天使のマスカレイド 第27話

 将貴が大金持ちの家の御曹司であるのは千歳だってわかっていた。それでも都心部から外れているとはいえ、固定資産税が馬鹿高そうなホテルのような、お城のような、白亜の佐藤邸を見て千歳は帰りたくなった。けたが違いする。佐藤邸を目に入れた瞬間固まった千歳を見て、柳田が声をかけた。

「どうしました結城さん?」

「あの、本当にあちらのお城みたいな建物がおうちなんですか?」

 タクシーの窓から見える、やたらと大きな建物を千歳は指差した。

「そうです。ですがご家族だけがお住まいではなくて、社員達も大勢住んでおります。ほんの数人のご家族があんな大きなお屋敷に住むなんてありえませんからね」

「そ、そうですね……」

 おちつかない。もぞもぞとした気分を味わいながら、千歳は前方を再び見やった。柳田は慣れているから涼しい顔をしている。千歳は初訪問な上、将貴に雇われている雇用だけの関係であり、佐藤グループの正式な社員なわけでも無い。そんな人間が行っていいものかどうかこの期に及んで怯んでしまう。出来る限り到着時間が長引かないものか。一体なんのために来たのだと言われそうな事を思いながら、はやまっただろうかと後悔の念にかられ始めた。

 やがてタクシーは佐藤邸の正門前に着き、千歳は緊張しながら降りた。ここだけでアパートの部屋が10部屋は余裕で入りそうな広さで、人がひっきりなしに出入りしており、本当にホテルの出入り口のようだ。

「こちらです……」

 柳田が結城に振り向いた時だった。いきなり二人の乗っていたタクシーの後ろに白のクラウンが物凄い勢いで止まった。かなり乱暴な止まり方でタイヤが甲高い悲鳴をあげ、玄関に居た皆が振り返る。当然千歳も振り返り、クラウンからドアを蹴破るように出てきた人物に目を瞠った。

「え……!?」

 降りてきたのはアパートに居るはずの将貴だった。緑色の目を釣り上がり気味にして怒っている。このパターンがやたらと多いなと、ふと他人事のように千歳は思った。将貴は恐ろしい速さでと千歳の前まで歩いてくると、毎度おなじみのように千歳の左腕を掴んだ。過去2回よりも痛い。そうとう怒っているようだ。

「電話を何度もかけてるのに何で出ない!?」

 叫んだ将貴に柳田が息をのんだ。千歳はその柳田を背後に、セカンドバッグからスマートフォンを取り出して、そこで初めて電源が落ちている事に気付いた。昨日の朝充電したばかりだから電池切れで落ちるわけはなく、誰かが故意に落としたのだなと思いながら電源を入れると、大量のメールや留守番電話の通知が出てきた。皆将貴だ……。一体何十件あるのだろう。

「……あの私」

「帰るぞ! 案の定ここに連れてこられやがって。お前は人が良すぎるからこいつらにあっさり騙されるんだ」

「将貴さん、私……」

「俺を助けるためだとか俺を知るためとか言われたんだろ? 言っておくがこんな所に来たって、俺の本当の姿なんか100年経ったってわかるもんか!」

 突然現れた佐藤家の長兄に、玄関に居た全員が注目して立ち止まっている。千歳は注目を浴びている事よりも、突然将貴が現れた事のほうに驚いていた。胸のドキドキがさっきから治まらず、怒っている将貴の顔から目が離せない。

「ほら、帰るぞ」

 将貴が千歳の腕をひっぱって自分の車に乗せようとした時、あの支配者の声が響いた。

「将貴」

 しんと空気が静まり返る。車椅子が磨かれた石の床の上で小さな音を立てた。出てきたのは将貴の父親の貴明だ。背後に見慣れない女性が居るが、直感で母親だと千歳は思った。車椅子に乗っている父親と押している母親を目の前の将貴は見ようともしない。

