天使のマスカレイド 第43話

 眼に入った光景に千歳は目を奪われた。一面に広がるのは美しい花畑で、七色に輝いていているそれは、水晶の粒を花びらに載せた美しいレースのベールだった。

「すご……、なんですかこれ」

「千歳は本当に何もかも諦めていたから知らないんだな。若い女性なら一目でわかるのに」

 寂しげに将貴が呟き、そのベールを優しく拾い上げて千歳の頭にゆっくりと被せた。

「花嫁はベールをこうやって被るの」

「え、と、私は……」

「千歳、俺は最初お前に会った時からお前に惹かれてた。どうしてもそれを認めたくなかったけど、認めた時からこのベールを編んでた。東京から帰ってきた時には本気になってた。佑太や美留よりも先にって思ったけど間に合いそうにないから母さんと朝子に手伝ってもらった。昨日完成したんだよ」

「……私は、駄目です。もう、ここには」

「ここが嫌なら家を建てよう? 一軒家が嫌ならマンションを探すよ」

 こんな言葉にほだされてはいけないと、千歳は固く眼を瞑って首を横に振った。

「将貴さんは御曹司だからお嬢様と結婚してください」

「ほら嘘がばれた。俺が嫌いになったんじゃないんだ」

 千歳は顔を真っ赤にしてからかう将貴を睨み返した。嘘がへたなのはよくわかっている。でもここで負けたら終わりだ。

「嫌いよ。いつまでも母さん母さんってマザコンなの? 美留さんを見る目の未練がましさったらないわ、あれじゃ佑太さんが馬鹿にして当たり前よね。いつまでもお父さんが怖いってどうなのよ男の癖に」

「男は皆マザコンだし、人妻になると女は魅力的になるものだし、父さんを知ってる人は皆父さんを恐れてるよ?」

「へらず口をたたく男も嫌い」

「嫌いは好きの裏返し。ふ……、母さんは父さんが大っ嫌いだったのに、たった一週間で恋に堕ちて婚約したんだよ?」

「はあ?」

 一週間とは短すぎやしないか? くっくと将貴が笑ってベールごと千歳を抱きしめた。美しい花々に抱かれている心地がして思わずそれに千歳は酔いしれてしまう。想いの深さを秘めて揺れる緑色の眼が自分を見つめ、心の奥底まで緑に染めていくのを止められない。

「美留が俺を振ったのは、俺の想いが重過ぎて怖かったからだそうだ」

「……重い?」

「だから好きな女は縛るまいと思った。あれは駄目これは駄目と言って千歳を縛ったら逃げられてしまうと思ったんだ」

 つまり今までのはすべて将貴なりの愛情表現だったらしい。どこまで恋愛音痴なのかとあきれ返る。

「馬鹿みたい……」

 もう限界だった。うれしいと思う涙が胸の奥底から溢れてきて頬を伝わっていく。その涙を優しい手で拭いながら将貴が唇を寄せて頬に口付けた。

「父さんも同じだ。相手の女が恐れるほど愛してしまう」

「普通それくらい愛されたいのではないの?」

「千歳はそうなんだろうな。母さん同様大きな器を持って愛されるのを待ってたんだろ? 男の方がそれを見て驚いて素通りしていくからいつか諦めてしまうんだ」

「……だって、どう考えても私は無理」

「母さんだってそんな感じで結婚を諦めてた女だったんだ」

「お母様は綺麗だもの」

「千歳だって綺麗だよ」

「才能なんて何もないわ」

「あるさ。千歳がいるだけで俺は幸せになれる。千歳にしかできない才能だ」

「思い込んでるだけよ」

「愛なんて思い込みの極みだよ」

 囚われたら駄目だと思っているのに、虹色に輝くレースに包まれて将貴に完全に囚われている。将貴を前にすると決心が鈍るから、帰ってくる前に出ようと思っていたのは間違いではなかった。どうしたって自分は将貴が好きなのだとわかっていたから、本人を前にするとそんなものは霧の様に消えうせてしまう……。

 将貴の手が千歳の手を取って、その唇で手の甲を強く吸った。それは確実に千歳に火をつけて、消しようが無い炎に風を送り込んだ。

「俺が欲しいだろ?」

「欲しくない……」

「俺の目を見て言え!」

 千歳は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、将貴に喧嘩を吹っかけるような勢いで叫んだ。

「将貴さんなんか大っ嫌い!」 

 ふわりと身体が宙に浮き上がり、部屋の隅に敷いてある布団の上へベールごと運ばれた。千歳は何も抵抗せずに唇を重ねる将貴に応えた。大嫌いで大嫌いで大嫌いで大好きだ。キスされるごとに炎は強くなって、将貴を求める重いだけが強くなって止められなくなる……。

