負の残滓を現実という形で押し付けられた。貯金が盗まれ、闇金融の借金を押し付けられ、親から勘当され、……鈴木は他の女のもとへ走った。
最近、自分は上手く笑えているだろうかと気にしている時がある。進んで人と距離を置いているのに迷うのは何故だろう。その方がお互いのためだというのにこの数週間それが崩れ始めている。将貴がご飯を作ってくれた時からなのはなんとなくわかる。でもそうさせているのが何なのかわからない。いや違う。わかっているけれど認めたくない。認めたら……なんだか恐ろしい。
鈴木が一ヶ月の出張から帰ってくるとワクワクしていたあの日。仕事帰りの千歳はご馳走を沢山作るため、スーパーで沢山の食材を買い込んでアパートへ帰ってきた。鍵が開いていたのでもう帰ってきていたのかと喜んだのもつかの間、玄関には数人の見慣れない男達の靴が脱ぎ捨てられていて、違和感に身体が竦んだ。中から嫌な雰囲気な男が出てきて嫌な笑いを浮かべ。口にくわえている煙草を転がした。
「結城千歳さんだね?」
「はい、あの、あなた達は……」
「まあ立ち話もなんだから、こっちへ来てくれ」
鈴木の靴がない。千歳は怖いのと嫌な予感で逃げ出したかったが、男に逃げないように腕を掴まれてリビングまで引きずられていった。棚やクローゼットからあらゆるもの引っ張り出されて辺り一面服や本やゴミが散乱しており、男達が勝手に家捜しした事がわかる。空いているスペースで数人の男達が我が物顔でトランプをしていたが、千歳を見るとトランプをしまった。千歳は一人の男と向かい合う形で座らされる。明らかに皆堅気ではない。特に目の前の男の頬の傷は刃物で切られたものだった。男は一枚の紙をローテーブルの上へ出した。
「あんたの婚約者の鈴木たかしはうちに多額の借金をしていましてね。ああ失礼、私はわかばマネーバンクの城崎と申します。いわゆる消費者金融の者です。それで鈴木さんが一週間前から何度電話しても出てくれないんですよ。うちとしても返済期限が一週間ほど過ぎておりますので、これ以上利子が増えると彼のためにならないからとこうやって受け取りに来たんですが……。部屋を探してみたら彼の荷物だけがない。さっするに蒸発というやつですね」
「たかしは出張してたんです。今日帰ってくると」
城崎は着崩したスーツを揺すって笑った。
「ひと月前、成田空港でアメリカのロサンゼルス行きの飛行機に乗ったのを最後に、鈴木たかしの足取りがつかめないんです。帰ってくる予定はないと見ていいでしょうな」
寝耳に水とはこの事だ。千歳は違うと叫んだ。
「たかしは大阪に出張だって……!」
「だからそれは嘘なんですよ。我々もロサンゼルスまではさすがに……ねえ? で、手短に貴女に支払って頂きたいんです。貴女、婚約者でしょう? 連帯保証人になってるし」
「…………」
二人で家を建てる予定で契約書にサインをしたのは覚えている。机の上に出された契約書を見た千歳は、写しのそれに騙されたのだと気づいた。おそらく家の契約書の下にそれが重ねてあったのだろう。消費者金融に借金など初耳だ。それにロサンゼルスとは何だ。たかしはふた月前に別の工場に転職して、ちゃんと働いているはずだ。城崎が考え込んだ千歳ににやりと笑った。
「おまけに鈴木さんは職業も偽っていましてね。佃製菓を辞めた後、ずっと無職なんです」
「そんなはずはありません!」
千歳はまた叫んだ。ではこの長期間の出張や、会社へ出勤していた後姿はなんだったのだ。城崎はわはははと、心底千歳の無知を馬鹿にするように大声で嘲笑った。同じように笑った男の一人が言った。
「わかってないなあ。アンタだまされたんだよ。奴は空港で綺麗な女と腰に腕を回し合って飛行機に乗って行ったらしいぜ。相手の女はキャバ嬢でね、アンタと違って綺麗で良い身体つきしてたらしい。そんな抱く気も起きない棒っきれじゃない」
かっと千歳の顔が怒りで赤く染まる。
「彼はそんな人じゃありません。別人です」
「じゃあ鈴木に連絡取れるか、あんた?」
「連絡?」
「そう。スマートフォンの番号を知っているだろう?」
千歳はやけに自信満々な城崎に言われ、胸が苦しくなってきた。最後に出張だと言って出て行った鈴木の笑顔が忘れられない。あの時鈴木は妙に晴れやかな顔をしていなかったか? 一ヶ月だけの出張にしてはやけに部屋の物を処分していた。仕事だからメールも電話もしないでくれと、申しわけなさそうに言った鈴木の顔が脳裏に浮かぶ。そして気になる一言も。
『お前は一人でも生きていけるだろうな』
『そんなわけないじゃない』
玄関口でやけに明るく言ったたかしに、千歳も明るく言い返した。あれは……。
疑惑が暗雲のように立ち込め、スマートフォンを取り出す指が震える。
(うそよ、うそに決まってる。たかしは今大阪から帰ってくる新幹線の中よ……!)
しかしスマートフォンから聞こえてきたのは、現在この番号は使われていないという機械的なアナウンスだった。