 千歳は挨拶をしなければと思った。

「将貴さん」

「気にするな。帰る」

 佑太の時と同じように将貴の身体が細かく震え始めた。眼の色が緑から青へ変化していく。また倒れるのではないかと千歳は案じたがそれはなさそうだ。誰もが動かない中、千歳を車に乗せようとする将貴を行動で阻んだのは柳田だった。

「将貴様、おかえりとは存じ上げませんでした。まだお入りにもなっていないのにお戻りにならなくてもよろしいかと。会長も奥様もお出迎えくださったのです、どうぞこのまま中へ」

「黙れ。余計な口を挟むな」

 鋭く将貴は柳田を睨む。しかし柳田はどこへ吹く風と受け流して続けた。

「結城さんは、しばらくここで奥様づきの手伝いとして過ごされるという契約になっております。勝手をなさらないでください」

「お前達がたくみに騙したんだろうが」

「それでも決まった契約です。結城さんのご家族でも無い限り反故にする事は許されません。ご存知でしょう? うちの契約を反故にした者の末路は」

 千歳は柳田と将貴を交互に見た。将貴の視線から強いものが消えていく。柳田はそれを了承とみなし、慌てて玄関へ出てきた初老の執事に言った。

「御車を車庫へお願いします。御部屋の用意はできておりますか?」

「できております」

「さあ将貴様、結城さん」

 柳田が千歳と将貴を視線で屋内へ入るように促した。将貴は千歳の腕を掴んだままうなだれ、ゆっくりときびすを返す。クラウンは執事みずからが乗り車庫へ移動するようだ。玄関にはもう貴明夫妻の姿はなく、人々はちらちらと千歳を将貴を見ながら本来の場所へ戻り始めた……。

 佐藤邸の内部は外部にも勝り素晴らしかった。日本なのに西洋に居るような廊下が続く。窓から見える庭は美しく整えられていて、薔薇が色とりどりに咲き誇っていた。見所満載の家なのに千歳はあまりそれらを見れなかった。繋がれた将貴の右手が異様に冷たいのだ。見上げると初めて会った頃のような無表情になっていて、その青い目には何も映していない。何分か歩いた後、柳田がひとつの部屋の前に止まり、両開きの扉の片側を静かに開けた。

「どうぞごゆっくり。ご両親への挨拶はいつでもかまわないでしょう」

「あの柳田さん、私」

「とりあえずはお二人で話し合われてください。そのようにお伝えしておきますので」

 二人を部屋に通すと、柳田は外側から扉を閉めた。レースのカーテンが閉まっているせいなのか、今日の天気が曇りがちのせいなのか薄暗い。広い割には物が少なく、あるのは部屋の片隅にあるベッドと本棚、小さなテーブルと二脚の椅子だけという殺風景な部屋だった。

「ここは将貴さんのお部屋ですか?」

「ああ」

 とても気まずい。千歳は逃げ出したいと思ったが将貴が腕を離してくれない。

「昨晩は楽しかったか?」

「!」

 唐突に将貴が振り向いた。さっと赤面した千歳は腕を将貴に引き寄せられてしまう。さっきまでのあの気弱さはどこへ行ったのかと思わせる力強さだ。外そうと後ずさって、その反動でかえって完全に抱きしめられた。すうっと確かな意思を持った掌が背中を撫でていき、千歳は冷や汗をかきながらぞくりとする。

「何回も電話したのに、電源を切られているなんて……」

「将貴さ……っ」

 顎を掴まれた。緑色の目が迫ってきたかと思うと口付けされ、言葉を封じられる。昨日の福沢と違う乱暴なキスで千歳は裏切られたような気持ちになった。確かに福沢は怖かったがこんな乱暴なキスは無く、最初から最後まで優しい愛撫だった。だから無理矢理されたというショックがなく、今日も普通でいられるというのに。

