天使のマスカレイド 第30話

「慶佑(けいすけ)って言うんです」

「すっごく社長に似てますね」

「そう思いますか?」

 千歳は子供が大好きだ。美留が生まれてまだ数ヶ月のその赤子を抱かせてくれ、ちいさいのにしっかりとした温かさをもった慶佑に千歳は夢中になった。ふと胸に過ぎるのは義姉のあかりだ。あれ以来連絡はとっていないがどうしているだろう。あかりは流産してしまったが、必ずまた妊娠できると医師は言っていた。今頃また子供がお腹に居るかもしれない。いや、きっと居る筈だ……。

「大人しい赤ちゃんですね」

「今ミルクを飲んだばかりですから。泣き声はすごくて救急車のサイレンみたいなんですよ」

「それ的確な表現過ぎるな。こいつの鳴き声ってばスコットランドの救急車みたいなんだぜ」

 妙な例え方を穂高がするので、なんだそりゃと千歳は思った。スコットランドには行った事も無いしこれからも行かないのでよくわからない。麻理子が知っているらしく耐え切れないようにお腹を抱えて笑った。上品そうな貴婦人の仮面がはがれ、少女のように見えるのが魅力的だ。

「ま……、本当にスコットランドの救急車よね。あんなふうに変な音は立たないけど……、何事かと皆ビックリするほどの大きな泣き声だもの」

 穢れの無い赤子の美しい双眸に千歳の顔が映っている。慶佑の黒い目には「愛」というものしかなかった。人は皆最初はこんなふうに純粋な愛や思いしか知らないというのに、何故いつしかそれを心の奥底に秘めてしまうようになるのだろう……。写真で見た将貴もこんな感じだった。あの赤子から今の将貴になってしまうなど、あの幸せいっぱいの家族は想像もしなかったに違いない。

 その後も三人でいろいろ話していたが、黙って聞いていた穂高が、もう夜も遅いからそのへんでお開きにしようと言い、千歳は二人に挨拶をして廊下へ出て行く穂高に続いた。夜の廊下はまた違った趣があって、蝋燭の炎の色のような照明が続いていて懐かしい感じがする。行きかう人数もぐんと減り、響くのは二人の足音だけだ。穂高がそれでも小声でささやいた。

「将貴な、やっぱりあの電話の時、自分の部屋に入った途端にぶっ倒れた」

「大丈夫なんですか? 電話はどうなったんです?」

「電話はあいつを連れ出す口実。皆気づいて無いから内緒な、もっとも会長にはばれてるだろうが」

「それで将貴さんは?」

「疲れたから寝てる。大丈夫だよ、熱も無い」

 気がつくともう見覚えがある廊下を歩いており、あっという間に将貴の部屋の前に着いた。

「あいつは今日、ずいぶん勇気を出したと思うよ。労ってやってね」

 そこまで聞いて千歳は、はたとした。

「あの、私の部屋はないんですか?」

「んん? あいつと恋人同士ならいいんじゃないの? じゃあおやすみ~」

「石川さん!」

 はははと笑いながら穂高はさっさと隣の部屋に入っていく。同居していても同じ部屋なんて病院に入院していた時だけだ。しかも今は他人が大勢住んでいるとはいえ、将貴の両親が同じ場所にいるというのに。

「……は、でもなんか猛烈に疲れたわ」

 千歳は部屋に入り扉の鍵を閉めた。部屋の照明は最大限に絞られており、入院していたあの病室を思い出させた。おそらく穂高が持ち込んだのであろうソファの上に、毛布が数枚と枕が置かれており、ここで寝られると千歳は安心した。部屋の奥のベッドで将貴が静かに眠っている。

「とりあえず……お風呂入って寝ようかな」

 午後にメイドが持ってきてくれていた着替えのセットを抱え、脱衣所で服を脱いで籠に入れ、アパートの浴室とほぼ同じ広さのバスルームに入った。シャワーを浴びてスッキリしてから浴槽につかると、かなり気分がほぐれた。

 確かに実際に家へ入ってみないとわからない事だらけだ。上へ立ち上っていく湯気をなんとなしに眺めながら、あのアルバムを思い返す。将貴と佑太の確執には根深いものがあるようだ。ひょっとすると佑太が生まれなければ、将貴はあの無邪気な笑顔の青年になれたのかもしれない。

