天使のマスカレイド 第38話

「このままでは貴女の評判は落ちるばかり。あの御曹司も庇い立てはできないでしょう? 手遅れになる前に辞めた方がいい」

「山本さんは貴方と繋がっているの?」

 千歳は膝の上に握った拳を振るわせた。

「さあ? 顧客の名前はいちいち覚えていません」

「いつから私の周りに居たのよ!」

「数ヶ月ほど前からでしょうか」

 まだ製造へ研修にいた頃からこの男の魔の手が伸びていたのだと知り、得体の知れない城崎の自分に対する執念に髪が逆立つ心地がする。何もかもが仕組まれていたとは、そしてそれに自分は踊らされているのだ。それはたかしも同様で、おそらく城崎が持ちかけたこの話がなければ再会などありえなかったにちがいない。

「わかったでしょう? 私は楽に貴方達を地獄へ突き落とせる」

「……私は貴方に何もしてないでしょう、どうしてなの。仕事まで邪魔しないで。お金を返していくって言ってるんだからそれ以外に手を出さないでよ」

 もう泣いてしまいそうだ。でも泣いてたまるものかと力んだせいで胸が張り裂けそうに痛い。積み上げてきたものを壊されていくのをとめられない自分が空しい。向かい合って座っていた城崎が、千歳の隣の椅子に移動してきて、うつむく彼女の腰を柔らかく抱いた。その部分だけ腐ったような嫌悪感に千歳は囚われた。

「そんなにあの工場に居たいのですか? 私としてはすぐにでも辞めて欲しいのですけども」

「冗談言わないで。まだ始めたばかりなのよ」

「貴女が辞めないのならどうしてくれましょうか。品質管理室から食中毒を発生させてもらいましょうか」

「そんな事止めて!」

 恐ろしい言葉に千歳は両耳を塞いだ。城崎はくっくと笑って冗談ですよと千歳を完全に自分の胸に抱いた。嫌で嫌で溜まらないが千歳は我慢する。

「そうですね。じゃあ今回は貴女から私にキスしたら、何もしないであげましょう」

 頤を無理に城崎に向けられた。憎いだけの男にまた唇を許すなんて冗談ではないのに、逆らうと本当に食中毒を起こされそうだ。いくら躊躇おうが、目をそらそうが城崎はこうすると言ったら必ずその通りにする。泣きそうになるのを堪えて千歳は唇を重ねた。

 フロアーから他の客の笑い声が聞こえる。千歳のように悲しい人などいない。

 唇を重ねた途端に頭の後ろを掴まれ、この前と同じように舌が入り込む。キスは長い時間続いた。最後には唇を噛まれて痛みが走る。鉄臭い血の味に唇を押さえようとする千歳を城崎はを押しとどめ、味わうようにゆっくりと舐めて吸った。生温かい他人の舌の動きが気持ちが悪くて吐きそうになるのを千歳は必死に堪えた。

 やがてやっと城崎は千歳を開放してくれた。唾液でべちゃべちゃになった唇を千歳はハンカチで拭いた。血はまだ止まらない。これは人の不審を誘うだろう。

「そんなに嫌がらなくても良いでしょうに。ふふふ」

 胸に城崎の手が入り込んできて、好き勝手に素肌を這い回る。千歳の目から悔し涙が一筋落ちるのを城崎は楽しそうに舐めた。我慢だ我慢だと千歳は自分に必死に言い聞かせて、拷問のような時間が過ぎるのをひたすら待った。

 どんどん汚されていく自分を思い気が遠くなる。どのみち会社は辞めるしか道はないのかもしれないと千歳はあきらめに似た気持ちを抱いた……。

 ようやく開放されて家へ戻ると、会社から戻っていた将貴が怖い顔で待っていた。疲れているからと部屋に逃げた千歳に将貴はついてきて、強く壁に押し付けられた。

「朝子に聞いた。誰と出かけていたんだ?」

「……友達よ」

「男友達なんてお前はいなかっただろう」

「最近出来たのよ。悪い?」

「うそをつけ。何があったか言え!」

 将貴に肩を乱暴に掴まれて痛い。千歳はとても疲れていて一刻も早く眠りたかった。しかし何か言わないと将貴は開放してくれそうも無い。

「将貴さん、好きなように男とつきあえって言ってたでしょう。だからそうしてるのよ」

「本気かよ!」

 肩を揺さぶられても嘘ですとは言えない。ここはひたすら将貴に嫌われるしかないのだ。将貴はすぐ千歳に唇の傷に気付いた。たちまちそれを男がしたものだと悟り、目が緑色に変わる……。

