天使のマスカレイド 第24話

 もんもんとしながら自転車を漕いでアパートに戻った千歳は、玄関の靴を脱ぐ場所に女物の靴を発見して驚いた。リビングの方から明るく笑う若い女の笑い声が聞こえる。将貴が女を連れ込むなど想像もしていなかった千歳は、将貴には妹が居たから彼女かもしれないと思いながらリビングの戸を開けた。

「あ、貴女が恋人役してる結城さんですか? おじゃましてまーす」

「……こんにちは」

 将貴と向かい合って話をしていたセミロングの女が振り向いて、笑顔で挨拶してきた。化粧気が無く美人ではないが、とにかくはちきれんばかりに明るい女のようだ。千歳はわけがわからなくて困惑した。一体なんなのだ。えらく楽しげな将貴が珍しい。笑顔満面など見たのは初めてだ。

「彼女は増田朝子さん。お前より二つ年上。しばらく俺の部屋に泊まってもらう事になったから」

「は!?」

「ちょっと家でごたごたがあったらしくてね。昔の仕事先でお世話になった人のお嬢さんで妹みたいな人だ」

「妹みたいな人だからって……、同じ部屋って」

 咎める千歳に朝子が元気よく言った。

「大丈夫です結城さん。私もお兄さんだと思ってますから。あ、ただで居候させてもらうわけですからその間は家事を全部やらせてもらいますね!」

 ずいぶんと積極的な性格らしく千歳はおされ気味だ。こんな風にニコニコ笑って嫌味が無い人間は苦手なタイプで、千歳はたじたじとなった。

「で、でもそれは私の仕事で……」

 取られたら困ると言うとしたのを、将貴が遮った。

「お前は働きすぎだし少しは休んだほうがいいと思ってたんだ。大丈夫、朝子は家事得意だから。掃除の腕は一級だし、こいつの作る讃岐うどんは凄く美味いぞ」

「じゃあ早速作らせてもらおうかな。将貴さん、お手伝いお願いします!」

「わかったわかった、相変わらず強引だなあ朝子は」

 手を引っ張られて、はははと笑う将貴。二人はキッチンへ行ってしまい、千歳はぽつんとリビングに残された。疎外感が半端無くてキッチンへ行く気が失せ、仕方なく自分の部屋で着替えて絨毯の上に寝転んだ。キッチンから楽しそうな笑い声が聞こえるのがやるせない。あんなに愛想の良い将貴も別人を見る思いだ。

(どう考えても……あれって……恋人同士にしか見えないんだけど)

 いくら妹のようなものだからって、赤の他人だ。千歳は深くため息をついた。

 食事が出来たと朝子に呼ばれ、椅子が足りないからという事でリビングのローテーブルにご飯が並べられた。ほとんど朝子が作ったという料理は、どこかの旅館の献立のように品数が多く、見栄えも味も素晴らしかった。二人がひっきりなしに話しまくる中、千歳はぽつねんと食事を口に運んだ。成る程、これなら素人に毛が生えたレベルの千歳の料理は必要ない。ひょっとすると今まで将貴は、不味いなあと思いながら食べていたのかもしれない。

「美味しくないですか?」

 不意に朝子から声をかけられて千歳は焦った。いつの間にか二人がじっと自分を見ている。

「いえ、あの……、この秋刀魚に柚の味がついているの、上品で良いなと思って」

 それは薄く切った柚を三枚おろしにした秋刀魚でくるりと巻き、醤油などの調味料で味付けされて焼かれている、千歳などではなかなかできそうもない一品だった。

「うれしい! それ私の自信作なんです。もっと食べてくださいね」

「あ、はあ」

「将貴さんが話していたとおり、千歳さんって静かな方なんですね。すみません……私ってうるさいってよく言われるんでご迷惑かも」

「いえ、そんな事は」

「よかった。今はここに居るしかなくて、出てけって言われたらどうしようと心配だったんです。毎日ご飯作るの頑張っちゃいます。掃除も洗濯もなんでも言ってくださいね」

 明るくて素直で元気な朝子を前に、千歳は作り笑いを浮かべるのに必死だ。胃が一気に痛くなってくる。なんとか料理を口に押し込んで、話しまくる二人を横目にキッチンで食器を洗い、さっさとシャワーを浴びて部屋に引っ込んだ。いつもなら静かな時間が流れていくだけなのに、今日は息が詰まるし、隣からは楽しそうな笑い声が聞こえてくるしでさっぱり落ち着かない。階下の理絵は、最近二人目を妊娠したせいでつわりがひどく、子供の葵と一緒に実家へ帰ってしまい、逃げ込みたくても逃げ込めない。理絵の夫が、理絵は吐きづわりだからおそらくまた入院になるだろうと言っていた。見舞いに行きたくても彼女の実家は北海道でとても行けそうも無い。おそらく出産まで帰ってこないだろう。

(副工場長の事聞きそびれちゃった)

 だが、あの朝子を家へ引き入れたのを見ると、二人は完全にグルだ。どう考えても千歳が邪魔になるから追い出しにかかっているようにしか思われない。将貴はきっと朝子と暮らしたいから福沢と千歳をくっつけようとしているのだ。そうなるとますます将貴が千歳を好きだと言ったりキスしたのは何故なのかわからなくなる。

