天使のマスカレイド 第36話

 その日は山本のシフトが休みだったので、千歳は赤塚とストレスなく仕事が出来た。食中毒のクレームもないので、たかしは約束を守ってくれている様で千歳はほっとした。にしても昨日想像していたとおり、今日は社員達のあちこちで交わされる言葉が興奮気味だ。

「見た?」

「見た見た、石川部長ってすっごい美形。何あれ、芸能人でも足元に近寄れなさそうなハイレベルじゃない」

「結婚しなきゃよかったわー!」

 素顔で出勤した将貴を、社員達はやはりびっくりして見ているようだ。皆好意的なのが千歳は我が事のようにうれしい。これでどんどん人に馴染んでいってくれたらいい。隣の部屋の田中達もその話ばかりしていて、赤塚が静かに仕事をしなさいと注意する始末だ。千歳は黙ってひたすらカウントしていた。

「まったく。かしましいったらないわ」

 千歳はそうですねとだけ答え、再びカウントに戻る。どうやらそんなふうに素っ気無い反応の千歳が珍しいようで、赤塚は不思議そうな顔をした。

「結城さんは冷めてるわね」

「仕事に関係ありませんから。今の私は人の顔の良し悪しより、仕事を覚えるのが手一杯です。この一般生菌のシャーレ、上にべっとり白いのが広がってるんですけどこれなんでしょう?」

「セレウス菌かウェルシュ菌ね。何番?」

「48番です」

「谷口商店の千切りキャベツね。ここのところ毎回出てるから注意してるのに、一体どうなってるのかしら」

 セレウス菌は土、水中に幅広く分布しており、ウェルシュ菌は常在菌で人や動物の大腸にいるほか、セレウス菌のようにその辺にいる菌だ。どちらとも芽胞を持っており、普通の加熱や消毒では完全に滅菌できない。少数だと食中毒には至らないが、10000個以上になると人によっては腹痛や下痢を起こし、まれに死亡することもある。121℃まで温度を上げ20分の高圧蒸気で滅菌しても完全に死滅しないため、扱いがかなり難しい菌だ。品質管理で検査された培地入りのシャーレは、みな高圧蒸気滅菌機で処理されてから、例のゴミ捨て場で廃棄する規則になっている。

「そういえば、きゅうりも出てます」

「一度主任に頼んで現場指導してもらうしかないわね。大腸菌が出たらと思うとひやひやするわ」

「まったくですね」

 人はみな菌に囲まれて生きている。完全に消し去るというのは不可能だし、また菌との共存で生きてもいる。だが増殖した好ましくない菌から出た毒素で食中毒などになったら、目も当てられない。

「出来る限り菌の増殖を抑えるのが私達の仕事だからね。でも、谷口商店さんみたいな昔からやっているところは頭が固くてこまるわ」

「最近のお店は違うのですか?」

「簡単とはいかないけど、それでも楽よ」

 品質管理室から見える事務所で、将貴が福沢と何か話しているのが見えた。矢野がぼーっとした顔で将貴を見ているのがおかしい。無理も無い、将貴の天使のように綺麗な顔立ちは滅多にいないのだから……。そこまで千歳は考えて考えて自分はやっぱり冷めていると思った。最初に将貴の写真を見た時、綺麗な男だなと思っただけだった。アパートの部屋へ訪れた時も、矢野や他の女性達のようにうっとりしたりしなかった。女なら誰でも持っている異性に対する憧憬という物が千歳には著しく欠如しているのかもしれない。

(無理もないか、私はかわいいものや綺麗なものに縁がないと思ってたんだから……)

 大腸菌群の赤い培地が固められているシャーレに、目玉焼きのようなものが浮き出ている。黄色ブドウ球菌だ。誰か不衛生な手で処理をしたのかもしれない。シャーレの蓋を開けると納豆の腐ったような嫌な臭いがした。

