天使のマスカレイド 第18話

 翌朝、目覚めた将貴が起き上がろうとしてふらつき、床に倒れた音でソファで寝ていた千歳は跳ね起きた。

「将貴さん大丈夫ですか!?」

 まだ将貴の身体は燃える様に熱い。千歳がナースコールするとすぐに看護師が現れ、将貴をベッドへ連れ戻すのを手伝ってくれた。将貴は抗おうとして直ぐに諦め、辛そうに目を閉じた。

「喉が渇いてませんか?」

 千歳が聞くと将貴は黙って頷いた。点滴でいろいろ補給しているとはいえ昨日から何も口をしていない、薬のみでそっと水を与えると、弱弱しいながらも将貴はゆっくりと飲み下していった。看護師に呼ばれたのか院長の木野が部屋へ入ってきた。椅子に座っていた千歳は立ち上がり頭を下げた。

「おはようございます」

「おはようございます。将貴さんの様子はどうですか?」

「熱がまだ下がらないようです。今計ったら39度のままで……」

「後で検査をします。結城さんも今日は人間ドックでしょう? 貧血の疑いも出ているようですので貴女もあまりよい体調とは言えません。早くしたくなさってください」

 自分の検査を千歳はすっかり忘れていた。でも将貴を置いていくのは気が引ける。すると木野はどちらにしろ将貴は部屋を移動するし、これから先は看護師に任せて欲しいと言った。千歳はこんな事をしている場合ではないのにと思いながら看護師から手渡された検査着を手にし、検査を受ける人が着替える部屋へ入った。どのみち支払いは佑太がすると話がついているので金銭の面ではまったく心配はないが、将貴がこの調子では欠勤になってしまう。最初の検査の前に時間が少しあったので看護師に電話が出来る場所へ案内してもらい、千歳は会社の代表電話番号へ電話をかけた。

『ひまわりカンパニーです』

 よりにもよって出たのは福沢だった。事務所には数人の事務員がいるのに、何故副工場長が出るのよと内心で毒づきながら千歳は簡潔に事の成り行きを話した。

『いつかはこうなるかと思ってたんだ……』

「いつかとは?」

『気付いてなかったの? あいつ、ほとんど休み無しで夜勤どころかほとんど会社にいる、住んでるって状態だったんだ』

「そういえばどちらかというとあんまり家にいなかったような。でも最近は!」

『うんそうだね。結城さんが来てからはなるべく家へ帰るようにしていたし。でもやっぱり出勤しすぎだったよ。管理職だからっていい加減にしろと注意したんだけど、なかなか話を聞かなくて困ってたんだ』

「……そうだったんですか。じゃあ、ストレスの風邪どころじゃないのかも」

『ああ。とにかく一週間ぐらいは休んで欲しいね。こちらの事は心配しなくても良いよ。それより結城さんはどうなんだ?』

「私は予定通りに終わりそうですが、将貴さんが治らないと動けません」

『わかった。じゃあその様に処理しておく』

「お願いします」

 受話器の向こう側から、楽しげな笑い声が聞こえた。

『そんなに将貴が好き?』

「は!?」

『帰ってきたらデートしような。いい所に連れて行ってやるから。ああ食い物屋だけど』

 事務所でなんて電話をしてくるんだと、千歳はビックリした。言い返せないうちに看護師が検査の準備が出来たと言いに来たため、千歳はそのままスマートフォンを切った。どうやら福沢はとことんせめるタイプのようだ。彼は人気があるので、これから先面倒な事に巻き込まれなければいいがと千歳は思わずにはいられない。事務所には若い独身女性が数人いるのだ。狙っている者は多いだろう。千歳は自分の周りがどんどんと変わり、それに伴って自分の心も変わっていくのを痛感せざるを得なかった。自分は将貴が好きなのだ、他の男性からのあからさまなアピールは困る。

 連れて行かれた先は採血室だった。最初は採血をするらしい。看護師が千歳の腕をゴムで縛り消毒綿で消毒した。

「すぐ終わりますからね」

「はい」

 千歳は血を見るのが何よりも苦手で、人の怪我を見ただけで気を失いそうになる。採血の容器へ血液がなだれ込んでいくのが目の端に移り、思い切り自分の腕から顔を逸らした。物理的なものならこうやって回避できる。でも目に見えない心や感情は回避できない。好きだった人を目の前にした途端倒れた将貴を思い出すたび、胸が苦しくなって息が詰まる。

(まだ将貴さんは美留さんが好きなんだろうな)

 美留というあの可愛らしい女性が自分と正反対のタイプで、佑太にとても愛されていたのを思い出すのも辛い。人の幸福を辛く思うなんてよくない。よくないとわかっていても自分と比べてしまう。

(もっと可愛気のある女性になりたかったなあ。そうしたら……なんて、馬鹿ね、そんなのあるわけない)

 採血が終わり手当てされる。次の検査室へ向かいながら、千歳の心は病院にはなくどこか遠い空を求めていた。

 夕方、ようやくすべての検査が終わり、くたくたの千歳は看護師に連れられて将貴の新しい個室に入った。そこは朝までの豪華な部屋ではなく、いたって普通の白い壁と簡素なベッドの部屋だった。ブラインドが下げられた室内はひっそりとしており、将貴は点滴をまだ続けている。眠っているようだ。容態チェックのファイルがベッドの足もと側にかけられており、見てみると体温は少し前の検温で38度まで下がっていたので千歳はほっとした。将貴と反対側の壁に同じベッドがあり、そこに千歳の名前が書かれていた。未婚の男女が個室で二人きりとは非常によろしくないが、何が起こるわけでもないからかまわないと判断されたようだ。それはそれで悲しい気もする。