「俺が嫌いになったのか?」

「……好きだよ」

 胸が痛い。

「それならどうして他の男とそんな関係になるんだよ! お前はそんな女じゃなかったはずだろ」

「こんな人間なの。……ごめん」

「千歳、正直に言ってくれ。なにか厄介ごとに巻き込まれているだろう?」

「何もないよ。ただ、将貴さんには私の手は必要ない……そう思ったから」

「嘘だ。俺は信じない」

「信じなくてもいいよ。だから将貴さんも好きにしていいから、ね?」

 今自分は笑えているだろうかと千歳は必死だった。将貴はしばらく黙って千歳を見ていたが、自分の望む言葉を言わない千歳に諦め、今度は質問を変えた。

「高瀬主任がああ言っていたが俺は信じていない。一番長く一緒にいる赤塚がお前がとても良い仕事ぶりだと褒めていたからな、一番そばにいる奴の意見の方を俺は信用する」

「…………」

「会社では嘘をつくな。パートの二人に色々聞いた。どうして言わない?」

「…………もう、辞めるつもりだから」

「いい加減にしろよ!」

 怒鳴りつけられて千歳は竦みあがった。佐藤邸でもそうだったがいつもが穏やかで静かな男だけに、いきなりこんなふうに変わられると恐ろしい。千歳の脅えに気付いて将貴はため息をつき、優しい口調に変えた。

「うちはそんなに魅力が無い工場か?」

「…………」

「まただんまりか。お前は嘘がへたくそだから本心でない事はわかってるんだ」

「…………」

 何も言えない。嘘が下手すぎる自分が今新たに嘘を重ねたら皆ばれてしまうし、将貴はあの城崎と危ない橋を渡る羽目になってしまう。城崎みたいなやくざに将貴を絶対に近づけてはいけない。将貴には未来があるし、家族もいる。自分は勘当されているし失うものは何もない。だから自分はどうなっても構わない。今の自分の生きる意味は将貴の幸せであり再生なのだ。

 かたくなな千歳に将貴が折れた。

「もう、いい。怒鳴って悪かった。とにかくしばらくシフトは赤塚と一緒にするから。今日はもうゆっくり休め。高瀬と山本には俺から言っておいたからしばらくは何もないだろう」

 千歳は沈黙を貫いた。将貴は何を言っても無駄だと悟り、そのまま部屋を出て行った。閉じた戸に千歳は頭を下げた。

(ごめんなさい将貴さん。もうすぐ会社は辞めるから……そうしたらもう迷惑がかからないようにアパートも出て行くから。だから……)

 リビングへ戻ると早速朝子が様子を聞いてきたが、将貴は彼女を無視して寝転んでいる陽輔を難しい顔で軽く蹴った。寝ていた陽輔は将貴に気付くと、先ほどプリントアウトした写真を数枚ローテーブルの上に投げ出した。バーへ千歳と城崎と入っていくところと出て行くところが映っている。千歳は陽輔に見張られていたのだ。

「あのお嬢さんは間違いなく厄介ごとに巻き込まれてるな」

「何も言ってくれない」

 ローテーブルにお菓子とお茶を置いた朝子が文句を言った。

「二人とも騙されてるんじゃないの? あの人、今日もあの怪しい車に自分から乗っていったのよ」

「やばいナンバーだったからなあ。ヤクザだぞあれは、おまけに左の頬に傷がある」

 将貴は一枚写真を撮って、城崎の顔をじっと見つめた。

「普通、ああいうやくざってのは手下を数人連れてるもんだけど、誰も連れてない奴だった。余程結城さんに入れ込んでるのか、何も出来ないと踏んでるのか……多分後者だろうが。結城さん、ちっとも楽しそうじゃなかったし、出てきたら口に傷がついてるし、今にも泣きそうなのを我慢してる顔だし……やばすぎるぞあれは」

