天使のマスカレイド 第26話
わずかな金属音を立てて部屋へ福沢が入ってきたのは、それから40分ほど経ってからだった。ソファで寝ている千歳を見つけて抱き上げ、大きなベッドへ優しく寝かせる。そしてそのままバスルームへ入った。再び千歳のスマートフォンが鳴った。長い間鳴り続けては止まり、また鳴り続けるを繰り返していたそれに、バスルームから出てきた福沢が気付きセカンドバッグからスマートフォンを取り出した。ディスプレイに表示されている名前に微笑する。
「遅いなあ。もうお姫様は囚われてしまった」
白いタオル地のバスローブを着ただけの福沢は、スマートフォンの電源を勝手に切ってセカンドバッグへ戻した。千歳は眠っていてまだ起きない。その千歳の唇を人差し指でゆっくりと撫で、静かにベッドに乗り上がった福沢は千歳に優しいキスを落とす。温かな物が触れる違和感に千歳はやっと目覚め、福沢が直ぐ側にいたため目を見開いて飛びのこうとした。しかしそれを福沢が阻んだ。
「な……なんですか福沢さん」
されようとしている事をわかっていながら、千歳は震える声で自分をベッドに押し付ける福沢を見上げた。脅えた小鳥のような表情に激しく雄を刺激され、福沢は身体が熱くなるのを感じる。もう千歳は逃げられない。
「なんですかって、わかってると思うけど?」
「私、福沢さんを受け入れられません。だから……」
「そんなの今すぐとは言わない。ゆっくりでいいさ。なあ? 今のままで本当に将貴が千歳の思うような恋人になってくれると思うか? なるわけがない。どうぞ千歳を連れ出してやってくれと言うような程度の想いしかあいつは持ってない」
思い切り痛いところを突かれて、千歳は胸が痛んだ。そんな事はわかっている。
「だからと言ってこれはない……」
「俺を将貴だと思えよ。構わないから」
するりと腰を撫でられて千歳の身体は震えた。いつものあの強気さがなりをひそめ、千歳は福沢のなすがままにされている。押しのけようにも、猛禽類のような福沢の目の強さに縛られて動けないのだ。ぎゅっと目を瞑るとそこへキスが降って来た。
(誰か、助けて……)
怖い。男は初めてでは無いのに福沢の想いの深さがはかりきれなくて、それが千歳は怖かった。福沢は本気で自分が好きなのだと嫌でも悟ってしまう。福沢の目には木野記念総合病院で将貴が見せたあの危険な炎がある。怖いと思う一方で想われる喜びが心の根底にあるのは隠せない。それがさらに千歳を雁字搦めにしていくのだ。
「怖がらないでくれ。怖がらせたいわけじゃないから」
福沢の唇が重なり、千歳はあげかけた悲鳴を喉へ押し戻されてしまう。
(将貴さん!)
絡まった二人の手がシーツに沈んでいく……。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、その光の糸が部屋の中を薄く照らしていた。目覚めた千歳は隣で眠っている福沢をちらりと見てから静かに起き上がり、散らばっている服を回収してバスルームに入った。バスルームから出てくるとバスローブを羽織った福沢が起きていた。千歳は何も言わずに力なく微笑み、セカンドバッグを肩に掛けた。
「俺は謝らない。好きだから千歳を抱いた」
「…………」
「今のままじゃ千歳は確実に不幸になる。将貴は千歳には手におえない。あいつのせいで傷つくのをもう見ていられない。いや、あいつを悪く言いたいんじゃない……ただ、二人が共倒れになるのは見ていられない」
それはわかっています。千歳は心の中でこたえた。自分だって家族や親しい人がそんな見込みの無い恋をしていたら同じように言うだろう。でも千歳はそうは言いたくなかった。言えば福沢が傷つくような気がする。
「……福沢さんのお気持ちは…………わかりましたから」
「千歳」
「でも、やっぱりお受けできません。だってそうでしょ? 私には昨日みたいなあんな場所ふさわしくありません。きっと福沢さんのおうちは、経営者というだけではなく由緒正しい家柄なのでしょう? 結婚なんて絶対無理」
ドアに向かった千歳は、ベッドから出てきた福沢に狂おしいほどの強さで背後から抱きしめられた。
「気にしなくて良い。母は普通の家の出だ。多少の波風が起きるぐらいだ」
