天使のマスカレイド 第32話
「帰って来いったら帰って来い! 妻の癖に言う事聞けないのかっ」
「何それだっさ! 夫の命令第一だなんて今時犬でも言わないわよ」
「結婚式の時に誓っただろ!」
「あんなもんキリスト教徒でも無い私が本心で誓うわけないでしょ、ばっかみたい。よくそんなんで旅館経営なんてできるもんだわ。お義父さんもこんな息子でかわいそう。顔はそっくりでも中身は誰に似たの? お義母さんでもないわよね。どこの橋の下で拾われたのやら」
「馬鹿やろ! オレは正真正銘二人の子だ! お前は親父そっくりでぶっさいくだけどな!」
「そのぶっさいくにめろめろなのは誰なのよ!」
「病気なんだよ。お前の猛毒ウイルスが悪いんだ。オレの青春返せっ!」
「青春? あんたにそんなもんあったんだ」
「男はロマンチストなんだよ。お前みたいに金、金、の守銭奴にはわかるまいがなっ」
アパートの玄関のドアを開けた途端に騒々しい罵声に出迎えられ、千歳と将貴が入るのを躊躇っていると、隣の老夫婦の部屋のドアが開き、昨日の晩からうるさいから迷惑だと叱られて二人は頭を下げて謝った。
「止んだと思ったらまたさっきから再開してるんですよ。他人を泊めるのは止めてくださいね」
隣の老夫婦がドアを閉めるのを見届けてから、二人はあがりたくないなと思いながら部屋へ入り、靴を脱いだ。リビングからは相変わらず朝子と若い男性の罵声が聞こえてくる。千歳は若い男性の声には全く聞き覚えは無い。でも将貴がそれについて何も言わないのを見ると知っている声なのだろう。
「あの、もう一人の声……朝子さんの旦那様なんですか?」
「うん……変わってない」
将貴は面倒くさそうにため息をつき、またお隣に怒られるかもしれないというのに、何故か閉まっているリビングの木の引き戸を思い切りけり倒した。ぎょっと男が振り向いて腕を組んで立っている将貴を認め、ばつが悪そうな顔をした。
「昨晩からうるさいってお隣からクレームが来てる。もう止めろ」
「よ、よお将貴本当に話せるようになったんだ。えっと、こいつが世話になって……」
将貴が西洋顔なのに対して、朝子の夫は和服が似合いそうな端正な顔立ちをしている。背がとても高くてアパートの天井についてしまいそうだ。将貴が自分の部屋の引き戸を開けると、朝子がおそるおそる千歳と将貴の顔を伺いながら言った。
「そこと千歳さんのお部屋は開けて無いから大丈夫なんだけど、陽輔がコップを一個割っちゃった。ごめんなさい」
「コップ一個ですんだの?」
将貴は静かに引き戸を閉めた。
「よそ様のおうちだから。弁償はさせます」
「ずっと喧嘩してたのか?」
「……一応ご飯食べに外に出て、駅前のホテルに泊まって……さっきここへ帰ってきてそれからずっと」
喧嘩しているくせに、一緒にご飯を食べたりホテルに泊まるなど考えられない。将貴の言った犬も食わないという意味がやっと千歳にもわかった。しゅんとしている陽輔という男と目が合い、千歳はにこりと笑った。
「コップ一個くらいいいんですよ」
「いえ、失礼しました。ただ朝子があんまりにも聞き分けがないものだから」
言わなければ良いのに、また陽輔は朝子の負けん気に火をつけた。
「聞き分けが無いのはそっちでしょ! とにかく私は一月は帰らないからねっ」
「同棲してる人たちの部屋に居座り続けるなんて何考えてるんだよ。将貴は良いとして千歳さんはいい迷惑だ。それにリビングで寝るなんてどうかと思うね」
「う……」
リビングに泊まっていたとは千歳は知らなかった。よく考えたら潔癖症な将貴が恋人でもない女を自分の部屋で休ませるわけが無い。もちろん詳細を言わない将貴が悪いのだが、何から何まで自分は思い込みすぎていたようだと千歳は自分が情けなくなってきた。千歳と目が合った将貴は決まりが悪そうに頭をばりばりと掻いた。
「……陽輔には悪いけど、レースは三日ほど手伝ってくれると助かるんだけど。あと気になってたんだが、肝心の子供はどうした?」
「父さんに預けてきた。というか連れ戻せるまで帰ってくるなって人質にされた」
「私帰らないから!」
「…………」
レースの手伝いがなくなっても居座る気の朝子に、将貴は呆れ果てて何も言えないと言う目で陽輔を見る。陽輔も恥ずかしいようでそれを隠すために朝子を睨み、彼女に睨み返される。本当のところ将貴はレースの手伝いなど必要なく、冷却期間を置く為に言っただけなのだろう。駄目だこりゃと千歳はキッチンへ入り四人分のお茶を入れるためにやかんに火をかけた。こんこんと説教をする将貴の声が漏れ聞こえてきて、それがおかしくてにやにやしてしまう。
椅子を引いて座り、千歳は頬杖を突きながらこの忙しかった二日間を思い返した。将貴のいろんな面が一気に見えた二日間だった。それもこれもあの佑太の仕組んだ事だと思うと腹が立つが、確かにああでもされないと何も話したがらない将貴の家庭や、新しい一面などはわからなかったと思う。佑太は佑太なりに家族を思って動いているようだ。それが自分本位なのかどうなのかはわからないが……。