「馬鹿ね。女はそういう演技が上手なのよ。どうして男ってこうも単純なのかしら!」

 朝子は信用しないらしい。不機嫌に怒ってキッチンへ皿を洗いに戻り、千歳の分の夕食が食べられないまま残されているのを見て、どうせ私の食事は不味いですよと文句を言う。思った事がそのまま口に出る朝子に陽輔は気まずい顔をし、将貴に謝った。二人とも朝子が千歳にアパートを出て行けと言ったとは夢にも思っていない。増田朝子という人間はそんな陰湿な性格ではないと知っていたからだが、そこに将貴の誤算があった。将貴は自分を過小評価するくせがあり、それにともなって自分は愛される価値が人より低いと勝手に思っている。それが頼りない子供に見え、朝子が母性を強く刺激されて、巣にいる雛を襲う害獣から護るように鋭い威嚇をさせているのだ。朝子にとって千歳は福沢と城崎を手玉に取る悪い女で傷つきやすい将貴が想いを寄せるには値しない。ましてや将貴は従妹の美留にこっぴどく振られた過去がある、同じような失恋をしたら、もう立ち直れないかもしれないのだ。辛らつになって当然だった。

 将貴は写真をテーブルに戻し、起き上がった陽輔に頭を下げた。

「今日帰る予定だったところを悪いけど、もうしばらく千歳の動向を見張っててほしい」

「わかった。でも一度佐藤の家にも連絡をとっておいたほうがいいと思う。そっちも絡んでいそうな気がしてならないんだ。年末商戦で忙しいだろうけど怠るなよ」

「わかっている」

 将貴のスマートフォンが鳴った。将貴はディスプレイを見て険しい顔になって立ち上がり、自分の部屋に入っていった。陽輔は戻ってきた朝子の文句に耳を傾けながら、ここに居るのが良かったのか悪かったのかと考えていた。いい加減に帰らないと子供も不安がるし、両親にも迷惑がかかっている。しかし今は千歳と将貴が心配だし、さらにこの妻をなんとかしなければいけない。相手をしていると将貴がコートを羽織って出て来た。

「今から出るのか?」

「柳田が近くに来ているらしい。ちょっと行って来る」

「佐藤社長の秘書がか? まさか会長の容態が……」

「違う。千歳についてだ。陽輔の言うとおりうちの家というか俺が思い切り絡んでいた。それから朝子」

 将貴は氷のように冷たい目で、ご機嫌斜めな朝子を見下ろし、スマートフォンを操作して手渡した。不審げに見上げる彼女に将貴は厳しい顔を崩さない。

「それを聞いても千歳を傷つけるようなら、恩人のお前でも許さない」

「将貴、お前何を言って……」

 陽輔があわてて朝子を振り返った。そこには顔を真っ青にして口を手にやった妻の姿がある。スマートフォンから聞こえてくるのは、城崎や鈴木たかしが千歳を脅迫する音声だった。千歳は自分のスマートフォンに仕込まれた盗聴器を外すのを忘れており、盗聴された音声が今まで逐一佐藤グループの情報部に記憶されていたのだ。情報部の一人がそれを聞いて怪しみ、千歳と交流のある柳田に報告した。事態を重く見た柳田がたった今その盗聴された部分を送信してきて、将貴は事の全容を飲み込んだのだろう。心が凍りつくような城崎や鈴木たかしの脅しが終わったかと思うと、今度は山本達による容赦ない虐めの再生が始まり、否応なしに追い詰められていく千歳が手に取るようにわかる。常にスマートフォンを胸に下げていた千歳だったので、朝子の酷い言葉も当然再生された。将貴は震え始めた朝子に振り返る事無くそのままアパートを出て行った。

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