 外が吹雪いてきたのか窓が締め付けられるような音を立てた。部屋はとても寒く、服を脱がされると空気に冷やされて千歳は震える。察した将貴が布団の上掛けを千歳の上に被せ、キッチンへ行ったかと思うと、水を入れた薬缶をストーブの上につけて火をつけた。風が小さく吹き出すように炎が音を立てて踊った後、静かにストーブの火が大きくなり、将貴はそれを低めに調節すると、千歳の隣に戻ってきて服をすべて脱ぎ捨てた。

「……やっぱり寒いんですけど」

「すぐ暑くなるさ」

 将貴に上掛けを取られた千歳が文句を言うと、将貴は千歳の腰から乳房にかけてゆっくりと手を這わせた。なにやらため息をついたのが気にかかる。美留のように出るべきところが出ていないのが残念なのだろうか。残念ながら千歳の胸はAAサイズから成長してくれず、今日日の女子高生よりもスタイルはよくない。

「初めてじゃないのが悔しい」

 そこかと千歳はがくりときた。それよりいつまでふくらみにかけた胸を見ているつもりだろう。見ても今更成長など不可能なのに。

「……将貴さんだってそうでしょう? 朝子さんが言ってました」

「そうだけどなんだか許せないな。福沢の奴やっぱり許せない」 

 不機嫌に将貴は言い捨てて胸を眺めるのを止め、唐突に唇を重ねてきた。いつぞやの佐藤邸で押し倒された時と同じようなもので性急過ぎる気がする。千歳の都合など全く考えずに襲い掛かってくる嵐のようなもので、息苦しいからいいかげんに離してと思っても離してくれない。おまけに小さな胸を力加減無しに揉みしだき始めて痛いったらない。痛いと言いたいのに言わせてくれないのだ。

「ふ……ぅ、ん」

 じたばたして訴えようとしたら、片方の手で腰をがっしりと抱きこまれてますます苦しくなった。もしや絞め殺す気かと思った頃ようやく将貴は唇を離してくれた。荒い息を吐きながら文句を言おうとした千歳は、見上げた将貴の眼に射すくめられて何も言えなくなってしまった。ぎらぎらと輝く緑色の眼。千歳を喰らい尽くそうとしている獣だ。照明を消してほしいとも言いたいけれど、絶対無理だとわかる。おそらく千歳をむさぼりつくすまで身体から離れないだろう。

「もう俺以外の男とは寝ないって誓え」

「……知らない」

 辛うじて声が出た。

「まだ逆らうの。仕方ないなぁ」

 突然両足を割られてあられもない格好にされ、恥ずかしさのあまり千歳は泣きたくなった。閉じようにも両足の間には将貴が入り込んでいるので無理だ。経験があっても初めて肌を合わせる相手にこれはない。あまり比べたくないが過去の三人でもこれはなかった。

 肌を何度も何度も撫で回して口づけるのはかまわないが、そのたびにいちいちきつく吸うのは止めて欲しい。あとでバスルームの鏡を見るのがこわい。それにやたらと体重をかけてのしかかるのも止めて欲しい。女を抱いた経験がなさ過ぎそうだから、感覚がやっぱりおかしいのかもしれない。にしてはどうも愛撫が手馴れている気もするのでわざとなのかもしれなかった。

「千歳は本当に良い匂いがするね」

「やたらと犬みたいに嗅がないでください。あ、もう……や!」

 耳を舐められてくすぐったくなった首をすくめると、将貴が面白がってそこばかり攻めて来る。耳全体が性感帯なのを千歳は今まで知らなかった。優しい吐息を吹きかけられたりしたらもうたまらなくなる。

「いじわるっ! やだって……」

「気持ちよくなってもらおうとしてるのに意地悪ってなんだろな」

 夢に見ていたのと全然違うと本当は叫びたい。でもそんな淫らな夢を見ていたなんてばれるのが恥ずかしくてとても千歳は口に出来ない。思えばここは豪華なホテルではない普通の部屋で、しかもかなりのボロアパートだ。おいしいご飯を食べた後でもなく、ロマンティックな夜景を見ながらお酒を飲んで盛り上がったりもない。千歳は将貴の視線を感じながらも、経年焼けした茶色の壁を見ていた。どういうわけかそれがひどく幸せに思える。本当にいいのだろうか、別れずにこのまま将貴と結ばれても良いのだろうかと自問する千歳に、将貴が愛撫の手を強めた。

「ちょっと……きつ、い……」

 将貴の愛撫は強くなるばかりで、さっきまであんなに寒かったのにストーブのおかげで室温があがったせいもあるのか、暑くなった千歳は布団の上で身を捩らせた。逃がさないとばかりに将貴の手が強く胸を揉みしだいて、その唇が何度も胸に吸い付く。

