天使のマスカレイド 第46話
翌日、千歳は相変わらず自分を無視する山本に挨拶をしてからパソコンを立ち上げた。顔を上げて山本をちらりと見てから何か違和感に気付き、今度ははっきりと見た。明らかに殴られたようなあざが山本の目元にある。
「山本さん、それどうしたんですか?」
山本は何も言わずに書類をまとめていく。赤塚が挨拶しながら入ってきた。千歳の顔を見てから山本を見た赤塚も同じように山本に駆け寄った。千歳には頑なに沈黙を貫いていた山本だったが、やっと口を開いた。
「……転んで壁に顔をぶつけたんです」
「とてもそんなあざには見えないわね。誰にやられたの?」
「ぶつけただけです」
千歳と赤塚は顔を見合わせた。千歳は将貴に言おうと思ったが生憎これから月一の販促会議だ。これは管理部門の社員と製造部門の係長より上のクラスがすべて出席しなければならず、当然千歳達も田中達パートに仕事をまかせて出席しなければならない。皆それぞれ報告がありその書類の準備も忙しい。結局千歳も赤塚もそれ以上何も言えず、おのおのの準備に取り掛かるしかなかった。
会議室に入って自分の席に着き、将貴や福沢達が来るのを待った。皆山本の顔のあざに気付いてひそひそとささやいているが、山本は能面の表情を崩さずに自分の書類を見ていた。やがて二人が現れて会議が始まった。内容は年末年始の反省会が主で、大雪のせいで従業員達の出社が遅れたり、契約している派遣会社が社員を揃えられずにラインが遅れがちだった事などが報告された。やがて千歳の報告の順番が回ってきて千歳は緊張気味に口を開いた。
「あの、12月の販売予測が前年度と変わりすぎたせいかもしれませんが、海苔などの乾物の在庫が多すぎるのではないでしょうか。今のペースで行くと賞味期限が過ぎてしまうものが大量にあります」
月末の棚卸しは管理部の社員が代わりばんこに担当しており、一月は千歳がやる予定だ。事前にチェックしていたのだが、賞味期限が近いものが多く、これはよくないと千歳は思い会議で報告したのだった。福沢がうんうんと頷いた。
「確かに多い。予想より寿司が売れなかったせいだな。2月の節分でさばききれればいいんだが、残るようなら毎年三月末に行われる、社内祭恒例の社員ランチで使い切るようにする必要があるな」
「それなら……」
千歳が納得したように頷いた時だった。千歳の隣に座っている赤塚の隣、主任の高瀬が鼻で笑った。
「賞味期限は消費期限じゃないだろ大げさな。多少過ぎたからって腐るわけじゃあるまいし、乾物の期限なんかまともに見るのは非効率じゃないのか?」
空気が冷えた。千歳は自分は何かおかしい指摘をしたらしいと俯いた。しかし皆が見ているのは高瀬のほうだった。
「それはどういう意味ですか、高瀬主任?」
福沢の声が尖った。千歳は自分に向けられた言葉ではなかったので顔を上げた。高瀬の顔は同じ列にいるため見えないが、向かい合って座っている福沢も将貴も怒りを押し隠しているのがありありと見て取れた。
「多少過ぎたところで品質が変わるわけじゃない、わかる消費者がいるわけでもないでしょう。消費期限が過ぎているのなら問題ですが、賞味期限で……しかも長期保存が可能な乾物で大騒ぎする必要はないんじゃありませんか? ただでさえうちはこだわりすぎてコストが高いんですから多少は……」
ばきりと何かが折れる音がした。将貴が持っていたシャープペンシルを握りすぎて折ってしまった音だった。福沢が再度質問した。
「つまり高瀬主任は品質に変わりが無いなら、一日くらい期限が過ぎていても大丈夫だと言うんですか?」
「ええ」
「そうですか。ではその際のそれを使用した商品の値段は当然下がるんでしょうね?」
「もちろんです」
「過ぎている食品を使っているから下げられた弁当の値段。スーパーやコンビニで時間が経過して値引きしているのとはわけが違うんですよ?」
「消費者にきちんと告げているからいいではありませんか」
皆はらはらと事の成り行きを見ている。会議とはこんなふうに緊迫していただろうかと千歳が前回の会議を思い浮かべようとしていた時、将貴の氷点下の声がした。
「高瀬主任。貴方はうちの企業理念を忘れていませんか? 一、品質が良い食品を提供する……でしたよね?」
「ただでさえ食品業界はごまかしだらけなんです。そんなものまともに……」
「まともに守っている企業がまれだと言うのなら、貴方の目はどうかしている。守っているほうが大半だ。一度品質を疑われたら致命傷になるのを忘れないでください。ましてや賞味期限を過ぎたものを使用して販売などもってのほかだ。うちは違法操業の飲食店じゃない。そんなにひまわりカンパニーを窮地に追い込みたいのですか?」
「貴方がここにいるというだけで窮地に陥っているのでは? 佐藤グループを追い出された御曹司がえらそうに」
あきらかに将貴を侮蔑する言葉だ。千歳は頭に来て立ち上がりかけたが、それを赤塚に肩を抑えられて留まった。二人を見る赤塚の目は厳しいものだった。皆将貴が激怒するかと注目したが、将貴の氷点下の目は変わらない。
「それと会議の内容はまったく関わりがありませんね。窮地に追い込んでいるのは確実に貴方のような考えの者だ。高瀬主任と考えを同じくするという人は挙手願います」
誰も手など上げるわけが無い。期限を過ぎたものは廃棄が鉄則だ。品質低下に繋がる高瀬の言葉になど誰も賛同する道理が無いのだ。高瀬はそれにいらだって立ち上がり、乱暴に長机を蹴り上げた。
「お高くとまりやがって……! 辞めてやるこんな会社っ」
高瀬は将貴や福沢に怒鳴って睨みつけ、会議室を出て行った。しばらく会議室はざわついていたが、再び会議は再開された。千歳は胸の動悸が治まらない。自分はひょっとして言ってはならない事を言ったのかも知れない。赤塚は何も言わなかった。ふと反対側に座っている山本が気になって見たが山本も能面の表情に変化はなかった。しかし、書類を手にしているその指先が震えていた。
(そう言えば山本さん……高瀬主任と恋人同士……だったかしら?)
