天使のマスカレイド 第47話

 結局山本は壁にぶつけたと言い張り、誰も本当の事がわからないまま彼女は定時で退社していった。思えば彼女は家の事情もあるが残業はほとんどない。もともと残業ゼロを目指して皆頑張っている職場なのだが、追加発注などがあるとどうしても残業になりがちなのが現実だった。それでもなんとか残業は月10時間以内におさえられつつあるのだという。

「営業の森さんが成績上げようといい顔するのが悪いのよ。時間が過ぎた発注は受けるなっつーの!」

 ラインにかり出された矢野が、ぶつぶつ文句をいいながら寿司のネタをのせている。千歳はその隣でツマやミニしょう油をのせていた。千歳も先日スーパーで小麦粉を買い忘れたので今日の帰り際に買って行く予定だったのだ。スーパーは夜の9時までなので間に合うか心配になってきた。時計はもうすぐ夜の8時だ。

「矢野さんは仕事たまってるんですか?」

「終わらせてきた。帰る時にヘルプが入ってさ。せっかくの金曜日で他の友達と遊びに行こうと思ってたのにさ。うちみたいな平日休みはなかなか休みが合わないのよね」

「そうですねえ……」

 友達と縁を切ってしまっている千歳だが、確かに過去そういう悩みはあった。幸い向こう側でこれで終わりですと言う声が聞こえ、最後の寿司にツマとしょう油をのせ、ヘルプの仕事は終わった。矢野が今からなら間に合うわねとうれしそうに言い、千歳もスーパーの閉店に間に合いそうでホッとした。掃除を夜勤の社員に引き継いで更衣室へ急いでいると、将貴が更衣室の前で待っていた。

「どうしたんですか?」

「ん。待ってた」

 破壊力抜群の天使の笑みに千歳は顔に熱があがった。一緒に更衣室に入ろうとしていた矢野がにやついているのは見なくてもわかる。ただでさえ冷やかされているのだからこういうのはこっそりとやってもらえないものだろうか。

「私自転車なんですけど……」

「折り畳みだろ? トランクに載せてきた」

 相変わらず仕事が早い。本当にこれが馬鹿御曹司とか呼ばれていたのかと疑いたくなる。余程あの憎たらしい佑太が有能という事なのだろうが、どうにも怪しいと千歳は思い始めている。柳田あたりに聞いたほうが早いのかもしれない。だがあの男は苦手だ。常に人の腹の底を覗き込むようなあの目が嫌いだ。

 千歳は将貴に早く着替えてきますと言い、明らかに面白がっている矢野と更衣室に入った。入った途端に矢野がうれしそうに千歳の肩をバンバン叩いた。

「やってくれるわねー。熱過ぎやしない? うっふっふ」

「……矢野さんは工場長とどうなってるんですか?」

「いや、これがまだ未練がましいらしくて粉かけても駄目なの。誰かさんが忘れられないのよね」

「そんな人には見えませんけど。矢野さん……ずいぶん楽しそうですね」

「そりゃ楽しいわよ」

 そうそうに作業着から私服に着替えて矢野は髪型を整えた。千歳も将貴が待っているので手早く着替えてロッカーの鍵を閉める。これ以上矢野に娯楽を提供する気はない。まだ聞きたそうにしている矢野を置いて更衣室を出て、何をそんなに急いでいるのと将貴に言われながら工場の駐車場にあるクラウンまで歩いた。今日は冷え込みがきつく今年で一番の寒さかもしれない。溶けた雪がかちこちに凍りつき、足元でばりばりと音を立てて割れる。

 クラウンにエンジンをかけた将貴が助手席に座った千歳に言った。

「結局高瀬は退職になったよ。あれから本人を連れ戻してあれこれ言ってみたんだけど」

「あんな無茶苦茶な論理を並べ立てる人は工場に居ても仕方ないんじゃないですか? 今から思えば面倒くさいことは皆赤塚さんに丸投げして仕事なさってませんでしたから。商品開発もほとんど将貴さんがしていたんじゃないかと思っていますが」

