天使のマスカレイド 第25話
美術館を出ると、福沢の車は高速に入った。なるべくアパートへ帰りたくない千歳は遠出は大歓迎だったが、一体どこへ向かっているのかが気になる。なんとなく嫌な予感だけがした。
「ねえ……どこへ向かってるわけ?」
「ん? 大阪市内」
「大阪ってなんでそんなところまで……」
千歳の住んでいるところから大阪までは、高速道路を使っても大体二時間かかる。遠出にしては遠すぎる気がした。電車でも少し躊躇う距離だ。福沢はハンドルを握りながらそんな千歳を笑い、カーステレオをつけた。
「きらきらなものと疎遠になってる千歳に、きらきらなものを身近に感じて欲しいと思ってね。そう身構えなくたって怖い事なんてないよ」
「……きらきらってなんです?」
「さてね。着いてからお楽しみ」
ふふふと含み笑いする福沢は行き先を言う気はないらしい。どうとでもなれと千歳は思い、快適に走っていく進路方向を見た。大型トラックが追い抜いていく。今頃将貴と朝子はせっせとレースを編んでいるのだろう。明日も休みなのでできるならどこかで外泊したいなと千歳は思った。
カーステレオから快適なロックが聞こえるだけで福沢が何も話さなくなり、千歳も何も話さないまま車は二時間後に大阪市内へ降りた。平日のせいか思ったよりひどい渋滞は無く、オデッセイはすいすいと進んでいく。そしてとあるホテルの地下駐車場に入っていった。
「あの、本当になにがあるんですか?」
「降りてのお楽しみ」
車から降りた千歳はあたりをきょろきょろ見回した。周りが皆高級車なのが気にかかる。普通すぎるオデッセイが酷く目立った。
駐車場からのエレベーターが着いた先の階は、ホテルに入っているにしては大きなブティックで、千歳でも知っている海外ブランドのドレスやスーツが展示されており、見るからに高級な感じがする。二人が入るとさっそく店員が営業用スマイルで出迎えた。
「お待ちしておりました福沢様。用意はできております。そちらのお方が結城様ですか?」
「とびきりきれいに頼む」
「ま、ほほ……。結城様どうぞこちらへ」
出てきた若い店員に千歳は案内されながら、一体何が起こるのだろうと福沢を振り返った。福沢はうれしそうに笑って手を振っている。奥の部屋に案内された千歳は服を脱がされ、何故かエステを受ける羽目になった。そんなものを受けた経験の無い千歳は、身体を隅から隅まで時間を掛けて磨き上げられ、終わる頃にはへとへとになった。思えばカフェテラスで紅茶を飲んだきり何も食べていない。椅子に座らされた千歳が時計を見上げると12時を過ぎていた。美容師にヘアメイクを施されながらお腹がすいたなと思っていると、店員が気を利かせてサンドイッチなどの軽食を千歳に持ってきてくれた。
「福沢様が女性を連れていらしたのは久しぶりですわ」
「……そうですか」
「今日のパーティーは特別なものですからね。福沢様も気合がお入りみたいで……フィアンセのお客様としてはいかがですか?」
「フィ!?」
目を向いた千歳に店員はころころ笑った。
「お隠しにならなくてもよろしいのですよ。福沢様以前におっしゃっておいででしたの、次は本命しか連れてこないからって。本当に素敵なお嬢さまですわ」
お世辞はいいとしてフィアンセは我慢ならない。
「私、フィアンセじゃないです。福沢さんは私の勤め先の副工場長で私はそこの社員です」
「まあまあそんな恥ずかしがらなくても」
取り合ってくれない店員にイラついたが、顔のメイクに入ったので千歳は黙った。おかしい。一体何のパーティーに出されるのだろう。それにしても無駄な事をするものだ。自分を磨いても本当に美しい女性の前では雑草のような自分なのに……。千歳は出てきたベージュ色の総レースのワンピースを見て余計にそう思った。鏡を見ると長めのショートヘアは綺麗にスタイリングされ、真珠のピアスが耳に揺れた。全体的に清楚な雰囲気が漂っている自分を、タキシードを着て部屋へ入って来た福沢が鏡越しにじっと見つめるので、千歳は恥ずかしくなってうつむいた。店員がうれしそうに言った。