 てきぱきと仕事をしていく千歳は赤塚にはうれしい新入社員だった。次々に千歳に仕事を教え、千歳はそれを覚えていく……。

 そんな二人は当然事務所から丸見えで、打ち合わせをしながら福沢は顎で品質管理室を指した。

「千歳。頑張ってるな」

「頑張りやだから。でも顔色が悪いのが気になる」

 将貴は販売促進計画書を見ながらちらりと千歳を見る。昨日よりさらに悪い。貧血がひどくなっているのかもしれないので、アパートへ戻ったら休ませる必要があるなと将貴は思った。ただでさえ、朝子と陽輔がいるせいでアパートで気を使っているのだから、それに加えて新しい仕事場で気を使ってなれない仕事を覚えるなどかなりの緊張と疲労を伴うだろう。今、お昼の時間で事務所には福沢と将貴の二人しかいない。だから福沢は屈託の無い口調で将貴に話しかける。

「結構抜けてるから、よくよく見てないと危ないぞ」

「……わかってる。悪い虫がすぐにくっつくから見張っていないとな」

「悪い虫って俺の事かよ」

「それだけだといいがな」

 計画書を何箇所かペンで修正し、将貴は福沢に渡した。返された計画書に目を通した福沢は、販売目標の額の大きさに目を丸くした。

「これをクリアしろってか? ちょっと厳しくない?」

「年末年始はさんでるんだからこれくらい当然。2月の節分と3月のひな祭りもあるのにさっきの数字じゃ黒字は程遠いな」

「お前本当に変わったなぁ。今に女子社員のファンクラブできるんじゃないか?」

「知らない。お前にそれはまかせるよ」

 東京で一体何があったのだろうかと福沢は目を細めた。何かしっかりとした強さのようなものが将貴の中に存在したのが見える。それこそが父親の貴明や福沢が望んでいたものだった。同時に福沢は自分の失恋は確実だなと思う。悔しいが千歳の将貴への想いは揺るがせそうも無い。

(こいつなら……仕方ないかな)

 福沢は内心で諦めの言葉を吐き、一度だけでも身体を重ねられたのだから良かったではないかと自分に言い聞かせた。しかし一方ではまだチャンスはあるという福沢がいるのだった。

 山本には相変わらず無視され続けたまま、それでもなんとか千歳は品質管理の仕事に慣れてそつなくできるようになっていた。品質管理の流れを覚えるために、隣の田中達と製造まで降りて検体を取ったりもするし、細菌をカウントするシャーレに検体の液を入れたりもする。

「結城さんは仕事本当に覚えるの早いわねー、赤塚さんの言ってた通り助かるわ」

「田中さんの教え方が上手なんです。ノートにも書きやすいし」

「上手ね、あははっ」

 母のような年代の田中たちに千歳は癒されるのを覚える。おばさんの割にはミーハーな感じがする二人だが、仕事はさすがにきっちりとしており、千歳はたあいのない会話の中にも場の空気を温かくするのも仕事では重要なのだなと再認識していた。そういえば事務所でも和やかな感じだったし、工場でもきりきりと胃が緊張するようなものはなかった。あるのは山本と二人きりになる時だけだ。

 なぜこんなに無視されるのだろう。さすがにこの二人もそれに気付いており、しきりに首をかしげている。千歳が嫌な後輩にも見えないし、山本が何にこだわっているのかもわからない。嫌いな人間に似ているだけではないかという田中の推理? に、もしそれが本当なら傍迷惑だなと千歳はうんざりしながら思う。

 田中は検体を10グラム取って袋別にずらりと並べたものに、希釈する生理食塩水をピペットで次々と入れて行きながら言った。

「人間関係なんてそんなもんよ。それに山本さんてシングルマザーでしょ。フリーで幸せそうな結城さんが憎らしいのかもよ」

「フリーで幸せそう……ですか?」

「毎日毎日育児家事仕事に追われたているうえ男も居ないとなると、独身の若い女が小憎らしくなるもんよ。自分はこんなに苦労してるのにって感じで。もっともそんな人ばかりではなくって、頑張ってキラキラしている人もいるけどね」