「……いいえ、私の過去を知ったら誰だって駄目と言います。だから……私……」
そこまで言って涙が胸の奥底からこみ上げてきて、千歳は必死に涙の洪水を飲み込んだ。そうだ、だから自分は将貴から何も求めないと誓ったはずなのに、小さな想いをもらったばっかりにすべて欲しいと欲が深くなってしまった。元からそんな権利はなかった自分がなんという愚かしさだろう。おまけに救いたいなどと思っていたとは思い上がりも甚だしい。
「両親は皆承知だ」
「…………」
千歳は黙って福沢の両腕を解いた。これ以上話し合っても堂々巡りなだけだ。
「私、なんだか心の整理がつかなくてぐちゃぐちゃになってます。これでは仕事ができそうにもありません。ですから」
「辞める必要は無い。しばらく休んでから来い」
「でも」
「大事な時期だったのに無理を言って困らせてるのは俺だ。気にしなくて良い。品質管理に入ったら俺と千歳の接点はかなり低くなるから、顔を合わせて困るなんて早々無いし」
「…………」
目の前のドアをノックする音が響いた。福沢が来たようだと言い、一体誰が来たのだろうと前を見て、入ってきた柳田に心底千歳は驚いた。柳田はいつもどおりのすまし顔で二人に挨拶した。
「結城さんをお迎えに来ました」
「どういう事ですか?」
千歳は警戒するように後ずさった。福沢がその千歳の腕を掴んで柳田の前に立たせる。
「お前は一度、将貴の家へ行った方が良い。お前はあんまりにもあいつを知らなさ過ぎる。あいつの育った環境がどんなものか知る必要がある」
「冗談じゃありません!」
将貴を不幸にした家になど行きたくも無い。しかし福沢の顔は真剣で掴む腕も弱まらない。
「将貴を救いたいのだろう? だったら行け」
「……福沢さん」
「あいつには秘密にしておく」
「貴方は」
どこまでこの人は自分を真剣に思ってくれているのだろうと、千歳は胸が熱くなり涙をぽろぽろと零した。やっぱり自分には勿体無すぎる人だ。それなのに振り向いた福沢の顔はわずかに意地悪げにゆがみ、からかうような口ぶりになった。
「普通の奴だったらこんな真似しない。ただあいつはあんまりにも複雑すぎるからな。ひょっとするとこんな男は絶対無理だと思ってくれるかもしれないという打算もある」
「……馬鹿ですね。勝手につぶれていくのを見てれば良いのに」
泣きながら千歳が微笑むのを見て、福沢が涙をバスローブの袖口で拭いてくれた。
「そうそう、その意気だ。萎れた千歳なんか誰も見たくない。もっとも乱れる千歳は誰にも見せたくないけどな」
「福沢さん!」
千歳が顔を真っ赤にして怒ると、福沢はいつもの福沢に戻って明るい笑い声を立てた。
にこりともしない柳田はそろそろ時間が無いと言い、千歳は福沢に別れを告げて廊下へ出る柳田の後ろに続いた。歩きながら柳田が言う。
「正直な話、結城さんには辛いばかりだと思いますよ。今なら止める事もできます」
「いいえ」
千歳は力強く言い、柳田と共に止まっていたエレベーターに乗った。エレベーターはまっすぐ一階へ降りた。佑太の姿が無いのを不思議に思っていると、佑太はまだ大阪で仕事があるのだという。彼には別の秘書がついており、柳田が千歳を佐藤邸へ送る役目を負ったのだと。ホテルの外で待っていたタクシーに二人は乗り、動き出した車内で伊丹空港から東京の羽田空港へ行った後佐藤邸へ向かうと、柳田が無表情な顔で説明した。
「会長の検査結果が良好でしたので、奥様と共にお屋敷にお戻りです。お二人が貴女の相手をしてくださるそうですから、なんでもお聞きになったら良い。一応奥様のお手伝い見習いとさせていただきます」
「ひょっとして最初から仕組まれていたのですか?」
福沢が連れて行ってくれたレース展に創立記念パーティー。抱かれたスイートルームに佐藤邸への移動……あんまりにも手際が良すぎる。タクシーが朝の渋滞に巻き込まれてしまい、なかなか進まなくなった。柳田はそこで初めて微笑する。
「そうであるとも言えますし、そうで無いとも言えます。パーティーで貴女と別れた後、社長が福沢氏に話しかけておいでだったのは確かです」
「…………」
甲高いクラクションの音が響く中、千歳は唇をかみ締めて前を向いた。