 また二人の笑い声が聞こえた。将貴の部屋からだ。将貴は千歳はなんとしても入れないくせに、朝子はあっさり入れている。しかもそこで寝泊りさせるという。将貴が朝子のほうを大事にしているのは一目瞭然だ。

 見上げている天井の木目模様がにじんでぼやけた。布団の中へ引っ込んで千歳は涙を拭いた。

(私、また居場所が無くなっちゃうよ)

 工場に居る理由さえもなくなった。でも福沢にあんなふうに言った手前いきなり辞めるなんて無責任もいいところだ。しばらくは我慢して勤めるしか無いだろう。なんだって今、将貴と同じ課に居るはめになるのだろう。毎日顔を合わせなければいけないなんて地獄だ。会社でも家でも気が休まりそうも無い。

 義姉のあかりに会いたいな……。痛切にそう思った。また新たな涙が転がり落ちた。

 翌日、千歳は昨夜と同じような状態で朝食を済ませ、今日は遠出するからご飯はいらないと二人に言い置いてアパートを出た。二人で積もる話が有りそうだし、ひょっとするともっと親密な事をするのかもしれない。本当なら福沢のデートなどすっぽかしてしまいたかったが、これ以上あの部屋に居ると確実にストレスで胃に穴が空きそうだ。これも二人の策略かもしれない。

 自転車で駅前まで行き、自転車パーキングで自転車に鍵を掛けた。朝の出勤ラッシュの時間なのでスーツを着た大人たちが幾人ものろのろ足の千歳を追い越していく。時計を見るとまだ8時40分だ。早く来すぎたのかもしれない。千歳は東口の階段近くの壁にもたれ、忙しそうに階段を上り下りする人々を眺めた。階段を二段ぬかしで走っていく遅刻確実の学生達、余裕たっぷりで歩いていく綺麗に化粧をしたOL、同僚なのか仲良く話しながら上っていくビジネスマン達。誰も彼もキラキラ輝いてみえる。

 クラクションの音がして目をやると、あのオデッセイが止まっていた。時計は50分を指している。楽しげな福沢には申し訳ないがなんだかため息しか出ない。しかし乗り気ではないのは向こうも承知だろうと思い直し、千歳は挨拶をしながら助手席のドアを開けて、車に乗り込んだ。

「千歳は相変わらずな格好だな。デートの時ぐらいおしゃれするかと思ってたが」

「私みたいなのが化粧しても代わり映えしませんから」

 名前で呼ぶなと言う気も失せてしまった。千歳はTシャツにジーンズのボトムといういつもと同じ組み合わせの会社への通勤着を着てきただけだ。タダでさえ色気が無いといわれているのに、ますます男のような素っ気無さだけが目立ってしまっている……。流れていく景色を車窓からなんとなく追いながら、千歳は内心でそっちも大して変わらないじゃないかと毒づいた。福沢はこぎれいに整えてはいるが、長袖のシャツにスラックスだ。普段着と全く変わらない。それでも福沢は人目を惹く容貌なのでモデルのようにかっこよく見えた。

「まあそうひねくれるなよ。将貴が女連れ込んだからって」

「何で知ってるんです?」

「昨日の昼に俺に言ってきたんだよ。徳島に居た頃の知り合いらしいけど」

「徳島?」

「ああ、あいつ、家出した時に徳島の旅館の厨房で働いてたそうだぞ」

 そう言えばそんな事を話していた。

「……一緒の部屋に寝泊りするぐらいの仲みたいです」

「へええ。じゃあやっぱり将貴は千歳をお役御免にしたくて、お前と俺をデートするように仕向けたって事か」

 ずきりと胸が痛んだ。福沢がちらりと見るのを感じながら、千歳はひたすら前を見続けた。

「……ところでどこに向かってるんですか?」

「美術館。ほら、あの山の上にあるだろ」

「へえ、あれ美術館だったんですか。なんだろと思ってたんですけど」

 国道を走っていた車は山へ通じる道路へ入り、いくつものカーブを曲がった後、丘の上にある以外に大きな美術館にたどり着いた。美術にはあまり興味が無いのだが、たまにならいいかと思いながら千歳は車を降り、福沢の隣を歩いて美術館へ入った。平日なのに人が多く、人気の美術館である事が知れる。

 色を塗りたくっただけにしか見えない、よくわからない絵画が展示されていて、千歳はなんとなくそれを眺めた。

「福沢さんはこういうのお好きなんですか?」

「いや、実のところとんと興味ないね」

「なんで来たんです?」

「なんとなくね、考えあぐねて」

 それなら映画とか行けば良い。なにか外れている福沢がおかしくなって千歳が吹き出すと、福沢はああこっちだといいながら、絵画が展示されている場所を抜けて、隅に作られているコーナーへ千歳の手を引いた。恋人でも無いのに手を引かれるのには抵抗があったが、かなりの混雑でこうでもしていないとはぐれそうで、千歳は黙って引かれるまま福沢についていった。