 それが本当なら大間違いにも程がある。千歳は天涯孤独な上にまた莫大な借金があるのだ。だからといって他の人間に八つ当たりしたいとは全く思わない。シャリ玉(寿司を載せるご飯)の硬さを圧縮機械で測定していた野村が顔を上げた。

「どっちにしてもひがみ根性であるのは間違いないわ。まあおっそろしい目であんたを睨んでるもの」

 それは気付いている。無視しているかと思ったら、ふとした拍子に睨まれているのだ。千歳が視線に気付くと山本はふっと目を逸らす。

「まったく心当たりがないんです」

「それは皆わかってるわ。出来るだけフォローするけど、あの短気な高瀬主任に山本さんが粉かけてるのが心配。高瀬主任は山本さんより一つ年上なだけでフリーだものね」

 そこへ噂をしていた山本が帰ってくるのが窓越しに見えたので、三人は普通の会話に戻った。山本は相変わらず二人にだけは話しかけて千歳は完全無視だ。一番困るのは千歳が休みが入るなどして経過を見たい検体の採取のメモを山本が無視する事で、一度無視されて酷く困った。赤塚が注意するとそんなメモは見ていないと言う始末だ。

(私が一体何をしたって言うのよ、もう!)

 千歳はほとほと困り果てていた。告げ口みたいなので将貴にも言えない。作業を一通り終える頃、田中が検体の卯の花ハンバーグの元種を取りに行くのを忘れたから取ってきてほしいと千歳に頼み、千歳は二つ返事で引き受けて工場へ降りるためのマスク付き帽子を被った。

 惣菜の下ごしらえ室で千歳は何故かパートの一人に睨まれた。意味がわからずに千歳が見つめ返すとぷいと横を向く。するとつい最近入ってきたばかりの大学生のアルバイトの男がそっとやってきて、千歳を惣菜の保冷庫の部屋へ連れ込んだ。

「結城さんがあの人の意見を無視するから怒ってるんだよ」

「無視? 意見ってなんですか?」

「知らないんですか? 卯の花ハンバーグの元種、整形してあるものを検体から取っていってるでしょ?」

「あ、はあ……沢山あるので」

「駄目だよそんなの。ちゃんと検体用のがこっちのコンテナに入ってるんだから!」

 そんな事は千歳は聞かされていない。頭を傾げた。アルバイトも千歳が本当に知らないと気付いたらしい。そこへさっきのパートが保冷庫へ入ってきて、検体用の元種を指差した。

「何度も山本さんに貴女に言ってもらうように言ったの! それなのにあんたが来る日だけ整形した奴が持ってかれてるの。もう一度作るのって結構手間なのよ? 焼き物は時間勝負だし、焼くのは別の人間だし個数が合わない上に、私は焼く人間とはシフトが全然違うから、担当の人がそのたびに確認しなきゃいけないの。どれだけ面倒かわかってるわけ?」

「すみません……」

 これは完全に千歳の落ち度だ。余分に作ってあると聞いていたので、そのうちのひとつをもらうのは当たり前だと思っていた。千歳は深く頭を下げたがパートの怒りは治まらない。

「山本さんはちゃんと言ってるみたいなのに、先輩の人の意見を聞かないなんてどうかと思うわよ。タダでさえああしろこうしろとうるさいくせに、私達の手間を増やさないでよ!」

 千歳は虫の居所が悪すぎるパートにしきりに頭をさげるしかなかった。聞かされていないと言うと、今度は山本に罪をなすりつけているように思われるだろう。パートは言うだけ言ってスッキリしたのか、検体用の元種が入った袋を千歳に乱暴に押し付けて保冷庫から出て行った。アルバイトはそそくさと同じように出て行き、千歳はとぼとぼと保冷庫から出た。

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