天使のマスカレイド 第34話
どうやってここを嗅ぎつけたのだろう。薄気味悪いと思いながら千歳は身体を硬くした。たかしは一人ではなく車からもう一人の男が出てきた。その男も千歳がよく知る人間で、思わず千歳は男の名前を口にしていた。
「城崎はじめ……」
相変わらず城崎の左の頬には刀で切られた傷が走っている。にこりと城崎は笑ったが、千歳はまるで悪魔に微笑みかけられたような寒気を覚えた。
「お久しぶりですね結城さん。佐藤グループの御曹司というとっておきのカモを捕まえて、借金返済なさった腕には頭が下がる思いですよ」
「……借金返済したのなら用はないはずだけど」
どくどくと今にも胸を打ち破りそうな胸の鼓動に耐えながら、千歳は二人を睨んだ。
「それがですね、まだ三百万ほどあったんです。それがまた廻り廻って我々の元へ来たんです。我々の前に借用証を持っていた金融会社の方が鈴木さんを捕まえてくれていて、さらに貴女の事を調べてくれていたんです。我々では佐藤グループの妨害が入って調べられなくて探す手間が省けたというものです」
「私はもうその男と関係ないわ」
「そうは行きません。連帯保証人の欄には貴女の名前がある」
「勝手に書いたか、だましのコピーでしょ。それに借りたのはそこの馬鹿だわ」
「それがねえ……彼はやっぱり払えなくてね。となると支払える貴女に我々は頼らざるを得ないんです」
めちゃくちゃな話だ。やっぱりたかしが借金を返すなどという話は大嘘だったのだ。ずっと黙っていたたかしが口を開いた。
「いいじゃねえか、お前にはお金を唸るほど持ってる御曹司様がいらっしゃるだろ? ちょっとねだれば払ってくれるって。それでお前と縁を切ってやるからさ」
にやにや笑うたかしに吐き気がする。一体どうしてこんな男を愛したのだろう。過去の自分はそうとう頭の中がお花畑だったとしか思えない。嫌な鼓動はさっきからひどく、握り締めた拳には嫌な汗がじっとりと滲んだ。
「お断りよ。あんたがどうなろうと私が知ったこっちゃないわ」
「冷たいなあ。過去の女達は皆その身体で助けてくれたってのに」
意味がわからない千歳に城崎が説明した。
「あのキャバ嬢さんは、なんとたかしさんのために東北のとある方のお屋敷に自ら向かわれたんですよ、そのお屋敷の旦那様はキャバ嬢さんのためにならと高い借金を返してくださいました。特別な性癖をお持ちの方で、今頃キャバ嬢さんは素敵な毎日を送っていらっしゃるでしょう」
嫌な話だ。まるで人身販売ではないか。千歳は軽蔑の眼差しをたかしに向けた。過去にあんなに爽やかに見えた笑顔は、今ではペテン師の人を小ばかにした笑いにしか見えない。
「あんた、そうやって女の人を食い物にしてるわけ?」
「いいや、皆みずから志願してくれるんだ。情が深い女たちに俺は愛されてるよ」
冗談じゃないと千歳は思い、自転車に再び乗ろうとした。するとその腕をたかしが掴んだ。
「払わないとさ、お前の愛しい御曹司様の会社から食中毒が出るかもな」
「は?」
「なあ……? 食い物の工場は一度でも集団食中毒が出たら大変だよな? それでつぶれるところも沢山ある。そうはしたくないだろ? そうなったら今度こそトラウマもちの御曹司は立ち直れないぜ?」
「脅しのつもり? ばっかみたい」
「へええ……そう言う? じゃあ明日さ、どれほどのクレームが行くか楽しみにしてな」
「ただの嫌がらせにしては性質が悪いわね。何様のつもりよあんたは」
「お前こそ生意気になりやがって。お前さ、自分の鏡をよっく見てみな、あの御曹司とお前じゃ釣り合わないにも程があるぜ。王子様とこじきのレベルじゃねえわ、王子様と虫食い落ち葉みたいなもんだ。そんなもん周囲が認めないな」
「私は将貴さんの恋人なんかじゃないわ。ただの雇われ人よ」
「そうか。だからあの御曹司は見合いの席に今日行ったんだな」