千歳が悪いわけではないが原因になったのは確かなようだ。窓を見ると朝のテレビニュースの天気予報が言っていた通り雪が舞い始めていた。
昼食の時間、千歳は珍しく事務所の矢野と一緒になった。来客の対応で時間がずれ込んだのだという。千歳はお気に入りのラーメン定食、矢野はトンカツ定食を頬張っていた。矢野は妙にごきげんだった。
「やっとあの極悪人を退治できたわね! 辞めてくれてせいせいよ」
「極悪人って……高瀬主任の事?」
昼の休憩時間が過ぎた食堂は人が少なくなっていて、甲高い矢野の声がやけに響く。でもおのおのの話や食事に夢中で皆こっちを見向きもしなかった。矢野はトンカツをまた咀嚼して飲み込んだ後味噌汁を啜った。
「あいつ以外に誰がいるのよ。馬鹿みたいに素っ頓狂な持論を持ち出したんでしょ? 前から何かと嫌な奴だったけど、自分の意見を拒絶されたからって、佐藤部長をあんな場所で罵倒するなんてバカじゃないの?」
矢野は会議に出席していなかったが、他の社員達に聞いたのだろう。この様子だと工場の末端まで会議での騒ぎは知られているようだ。千歳は定食を食べ終えて箸を置いた。お茶が無いので側においてあった薬缶から注ぐ。少しぬるくなっていたがまあこの程度ならいいだろう。
「……皆将貴さんの家の事知ってるんだ」
「詳しくは知らないけど、出来の良い弟さんがいるんでしょ? そんでその弟さんのせいで会社が継げなくなったってのは知ってるわよ。でもさ、今このひまわりカンパニーがあるのは佐藤部長が居たからでしょ? 百店舗近くのスーパーを経営している社長の息子の福沢さんと一緒に、本部から枝分かれしたこの会社をここまでにした人よ? バカにする事じゃないって皆言ってるし私もそうだと思うわ」
「そうなんだ……」
千歳は将貴の評判が落ちていないのでホッとした。そんな千歳を見てふふふと矢野が意味深に笑った。
「何しろ超美形御曹司様だし。目の保養に良いわ。いいわねえ……あんないい男が旦那になるんだから。どこまでやってるのかな~? うっふっふ。とっくにやってるわよね?」
「馬鹿っ。何言ってるの!」
「あーらエッチね。何を想像してるのかしら。まあそうか。そうよね。婚約してるんだものね。ふふふ。佐藤部長ってば懸命に牽制して可愛いわよね。福沢工場長に千歳がとられやしないか心配でたまらないみたい」
「あのね……」
矢野は福沢を狙っていたので面白くて仕方ないらしい。明るい話題だからといってもこれは困る。矢野は困り顔の千歳を見てすぐに話題を変えた。
「ま、いいんだけど。とにかくこれにこりて高瀬主任も奥さんやお子さんのところへ帰って良い旦那になればいいんだけどね。あの人本部からの推薦で管理部に入ったけどいい加減な仕事をする人だったし、家には帰らずほったらかしだったから……」
千歳は湯飲みを持ちかけていた手を下ろした。今、なにか衝撃的な事を聞いた気がする。
「……主任、結婚してるの?」
「してるわよ。奥さん凄く美人よ。もともと本部の社員だったから知ってる人は知ってる。どうしたのそれが?」
だとしたら山本とはどういう関係になる? 千歳は山本の顔のあざや、幼い姉妹を思い出して嫌な予感に囚われた。