「……食えない狸よねあの男は」
家へは二度と戻らないと言った将貴を、自ら帰らせた手腕は大したものだ。人の性格や行動から先を読むのは経営者として必要な才能だ。将貴にもそれはあるのだろうが、感情が思い切りからんでしまうためうまくいかないのだろう……私事に限っては。
やかんから蒸気が吹き出したのでガスの火を止め、用意をしていた急須に注いでから捨て、今度は茶葉を入れて湯を注ぐ。安い茶葉なので熱湯でも別にかまわないだろう。冷蔵庫の食べ物も棚のお菓子も全く減っていなかった。朝子と陽輔は千歳と将貴に気を使って外食をしていたのだと思われる。洗濯物はどうしているのかなと思いながら、千歳は湯のみにお茶を注いで温めて一旦シンクに捨ててから、改めてお茶を湯飲みへ注いでいく。
佐藤邸の玄関まで見送りに出てきてくれた穂高と美留を見る将貴の目は優しいものだったものの、それはまだ多分な演技が入っているように千歳には見えた。アルカイックスマイルとまでひどくはなくても、将貴が時折見せてくれるようになった天使の微笑には程遠かった。それでも逃げなくなったのは大進歩だ。問題は家族をあざ笑うように言う事で自らを貶めていた将貴が、それをできなくなったこれから先どう変化するのかわからない事だ。父親の命が消えようとしている今、将貴は先送りにしてきた問題を片っ端から片付けて行かなくてはならない。
「私はどうしたらいいのかなぁ」
急須を置いて千歳は一人ごちた。福沢との問題もある。ふっと福沢の指が胸を撫でていく淫靡な動きを明瞭に思い出してしまい、千歳は振り切るように頭を激しく左右に振った。
リビングへお茶を載せたトレイを持って戻るとあらかた話はついたようで、将貴が自分の隣に千歳が座るなり口を開いた。
「とりあえずレースを朝子に手伝ってもらうって事になった。で、悪いんだけど……それまで陽輔もここに泊まる事になった」
「…………」
そうなるだろうとはわかっていたので、千歳は黙ってローテーブルに湯飲みをそれぞれの前に置いてトレイをテーブルの下に隠した。陽輔と朝子は気まずそうにしている。
「泊まった日数分だけお金を払うそうだ。まあこの一週間くらいだから……承知してくれないか?」
「構いませんけど、お部屋はどうするんです? 昨晩急に寒くなりましたから、リビングで寝泊りは風邪を引きますよ?」
「うん、それなんだが」
言いにくいのか将貴はごほんと咳をした。
「俺の部屋に陽輔と朝子。お前の部屋に俺とお前がって事になった」
「……そうするしか……ないですよね」
女同士男同士にすればいいじゃないかと思うが、敢えて千歳はそれを口にしなかった。布団の予備は一応あるしなんとかなるだろう。それに将貴とは二度同じ部屋で寝た。部屋の広さがぐんと狭くなるのが気になるが……。
朝子がすまなそうに頭を下げた。
「すみませんこの馬鹿のせいで」
「馬鹿はお前だ。ホテルに泊まればいいんだろうが」
黙っていればいいのにまた陽輔が口を出す。顔が良くても中身は残念な部類なのかもしれない。そんな失礼な事を千歳は思った。将貴は慣れっこなようでまた始まったという顔をしている。
「仕方ないでしょホテル代だって馬鹿にならないんだから」
「それくらいケチケチすんなよ。たった数日なのに……」
「なるべくレースから離れたくないの。場所が変わりすぎると編み目がおかしくなっちゃうのよ私」
「将貴。本当は手伝いなんていらないんだろ? お前一人で編んだほうがいいんじゃ」
将貴はお茶を一口飲んで、湯飲みを静かにテーブルへ戻した。
「いいよ。助手はあったほうがいいし、こいつにもレース編んでるのばれたし……」
「ばれたねえ? あれだけ他人に知れるの嫌がってたのに、この人にベタ惚れなんだなー。あの誰が言い寄っても駄目だった将貴がねえ」
違うのにと思いながら千歳は自分のお茶を飲んだ。将貴の顔に変化は無い。陽輔のようにわかりやすい素直な感情を将貴が出してくれたらいいのにと思う。
「うるさい。それより奏さんにちゃんと話しておけ」
ちゃかす陽輔の頭を将貴が軽く拳骨で突いた。
「はははっ。照れてる照れてる。父さんにはちゃんと言っておくよ」
「そういやお前仕事は?」
「休み無しでやってたから休め休めって父さんと母さんがうるさかったんだ。多分何も言われない」
「そうか……」
二人を見ていた千歳は、ふと自分を見つめる朝子の視線に気付いた。朝子は千歳が見返したのに気付くと、ぱっと表情を変えていつもの明るい笑顔を浮かべた。
「お茶いれるの上手なんですね千歳さんは」
「ありがとうございます」
千歳はぎこちなく笑みを返して湯飲みを手に取った。
(……この人は)
思い込みではなかった。将貴はそうでなくても、朝子には千歳を勘違いさせるものがやはりあったのだ。
(結婚していても、将貴さんが好きなんだ)
朝子が千歳を見る目にあったのは、まぎれもない嫉妬だった。