 お風呂に入っておいて良かったと思う一方で、引き止められる事を望んで入っていたと思われたらどうしようなどと千歳はどうでも良い事を心配する。しかしそれも一瞬で、将貴の体温がすぐに押し流してしまった。いつだって女は清楚な淑女の品を持ちたいと思い、その一方で強く男に奪われたいと願う娼婦のような一面も持っている。千歳も例外ではない。

 蜜をまとい始めた花びらに、腰に回っていた手が這い降り、指先が一本深く沈んだ。

「はぁ……あ……」

 胸への愛撫が止まないまま、ぬかるみに入った指はその近くにある肉の芽にも食指を伸ばした。痛いきついと思っていたものが悦楽に取って代わりだしていた。胸とは比較にならない甘い疼きが背筋から這い登ってきて、千歳はベールを掴んでそれに耐えた。ベールを汚したくないのにどうしてと思う。ベールの花園の中であられもない姿でいる自分は一体なんなのだろうか。

「もっと、声を出して」

「そこばかり……どうしてっ……ん!」

「静か過ぎるからだろ。気持ちよくないの?」

「我慢……してる」

「今は我慢するな」

 聞いた事も無い情欲に満ちた将貴の声に、支配される喜びが体を駆け抜けていく。将貴だから支配されたい。もっとひどくても構わないと娼婦じみた思いを千歳は胸に抱いた。呼応したように将貴の指がぬかるみに沈み、蜜をまとわりつかせながら出し入れを始めた。違う指が芽を撫で回しては摘み、爪を立てる。

「あぁっ! ん……あ……はん……っ」

 将貴が千歳の柔らかな首筋に歯を立てながら強く吸った。涙が滲んでベールに流れて行き、花々に滴っている露のひとつになった。

 ごうと吹雪が窓を叩き、カーテンがかすかに揺れる。外は強い吹雪なのだろう。そんな中で愛しい人の腕の中に居られるのは至福以外の何者でもない。

「ごめん、早いけどもういれる」

 耐えかねたように将貴が言い、千歳の返事もまたないまま熱いものが花びらを掻き分けて押し入ってきた。

「────っ!」

 息を詰めて千歳はベールごと将貴の背中に抱きついた。強い甘美な波が襲い掛かってきて、何かにしがみついていないと不安だ。将貴は荒い息を吐きながら千歳のさらに奥の部分をこじ開けようとする。わずかの休みも与えずに押し入ってくる熱は、根こそぎ千歳を奪っていき、代わりに深い痒みにも似た疼きを撒き散らしていく。

 何度も何度も押し上げられた千歳は、不意に自分を貫いている将貴を見上げた。将貴は緑色の眼をぎらぎらと光らせながらじっと千歳を見つめていたようだ。強く求められてうれしくて千歳が息も絶え絶えになりながら微笑むと、激しいキスで応えてきた。

「んっ…………っ」

 きつく抱きしめられてまた苦しくなった。快感を逃したければ将貴にしがみつくしかなく、でもそうすると欲を煽られた将貴がさらに強く穿った。小さな水音がさっきからやまない。薬缶の湯がしゅんしゅんと音を立てているがそれよりも大きく感じた。お互い言葉を発せずに呼吸だけで会話しているような、そんなふうに二人は身体を重ねあった。

 あの普段の儚げな将貴は居ない。これがきっと将貴の本性なのだろう。壊れそうなガラス細工を思わせる美貌の中に、青い炎をずっと絶えず燃やし続け、隠し続け、心を許した人にだけその一端を見せるのが将貴という男なのだ。それを垣間見た美留はあまりの違いに脅えて将貴を捨てたのではないか? 

(私は……違う)

 千歳は将貴を離すまいと必死にしがみつき、将貴の激しい動きに翻弄されながらも思う。

(私はその青い炎に魅入られるのが怖かった。見たら最後、私は将貴さんを諦められなくなるから……) 

 最初は仕事相手としてしか見ていなかった。それなのに将貴のほうから近づいてきた。無視をして千歳の気を引いて、福沢と付き合うのを許すと言いながら怒るという我侭な一面を見せて。美留を愛しているのだと言って千歳を絶望の縁に叩き込んでおきながら、それでも千歳を愛しているのだとめちゃくちゃを言う将貴にどうしようもなく惹かれていった。

 やがて訪れた絶頂に、千歳は自分はとても幸せだと強く思う事ができた。夢にも見たこの瞬間に千歳は涙を流しっぱなしだった。そんな彼女を将貴が優しい腕で抱き寄せて囁いた。

「千歳、一度しか言わない。……お前だけを愛してる」

<第二章 御曹司とお仕事 完>

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