たかしの一言は、千歳の心を揺さぶるのに十分の効果を持っていた。今日の将貴はもともと日勤だった。それが朝出かける時刻になって東京の佐藤邸から電話が入り、急に行けなくなったから休むと言ってタクシーを呼び、行き先も告げずに出かけてしまったのだ。不安顔の千歳に、父親の貴明の病気が悪くなったのでは無いから安心してと微笑みながら。
「嘘だわ」
「証拠写真ならあるけどな。城崎さん、こいつ証拠見ないとわからないみたいだから見せてあげてください」
「……切り札にしておきたかったんですけどねぇ」
城崎がため息をつきながら、スーツのポケットから数枚の写真を取り出して千歳に差し出した。車のライトで写真を見て千歳は絶句した。
「な? これってどう見ても見合いじゃないの?」
どこかのホテルのレストランで将貴と振袖の女性が対面している。合成か何かと思いたいがそんな不自然さは無い。写真は数枚あり、最後の一枚はホテルの整えられた庭を将貴が女性と並んで歩きながら優しく微笑んでいた。こんな笑みを向けてくれた事はあっただろうか、あったと思うが……。
「妹とか知り合いじゃないぞ? 正真正銘の見合い。最後にはもう一度会う約束してたそうだ、な? 城崎さん」
「ここのウェイトレスがうちの手下とつきあってましてね、会話は筒抜けです。それにその背後にいらっしゃるのは彼の母君ではないですか? 嘘だと思うなら本人に聞いてみたらいい」
そんな事を聞けるわけが無い。千歳はまだ将貴の心をはっきりとつかめていない。雇われ人以上恋人未満だ。自分は将貴の心を治すリハビリをする人間であるだけだ。
何も言わない千歳にたかしが追い討ちをかけた。
「上手に奴を懐柔したらしいな。女を相手にしないうえに顔を晒す奴じゃなかったそうじゃないか。そら、その母親も立派になった息子にはどこかのご令嬢にと思うだろうな。お前も近いうちにお役御免だろ? そうなったらお前に大金出せないだろ? 奴をうまくつついて今のうちに金を吐かせろよ」
「……そんな事、できるわけないじゃない」
金と言われてやっと千歳は声を絞り出した。これ以上他人に金を出させるなんてとんでもない話だ。城崎が千歳が持っている写真をゆっくりと取り返して、再び自分のポケットへしまった。
「お前じゃ出せないだろうが! できないんなら食中毒のクレームをばんばん出させるぞ! そうなったらお前の愛しい御曹司様はどうなるだろうな? 今度こそもう立ち直れないぜ」
たかしが怒鳴りながら千歳から自転車を奪い、乱暴に路肩へ倒した。籠の中のスーパーの食材が、稲が刈り取られたあとの田へ転がり落ちて散らばった。
「将貴さんは関係ないでしょっ」
「それならどうするんだ? ええ?」
過去の自分をぶん殴ってやりたい。千歳は憎くて憎くてたまらない男を睨んだ。
放っておけばいいと思う一方で、そんなのできないともう一人の自分が叫ぶ。将貴を見捨てるなんて今の千歳にはできない。警察に言えばいいのだが闇の法律がそれを許してくれない。自分ひとりだけなら警察にも言う。しかし将貴が絡んでいるとそうはいかない。
見捨てられない。
恋人にはなれない。
放っておいたらたかしはずっと嫌がらせを続ける。
せっかくここまでやってきたものをここでめちゃくちゃにされるなんて許せない。
それならやる事はもう一つしかない。悔しいが逃亡も出来ないし、将貴にまたお金を出させるなんて真似もできない。
「……わかったわよ。私が払うわ」
「やっとわかったか」
「でもこれが最後よ。これ以上は許さない」
「わかってるって。じゃあ城崎さんそういう事で」
にまにまと笑うたかしに、城崎は呆れをふくませた視線を投げた。
「貴方もどうしようもないクズですね。われわれとしてはお金が戻ってくれば何も言いませんが。でも結城さん、貴方月に20万ずつ返したとしても、うちの十五(一週間に五割の利息)の利息では一生かかっても返せない額ですよ?」