 なんとなく将貴の寝顔を見ていると、睫がピクリと動き、青い目が千歳を見つめた。

「あ、起きました? 今夕方ですよ」

『そう……』

「ご飯は食べられそうですか?」

『……多分食べられる』

 

 将貴はゆっくりとベッドの上で起き上がり、部屋を見回した。

「今回はすみませんでした。熱があるのに私わかってなくて」

『お前が悪いんじゃない。いつもなら大した事ない熱だったんだ』

「そうですか。でも熱がある時は無理されないでくださいね。会社に電話したら副工場長が出てくださって、暫く休むようにとのお話でした」

『ふうん』

 再びベッドに寝転び、将貴は目を閉じた。静か過ぎるので千歳は将貴の了承をもらってテレビをつけた。ご当地番組が流れ、若いキャスターが都内のケーキ屋で話題になっているというイチゴケーキをおいしそうに頬張っている。千歳は洋菓子は苦手で和菓子の方が好きだが、あんまりにもおいしそうに食べているのを見ると食べたくなってきた。今度駅前のケーキ屋で買うといいかもしれない。やがてコマーシャルに変わり、俳優がビールをごくごくと飲み始めた。そういえばこの間福沢と天麩羅屋へ行った時、飲みそこねた。あの天麩羅屋はとても良かったのでもう一度行きたい。帰ったら一人で行ってみよう。

 ふと視線を感じて将貴を見ると、いつから見ていたのか将貴と目が合った。珍しく将貴が微笑み、千歳を手招きした。

「ど、どうしたんですか?」

 千歳は内心ドキドキしながら、自分のベッドから将貴のベッドへ近寄った。

『……美留を見てどう思った?』

「は? みるって……あの佐藤社長の奥さんですか?」

『そう』

 何故そんな事を聞くのだろうと思いながら、千歳はあの女らしい柔らかな雰囲気に包まれた彼女を脳裏に思い描いた。ちくりと胸が痛くなるのは嫉妬のせいだ。

「男の方が好きそうなタイプですね。きっと人気があったんじゃないですか?」

 くすくす将貴が笑った。まったくもって珍しい。しかしその笑顔には今にも崩れそうな何かがあり、ほころびを突けば心の奥底が露呈しそうな危うさが見え隠れしていた。

『男女共に人気があった。俺には高嶺の花だった』

「そうですか? 将貴さんこそ高嶺の花に思えますけど」

 将貴は首を小さく左右に振った。

『……高すぎて、俺はどうやって取ればいいのかわからなかった。取る方法を知っていたのは佑太だけだった』

「あの強引男の事だから無理に迫ったんじゃないですか? 美留さん優しそうだし大人しそうだし」

 言いようのない怒りが心の奥底から沸いてきて、千歳は思わずつっけんどんに言ってしまった。将貴に猛烈に腹が立つ。独りよがりな怒りなのを自覚していても、今の千歳にはそれを押さえる根気強さがなかった。

『美留は大人しそうに見えるけど流されない人だ。望まない男からの告白などたとえ相手が王様でも受けやしない』

「そうですか。で、一体何がおっしゃりたいんです?」

 機嫌が悪くなった千歳に気づいて、将貴が謝った。

『うん。こんな話をお前にするのは間違っているな。お前には何の関係もないのに、ごめん』

 相変わらず壊れそうな笑顔で言う将貴が憎らしい。そして、こんなふうに将貴を動かせる美留が心底うらやましい。きっと将貴は千歳の事で怒りはしても泣きはしないであろうから。気まぐれに扱っても多少なら大丈夫で、いいところで気の合う異性友達と言ったところだろう。

 ぷんすかしている千歳の横で、笑顔を消した将貴の唇が動いた。

『……お昼に男の子が生まれたんだって。早産だから保育器に入れられているらしいけど元気だって』

「生まれたって、美留さんにですか?」

『そう。名前は……知らないけど』

「柳田秘書が伝えに来たんですか?」

『いや、佑太が直接に言いにきた。……だから俺は決心した』

 先ほどまでの怒りがすっと冷めた。頼むよと言った将貴の父親の寂しげな顔が将貴に重なる。父親の貴明のような優しい茶色の輝きは将貴の目にはなく、その青さは冷たくて氷のように暗い影のようだ。彼はいつも家や家族の話になると無表情になり、人間らしさを失ってしまう。

 千歳は妙に喉が渇いた。嫌な予感がする。

『もう俺が帰る場所はあの屋敷にはない。二度と……帰らない』

 テレビではのどかに天気予報が流れていた。暫く晴天が続くらしい。千歳は再び目を閉じた将貴を見下ろし、やはり彼を連れてくるべきではなかったのだと後悔した。どうしてこうもうまくいかないのだろう。父親の貴明は将貴が帰ってくるのを待っている様子だった。口止めされていなければ伝えられるのにと千歳はもどかしくてならなかった。

web拍手 by FC2