「全くその通りだよ」

「なんで今まで解雇されなかったんですか? あの城崎とも繋がっていたんですよ」

「改心するかもと思ってたんだ」

 人が良すぎるにも程があると千歳はあきれた。でもだからこそ千歳は将貴が好きなのだ。佑太の様に腹に真っ黒なものを沢山詰め込んでいそうな男はまっぴらだ。将貴の様に純粋な清いもので大半を埋めている男の方が絶対にいい。

 道路もばりばりに凍っていて、将貴は慎重にクラウンを進めていく。前の車がスリップしながら進んでいるのを見ると自分達もこうなっているのだろうなと千歳は思う。クラウンのような重い車ほど滑りやすいから要注意だ。車の暖房が効いてきて暑くなってきたため、千歳はシートベルトを外してコートを脱いだ。

 いつもの陸橋は程遠いのに、もう車は進まなくなってしまった。このままではたどり着くのに1時間はかかりそうだ。スーパーは確実に閉店してしまうと思いながら千歳は文句を言った。

「スーパーの閉店に間に合いそうも無いですねこのスピードじゃ」

「何が欲しかったの?」

「小麦粉。あれがないと今晩の夕食の天麩羅ができないんですよ」

「まいったなそれは。じゃあ外れにあるコンビニで買おうか」

「少し回り道になりますけど、渋滞からそれるからそれでいいです」

 渋滞の列から抜け、クラウンは横道に入った。車の数は確実に減ったが今度は凍りついた雪が半端ない。バウンドする車を将貴は慎重に運転した。しかし、運悪くすれ違いの車を避けた時に車は固い雪の中にタイヤを取られスリップしてしまった。バックしてもタイヤが回るばかりで車は動かない。将貴がシートベルトを外した。

「もう少しでコンビニだってのにな。仕方ない。千歳、俺が後ろから車を押すから車を運転してくれる」

「私もう一年ぐらいペーパードライバーなんですけど」

 言いながらも千歳は運転席に座った。感覚はまだ忘れていない。しかし将貴が後ろから車を押し、千歳はアクセルを踏もうとしたのに慌ててブレーキを踏んだ。

「ちょ……危ないって」

いきなり前に飛び出してきた子供も目をまん丸にしている。将貴が前へ走っていくのが見えた。わずかに心臓をばくばくさせながらも千歳は車を降りた。これがトラウマになったらどうしてくれるんだと思いながら。

 飛び出してきたのはあの幼い姉妹だった。二人とも号泣に近いような勢いで涙を零して泣いており、何かあったのは明らかだ。将貴がしきりに理由を聞き出そうとしているが泣く勢いの方が強くどうにもならないようだ。

「泣いてばかりじゃわからないわ。どうしたの?」

 千歳は過去にしょっちゅう近所の子供達と遊んでいたおかげで。子供が落ち着く声の高さを知っている。二人と同じ目線まで屈みこむと、果たして姉の方が千歳に目線を上げた。目は赤くはれ上がっていて、暗目にはわかりにくいが口の端が切れていた。殴られたようだ。

「おか……お母さんが殺されちゃう! だからっ」

「お母さんって山本さん?」

 子供は嗚咽に咽びながら必死に頷く。妹の方が目の前のアパートを指差した。指しているのは一階の角部屋だった。

「いつもの……怖い人が…………、お母さん……殴って、お母さん……うわああああんっ!!!」

 姉が千歳に、抱き上げられた妹が将貴にしがみついて泣き喚く。二人は車を置いて凍りついた雪の道を急いだ。近づくに連れてアパートの部屋から叫び声や何かが割れる音がする。県営アパートのその古い部屋の鍵は開いていた。二人は子供をドアの外に待たせて部屋に入った。狭い玄関はゴミで埋まっており、中もゴミに混ざって家具があるありさまで汚かった。奥の部屋からまた何かが落ちて割れる音がした。同時に人が殴られて床に叩きつけられるような鈍い音も千歳に耳に入った。将貴が半開きになっている立て付けの悪い木の引き戸を力任せに開け、見えたさらに酷い部屋の惨状に千歳は胸が悪くなり口を両手で押さえた。

 めちゃくちゃに何もかもが散乱している部屋の中で、鎖のようなもので縛られた下着姿の女が倒れていた。山本だと千歳は直感した。白く細い身体は青あざだらけで引っかき傷のようなものもいたるところにあり、そこから血が流れている。昨日や今日ではない古い傷もあった。