「いやいや。それではいくらなんでもあの傲慢社長が気の毒だよね」

 両親はとても良い人達だし、従兄の穂高も将貴を思ってくれている。どうしてあんなに愛されているのに将貴はこの家を恐れて嫌うのだろう。ともあれ今日は大進歩だ。もう二度と屋敷には帰らないと宣言して一月ぐらいしか経っていないのに、将貴はこの家へ戻ってきたのだから。

 程よく身体が温まると千歳はさぶりと湯から出た。そして脱衣所で身体を拭きながら、そこにある大鏡に映る自分の裸体を見てしまいがっかりとしてしまう。どう見ても自分はあの美留のように女らしいふくよかな身体つきではない。子供体型のまま大人になったかのようだ。

「でも……赤ちゃん可愛かったなあ」

 パジャマを着て歯磨きをした後、喉が渇いたので千歳は簡易キッチンへ入った。冷蔵庫のミネラルウォーターを棚から出したグラスに注ぐ。何故だか深いため息が出る。望めそうも無い夢を描いてしまう時の千歳の癖だった。グラスを持ってソファに座り、眠っている将貴を見る。今日はとても疲れたのだろう、深く眠っているようで目覚めない。

 眠り姫ならぬ眠り王子だ。どうしたらその豊かな才能を、将貴は自信を持って人に捧げられるのだろう。そこまで将貴の自信を奪ったものは一体なんだったのだろう。佑太への劣等感以上の何かがそこにある気がする。将貴は父母を憎んではいないようだ。最初は佑太へ愛情が傾いたから、それで憎むようになって会いたくないといっているのだと千歳は思っていた。だがこうやって家に入るとそれは明らかに違う。将貴の周りには溢れるばかりの愛情があり、それが他人の千歳にもわかるのだから本人がいくら拒んでいてもわかるはずだ。しかも将貴は子供ではなく大人なのだから。向いていないとか言っていても、将貴はひまわりカンパニーを経営できているし、従業員達も将貴をそれなりに慕っているようだった。それほどの人間が子供のような我がままだけで、両親や家族を拒絶するはずが無い。

『お前も美留と同じだ。親切顔で寄って来て平気に俺を裏切る』

 あの時の将貴の顔は裏切りを責めているというより、自分を責めている感じがした。ずっと妙な違和感を持っていたのが、ここに来て急にはっきりとした輪郭を持って千歳の心の奥底から浮上してきた。

 両親や元恋人や弟達を将貴が心の底から憎んでいるなどありえない。将貴が憎んでいるのは、他ならぬ自分自身ではないのだろうかと。

「……そう……か、そうなのね」

 眠っている将貴の寝顔はとても穏やかだ。しかしその中に自分に対する苦悩が蠢いているのが、千歳の目にはっきり見えた。もし自分の推測が正しいのなら、それを知っている両親や美留はどれほど辛いだろう。それでも強引に手出しをすれば壊れる将貴を知っていたから、今まで何も出来ずにいたのだ。将貴は、素直な赤子のような純粋さを、上手く変化させられないまま大人になってしまった。それを強さに変えられるのは他人ではなく本人だけだ。

 卵から抜け出られないままの雛のようだ。その殻を自ら破って出てくるのを、その雛を愛する者達は見守っているしかない。

 千歳のスマートフォンがメールが着信したので、千歳は静かにセカンドバックから取り出した。

「え?」

 差出人を見て千歳は瞠目した。ありえない。どうしてこのアドレスを彼が知っているのだろう。見覚えのあるアドレスは一旦解約されたはずなのに、昔のままの綴りだ。自分の心に蓋をして何もかも忘れた振りを練習していたというのに、いざ現実になるとそんなものは役に立たなくなる。憎悪、愛情、裏切り、信頼、幸せ、不幸が一気に噴出して、千歳の凪いでいた心の海を一気に嵐の海へ変えてしまう。

 千歳は震える手で、スマートフォンのディスプレイをゆっくりと撫でた。

「どうして……今頃」

 ”会って謝りたい。お金をすべて返したい。返事を待ってる。 たかし”

 築いてきた数ヶ月の平和がすべてが消えて、千歳の身体ごと過去の暗闇が己の世界へさらって行く……。

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