「来い!」

「や……だっ!」

 力ずくでベッドの脇まで引きずられ、千歳は懸命に抵抗した。こんな強引な男は将貴じゃない。どさりとベッドに放り投げられて転がり、あんまりな扱いに怒りが心の奥底からこみ上げた。いくらなんでもこれは酷すぎる。しかし怒りの目を向けても熱に浮かされてでもいるかのように、将貴はその手を止めるどころかますます加速して、千歳を乱暴にベッドへ押し付ける。

「お前……っ、お前も美留と同じだ! 親切顔で寄って来て平気に俺を裏切る……」

「デートへ行けと言ったのは将貴さんでしょっ」

 ふ……と将貴が冷たく笑う。でもなぜか今にも泣き出しそうな影が浮かんで消えた。

「言ったさ、でもどの面さげてその翌日に俺のためにとか言ってこの家へ来るんだ。心を他の男に移しておいて俺を救うだって? そんなもの屈辱以外の何者でもない!」

「心を移してなんか……」

「デートしてその夜に抱かれるなんて、心を移さない限りあり得ないだろうが!」

「仕方ないでしょうっ、女は男に力で叶わないんですから! それなら助けに来てくれなかった将貴さんが悪いんじゃないっ。私に好きだと言った癖に、デートへ行けと言ったのは自分の癖に、私にばっかり責任を押し付けないで!」

 将貴の千歳をベッドへ押し付ける腕の力が緩んだ。

「もうやだ……やだ……っ」

 ぼろぼろと泣き始めた千歳に、将貴の身体が離れていく。千歳は自由になった両手で顔を隠して泣きじゃくる。子供みたいでみっともないと思うのに、涙は止まらずにどんどん溢れて顔を濡らしていく。千歳はたかしに騙されて借金を背負った時でもこんなふうに泣かなかった。

 将貴の顔から完全に怒りが消えた。

「おい、泣くなよ。泣くほど嫌なのか俺を」

「もうやだ、私にどうしろって言うの。私がどんな気持ちで抱かれたと思ってるんです? 私が平気だとでも思ってるんですか? そんなわけないでしょうっ! 私は貴方が好きで福沢さんがどれだけ想ってくれても応えられないんです。そうですね、福沢さんに恋出来たならこんな辛い思いはしなくてすむのに……」

「…………」

「それなのに……ひどいっ! 私ばっかり悪いんですね。疲れて貧血起こしかけてホテルの部屋で休んだ私が悪いんですよ、ええわかってます。どうせあっさり騙された私がみんな悪いんでしょ!!!」

 はっと将貴の青い目が揺れた。

「そういやお前……貧血まだ完全に治ってなかった」

「今頃わかるな鈍感男っ!」

 将貴は猛烈な勢いで泣く千歳におろおろし始めた。でも千歳はもう止まらない。こんな男だとは思っていなかった、騙されたのはこっちだ。千歳はおいおい泣きながらベッドから降り、転がっているセカンドバッグを拾った。

「……ごめん、俺が悪かった。だから」

 肩に触れようとする将貴の手を千歳は力いっぱい叩いた。痛そうな音が部屋に響く。

「うるさいっ! 私に触るな強姦魔!」

「まだ何もしてないだろうが。だいたい強姦は篤志だろ」

「全然ちがうわよっ。今までお世話になりました、借金の肩代わりもありがとうございました。朝子さんとお幸せに、金輪際永久にさようならっ!」

「朝子って何言って……、待てよ、……おいっ!」

 どかどかと怒り肩で扉へ歩いていく千歳を将貴があとから追いかけてくる。多分かなり困っているのだろうが知るものか。アパートなんて出て行ってやる、会社だって辞めてやる、もう将貴なんて知るか勝手にしろ! そう思いながら扉の取っ手へ手を伸ばした途端、ノックをする音が響いた。まるで示し合わされたようなタイミングだったので、二人は喧嘩していたのを忘れて顔を見合わせた。

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