自分の給与の額をどうやって知ったのかはわからないが、たかだか数百万のためにこの男たちは再び千歳を地獄に突き落とそうとしている。返せなければますます膨れ上がる借金地獄へ。たかしは笑いながら車へ戻っていく。おそらく城崎とたかしは連携してそういう商売をしているのだろう。他の借金ももともとたかしに返済義務を生じさせず、キャバ嬢や自分に支払わせるだけのものだったのに違いない。
悔しい。千歳はなんの力も無い自分がつくづく嫌になった。その目に散らばった食材が映り、重く感じる身体で倒れた自転車を起こして田へ降り、のろのろと食材を袋に戻し始めた。するともう一つの手がその食材を袋に入れた、城崎だった。
「なんですか? もう用は済んだでしょう?」
千歳は冷たく言った。この男たちの顔は見ているだけで虫唾が走る。
「貴女もつくづく甘いですね。自分に振り向かない男なんて捨ててしまえば背負う借金でも無いでしょうに」
「あんたには関係ないわ」
「他人に返済させたりするから金づるだと思われるんです。しかも相手は佐藤グループ、金をうなるほど持っているとなったら誰でも目をつけます」
「残念ね、私は将貴さんには頼らないわ」
千歳は割れてぐちゃぐちゃになった卵パックを城崎から奪い返して袋に入れた。そしてそのまま路肩に上がろうとして、何故か腕を城崎に強く掴まれた。まだ言いたい事があるのかと文句を言おうとした千歳は、次に起こった事が信じられなかった。
「!」
気がついた時には城崎に口付けられていた。どさりと袋が田に落ち、押しのけようとした手を前に纏めて掴まれてしまう。暴れて離れようとしても、腕を腰に回されてやっぱり敵わない。血が怖い千歳は、あつかましく入ってきた城崎の舌を噛めないまま翻弄されるしかなかった。身体中の毛が逆立って拒絶しているのに、絡まった舌先から痺れが走って千歳の力を奪い去っていく……。
思う存分千歳の口腔内を堪能した城崎が、荒い息を吐く千歳をぐっと抱きしめた。
「私は貴女が音を上げるのを待ってるんです。もう払えない、無理ですって言うのをね」
「どういう……私は…………っ」
「その時になったら私が貴女をもらってあげますよ。私もいい加減焼きが回ったらしくて、佐藤グループに金を返された時死ぬほど後悔したんです、もっときつく金を搾り上げておけば良かったと。貴女みたいに気が強くて情が深い女が好きでねえ……」
「や……っ!」
城崎にコートの前ボタンを外されてシャツを下着ごと捲り上げられ、あらわになった胸先に痛みが走った。泣くものかと千歳は唇をかみ締める。ようやく開放された千歳は辛うじて地面を踏みしめた。城崎が毒のある美貌でそれを見て笑う。
「早く音をあげてください。新居はあんなボロアパートじゃない、素晴らしい洋館の一軒家です。佐藤邸ほどではありませんが不自由はさせませんよ?」
「そんなところにいくもんですか! 風俗も臓器売買もしないからっ」
「はははっ、そちらの方が貴女にはましかもしれませんねぇ。一生私に愛でられるよりは地獄が早く終わりを告げる。私は好きになったら絶対に離さないたちなんで」
悪魔の微笑みに千歳はぶるりと震えた。車のライトはここにはうっすらと光を投げかけるだけで、ほとんどお互いの顔は見えない。でも城崎の目には狂気としか言い様がない欲情がはっきりと見て取れた。ではまたと言い残して城崎は田を上がって車に乗り、車は静かに走り去っていった。
アパートへ帰ると、朝子と将貴と陽輔の笑い声がリビングから聞こえてきた。千歳は音を立てないようにドアを閉めてキッチンへ入り、使えなくなった食材をゴミ袋に詰め、使えそうなものだけ冷蔵庫へ入れた。食事がテーブルの上に用意されていたがまったく食欲などわかない。部屋へ入って着替えを取り、バスルームに入る。服を脱いで小さな鏡に映った自分を見て息をのんだ。胸に赤いあざが出来ている。気持ちが悪くなって浴室に入るなりシャワーの湯を最大に出した。涙が直ぐに溢れてきた。嗚咽も混じるがシャワーの湯がすべて消してくれる。
「……絶対に負けないから!」
タイルの床にうずくまり、千歳は声を押し殺して泣いた。