「……ここで一体何をしているんですか? 高瀬さん」

 将貴の嫌に冷静な声が千歳の意識を山本から引き剥がした。山本の側で一升瓶を片手に、木切れのようなものをもう一方に持って立っている高瀬が居た。高瀬はだらしなくランニングシャツにズボンという姿で、赤黒い顔をしていた。酒を飲んでいるのだろう。

「これはこれは御曹司殿。なぜかような場所へお越しになったんでしょうか?」

「一体何をしているのかと聞いているんですが?」

「見りゃわかるでしょ? SMプレイですよ。こいつはこれが好きでなんですよ」

「……千歳、山本さんを介抱してあげて」

 山本に向かいかけた千歳は、高瀬に木切れを投げつけられ腕で避けた。

「触るんじゃねえよ俺の女にっ!」

 高瀬は狂っているように見えた。千歳は男のがなり声が恐ろしく、思わずまた将貴の袖を掴みかけたが、すぐにその手を引っ込めた。将貴の後姿の何かが千歳を近寄らせなかった。その時、細かく震えるだけだった山本が高瀬の足元にしがみついた。

「文博……やめて」

「てめえがガキを逃がすからこうなるんだろうが! きっちりしつけろといつも言ってるのにどうして言う事を聞かないんだ!」

 高瀬が山本の頬を力任せに一升瓶でなぐり、甲高い悲鳴と一升瓶が割れる音がした。血が飛び散り千歳は叫びながら両手で目を覆った。割れた一升瓶を持った高瀬はそのまま将貴に殴りかかり、二人でもみ合いになった。こういう場所に手馴れていない千歳は身体をまるめて震えているしかなく、倒れている山本に気を使う余裕もなかった。

「……逃げて、結城……さ」

 途切れ途切れの声に千歳ははっとした。膨れ上がってもとの顔を想像できなくなった山本が、うつぶせになったまま千歳に逃げるように言っている。初めて掛けられた声は千歳を気遣うものだった。千歳はスマートフォンを取り出して、殴りあう男二人を横目に警察へ電話した。この雪では警察もなかなか来てくれないだろう。割れた一升瓶という凶器に加えて物が散乱した部屋の中では将貴も相手をしづらいようだ。千歳は将貴が喧嘩が強いかどうかもわからない。とにかく高瀬は将貴に任せるしかなく、今度は救急車を呼んだ。これも中々来てくれないだろう。

 顔の出血は酷いが思ったより大きな傷ではなかった。千歳は自分のハンカチで出血部分を包んだ。痛みから山本は呻いた。下着姿はとても寒そうなので近くに落ちていた大きなバスタオルと毛布を被せてやると、山本は涙を流し始めた。

「このやろうっ離せ!」

 高瀬のがなり声が大きく響いたので千歳が振り向くと、大男の高瀬の腕を繊細で細い容姿の将貴がひねりあげている。大して力を入れているようにも見えないのに高瀬はそれだけで身動きができないようだ。一升瓶ががちゃんと音を立てて床に転がり、破片がまた床の上に散らばった。

「あの幼い姉妹をスーパーにいさせたのはお前か」

「お前には関係ないだろう、離しやがれ! ぎゃあっ」

 さらに強く締め上げられた高瀬が悲鳴をあげた。将貴の目は青いままだ。千歳は不思議に思う事がある。同じ怒りでも何故千歳に対して怒る時だけ将貴の目は緑色に染まるのだろう。

「家族が居るのにどうして山本さんに手を出した? 子供を苦しめる? お前にはそんな権利はないはずだろう?」

「水商売に手を出しかけていたのを助けてやったんだ。これくらい当たり前だろ!」

「……成程、弱みにつけこんだのか。城崎の手先だけあるな」

 唐突に将貴は締め上げていた手を離し、高瀬は自分が転がした一升瓶の上に倒れた。当然顔面や肌蹴た肩や腕に破片が突き刺さり、恐ろしい声で叫びながら高瀬は床の上を這い蹲る。それを冷たく見やる将貴の目には怒りが支配しており、一片の慈悲も無いように見えた。パトカーと救急車のサイレンの音が近づいてくる……。

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