「福沢様のお目は確かですね。よくお似合いです」
「そりゃそうさ、そのために作らせたんだ」
福沢が千歳の細い腰を抱いた。
「ちょっとどこ触るんですか!」
「エスコートしてるだけ」
そのまま福沢に連れられて再びエレベーターに乗せられ、千歳は福沢を見上げた。エレベーターには二人だけだ。
「私はいつ福沢さんのフィアンセになったんですか? それに作らせたって……」
「フィアンセにしたい人を連れてくると言っただけ。このドレスはただのプレゼントだと思ってくれ。そう高いものじゃないから気にするな」
「……」
エレベーターは最上階に着いた。降りるとそこは別世界で、何もかもがまばゆい光に照らされてキラキラしていた。美しいシャンデリアに思い思いに着飾っている紳士淑女、そこかしこから香る香水の匂い。ざわざわとはしているが街中の喧騒のような雑多としたものではなく、静かに流れるクラシック音楽の中で、上品な会話がそこかしこでかわされていると言った感じだ。
(……こんな世界があったんだ)
千歳はレース展のレースを思い出した。でもあのレースのドレスは、品があるけれど俗世間が香るこのパーティー会場には似合わない。木漏れ日の優しい陽だまりの下こそがふさわしい気がする。いうなれば、俗っぽさを感じさせない何かがあのレースのドレスにはある。それは将貴の怜悧な横顔を髣髴とさせた。
「こっちだ」
福沢に腰を抱かれたまま千歳は上座へ連れて行かれてどぎまぎした。皆が振り返りこちらを見る。なんなのだろうこれは。福沢は一組の壮年の男女の前に来て挨拶をする。二人はにこにこ微笑んでいて、男性の顔がとても福沢に似ていた。
「篤志、こちらの女性は誰だね?」
「紹介します。結城千歳さん、うちの工場の品質管理に今度入る事になりました。千歳、こちらは俺の両親だ」
「は、初めまして結城千歳です」
「よくきてくださった。結城さん、ゆっくりしていってください」
「あ、ありがとうございます」
やはり福沢の両親だった。二人とも堂々としていてなんだか緊張する。福沢の母親がうふふと笑った。
「じゃあこちらが、今篤志が執心している方なのね」
「そうです。今日は無理を言って来てもらいました」
「ふふふ。お父様そっくりね。結城さんごめんなさいね」
何がなんだかわからない千歳は、何をあやまられているのかさっぱりわからないし、本当に困ってしまった。自分だけがきらびやかなパーティーの中で浮いている気がする。福沢が移動しようと言って千歳を隅の方へ連れてきてくれ、ようやくほっと息をつく事ができた。
「一体なんのパーティーなんですか?」
「うちの会社の創立記念のパーティー。50周年だから豪勢にやってるみたいだな。取引先でもとくに重くみているところばかり呼んでる」
「……じゃあ私みたいな人間が」
「千歳に来て欲しかったから来てもらった。言ったら来なかっただろう?」
「そりゃまあ……」
そこまで話してようやく千歳は福沢から解放された。ずっと腰を抱かれていたのを忘れていて、今ごろ千歳は赤面してしまう。楽しそうに福沢は笑い、シャンペングラスを係から受け取って千歳に手渡してくれた。
「千歳は若いしそれだけ綺麗なんだから、もっと華やかなものを知るべきだ。将貴のそばで生活臭を漂わせているだけってのがやるせなかったよ」
「仕事ですから」
「仕事でも少し異常だ。過去は佐藤社長から聞いてるけど、いい加減忘れるべきだな」
「…………」