 そこは圧倒的に女性が多かった。パンフレットを見ると、「ヴィンフリート・レースの世界」とある。なるほどレースなら女性が多いはずだ。入り口にはステンドグラスのように編まれたレースドイリーが飾られていて、目が嫌でも吸い寄せられていく。直径2メートルはあるだろうか。こんなものを編むのにはどれほどの時間がいるのだろう。

「すごいですね」

「俺もそう思う」

 福沢が神妙な顔で頷く。日本に居るのにそのレース達からはヨーロッパの香りがした。網目はきっかりと揃っていて寸分の狂いも無い。それらが複雑に絡みあってすばらしい模様になっているのだ。

 その隣にはユニコーンが少女と戯れているドイリーがあった。たった一本の糸からこんな叙情溢れたものが出来るというのが新鮮だ。レース糸は純白、生成り、黒、赤、青、まだら模様などさまざまな色で編まれており、絵画のように薔薇の花が咲き誇っている。

 次々に二人は人に押されるように作品を眺めていった。

 幾何学模様のようなものもあれば、花を編みこんだ立体的なもの、ビーズがあしらわれてキラキラしているもの、女性のブラウスの上などにつける襟、肩に掛ける美しいショール、最後にはレースのみで作られたドレスが出てきて仰天した。もはやこれは編みではなく織っているのではなかろうか。こんなドレスを着るのはどんなに素晴らしい女性だろうか。

「私こんなものを作る根性はありません……。凄い人が世の中にはいるものですね」

「はは、俺もレースなんておばちゃんの趣味のひとつだと思ってたけど、こんな芸術の奥深さを感じさせるなんて、圧倒させられたよ」

 二人は美術館に併設されているカフェテラスに入り、千歳は紅茶、福沢はコーヒーを頼んだ。ここへ来るまでのもやもやがレースの美しさで払拭され、なんとも清清しい気分だ。レース展のパンフレットを眺め、来月の中旬までやっているのを確認し、また一人で来ようと千歳は思った。できるなら休みのたびに通いたい。それほどの感銘を千歳は受けた。喫茶店の隣に売店コーナーで、ヨーロピアンレースの本がいくつか売られているのをさっき見たのでアレを買って帰ろう。

「これって何人もの人の作品なんですか?」

「いや、一人が作ったんだよ。何年もかけてね」

「……はあー……凄すぎます。あのドレスなんか最高。おしゃれ心がない私でも着たい気分になりました」

「ははは。よっぽど気に入ったんだな。だったら作ってもらったら?」

 御曹司のせいか、途方もない事を福沢は言いだす。冗談ではない、あれほどの作品なら数百万は余裕でするだろう。すると福沢は意味深なそぶりを見せた。

「千歳が頼んだらきっと作ってもらえるぞ?」

「は? なんでですか。私が入場千人目でそういう企画でもあるんですか?」

「そんなんじゃないよ。でも多分作ってもらえるさ」

「なんでですか? 福沢さんの知り合いですか? このレースの作者は」

「まあ知り合いだな」

「さすが御曹司ですね」

 千歳が妙な事に感心すると、福沢はまだわからないのかと笑った。千歳には何がなにやらさっぱりだ。

「ヴィンフリート・セバスティアン・フォン・シュレーゲル。佐藤の家はドイツ貴族のシュレーゲル家の分家。一族の名前を重んじる妙な一族だから、本名とは別にドイツ名も持っているのさ」

「佐藤の家……って、将貴さんの家、ですか」

「鈍いな。ここまで言ってもわからないのか。まあ仕方ないか、将貴とあのレースは結びつきにくいし」

「…………?」

「あいつ、シルクとかコットンとか大荷物頼んでない? 部屋に入るなとか厳しくないか?」

「え、と、ちょっと待って。じゃあそのヴィンなんとかさんが、将貴さんて事ですか?」

「そう言ってるけど」

「そうって……。え、ええ? ……ええええええ!?」

 千歳はレース展を振り返った。喫茶店の直ぐ隣なので、あの素晴らしいレース達が目に入る。そして福沢を見て、パンフレットに目を落とした。意味もなく心臓がばくばくとうるさい。千歳は震える手でレース展を指した。

「じゃ、じゃあ……あれって皆将貴さんが編んだんですか?」

「そう。あいつはヨーロッパじゃ超有名なレースデザイナーなんだよ」

 驚きすぎて千歳は空いた口が塞がらない。

「朝子さんを部屋に入れたとなると、助手が必要な位忙しいんだろうな。彼女もレース編みはお手の物だから」

「…………」

「将貴が朝子さんを部屋に入れたから、朝から仏頂面なんだろ? 謎が解けたか?」

「レース……」

「ああいう仕事は化粧と埃をとにかく嫌うからな。これでわかった? あいつが他人を部屋に入れない理由」

 それはわかったが、千歳はこのレースを生み出したのがあの将貴だという事実の方が驚きで、しばらくはその事で頭がいっぱいになり、何も言えなくなってしまった。

 佐藤将貴。石川将貴。ヴィンフリート・セバスティアン・フォン・シュレーゲル。一体彼はいくつの顔を持っているのだろう。

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