福沢はシャンペンを飲み、近寄ってきた父親の秘書であろう若い男から何かを耳打ちされ、ここで待っているようにと千歳に言って人混みの中に消えていった。一人になれた千歳は周囲をゆっくりと眺めた。華やかな装いの男女が大勢いるパーティーは壮観だ。なんとなく会社関係ではない人たちも居る。福沢の家は相当な名家で、おそらくセレブという種類に入るのだろうと千歳は思った。
「場違いな女性がいると思ったら君か」
聞き覚えのある嫌味満載の男の声に、千歳は顔をわずかにしかめながら声がした方を見やった。案の定そこには佐藤佑太がいた。黒のタキシードをスッキリと着ていて令嬢達の目を引いている。美留は出産したばかりだから居ないのだろう。秘書の柳田が静かに背後に控えていた。
「何か御用ですか佐藤さん」
「僕に対してそんな口を聞くのは家族と君位だな。あれからも兄さんとえっちらほっちらやってるの?」
「なんですかそれは」
「どうせ全然進んで無いんだろ。お互い悲劇のヒーローヒロインを気取ってるからな」
「悲劇?」
「そ。まあ勝手にやってれば? そのまんま年取ってもおままごとを続けてるのがお似合いだ」
「…………」
「そうそう。兄さん、レース展とやらを開いてるんだって? まったく、あんな素人に毛が生えた程度のものを展示するなんて世間知らずは恐ろしいね」
「見た事あるんですか?」
むっとしながら千歳が言うと、佑太は鼻で笑った。
「昔、母の部屋に沢山飾ってあった。今は無いがね。あんなものをいつまでも飾るなんて母もプライドが許さないだろうし」
「人間って出来ない事を馬鹿にする傾向があるそうですね」
「ふ……、相変わらず言うね」
にんまりと佑太が口の両端を上げて笑う。並の人間ならたじろいでしまいそうな危険なものがちらちらしているが、佑太ともかなりのつきあいになるので千歳は動じない。先ほどまでのおどおどとした千歳はそこにはいなかった。佑太を前にするといつも気が引き締まり、女戦士のように強気になってしまうようだ。
「じゃあなに? あんな素敵なレースが作れる将貴さんって凄いわ。それにくらべたら佐藤グループの社長なんて大した事無いじゃないとかとでも言うの?」
「大した事無い仕事なんて存在しません」
「へえ。じゃあ兄さんが一生厨房の隅で芋の皮むいててもそう言うんだ?」
「言います。人の貴賎は仕事や収入の差では決まりませんから」
「借金だらけだったから達観してるな」
そこで柳田が佑太を止め、佑太はまた機会があればと意地悪な笑みを顔に浮かべて千歳の前を通り過ぎた。相変わらず嫌味だらけの嫌な男だ。
千歳はむかむかしながらシャンペングラスを空にした。やっぱりこの場所は自分にはふさわしくない。帰ってきた福沢にそう言うと、福沢は腕時計を見てタキシードのポケットからキーを出した。
「ここの部屋をとってあるからそこで休んだら良い。ちょっと疲れてるだろ?」
「いえ。でも」
「遠慮するな顔色がなんだか青い。よく考えたら千歳は貧血を治療中だったのを忘れてた。俺はまだ一時間ほど抜けられないから。終わったら迎えにいく。君、ちょっと彼女を部屋まで連れて行って」
福沢が係の女性を呼んでくれ、千歳は疲れていた事もあって好意に甘える事にした。部屋はスイートの大きな部屋で、一人になったとたんにどっと疲れが出た。ハイヒールを履いた足は靴ずれはできていないものの履き慣れなくて、脱いだ途端に血が通うような開放感があった。ソファに自分の服がきちんとたたまれて置いてある。ドレスを脱いでアクセサリーを外す。本当はシャワーを浴びたかったが千歳はいくらなんでもそれはよくないと思い止まり、化粧を洗面台で落とすだけで我慢した。
ベッドには横になる気になれず、ソファへ横になりのびをすると生き返った心地がする。
「きらきらな世界もいいけど気疲れするな。やっぱり私には向かないわ……」
思ったより疲れていた千歳が深い眠りに吸い込まれた後、ソファの隣の小さなテーブルの上に置いてある、千歳の白いセカンドバッグの中のスマートフォンが鳴ったが、千歳は目覚めなかった。