天使のマスカレイド 第49話

 アパートに帰った千歳はキッチンでお茶を入れながら思案に沈んでいた。どちらかというと困惑に近いものがあるがこの場合は思案のほうがふさわしい。原因は当然、いきなり現れた千歳の父親の哲司の事だ。白髪交じりのごましおの髭に日焼けした小柄な体躯……久しぶりに見る哲司は全く変わっていない。思えば勘当されてまだ一年も経っていない。そんなに変わっているわけがないのだった。お茶を入れるとそれをトレイに乗せてリビングに入った。ちょうど将貴が丁寧な挨拶をしているところだった。

「先ほどは挨拶もなしに失礼しました。私は千歳さんとおつきあいさせていただいております、佐藤将貴と申します。婚約は先日させていただきました」

「親に許可もなしに婚約したのか。冗談じゃねえぞ」

 きちんと正座をして挨拶している将貴に向かって、あぐらをかいて座っている哲司の態度はありえない。千歳はむかっ腹が立ち、お茶が載ったトレイを持って哲司に突撃した。

「お父さんの許可なんか関係ないでしょ! 私は勘当されたんじゃありませんでしたっけ?」

「るせえ。許してやろうってんだからさっさと戻って来いってんだ」

「許してくれなくて結構です!」

「んだと?」

 哲司は言葉が悪いうえに頑固で、まるで江戸時代の江戸っ子のような男だ。仕事は当然組織の中でうまくやっていけるはずもなく、庭木職人をやっている。腕がいいので収入が途絶えたりはないが、人間関係のいざこざは家族の中でもトップクラスの困り者だった。それなりに人望があるのに曲がった事を極端に嫌う頑固者で、一度決めた事柄を曲げたところを一度も見た記憶はない。

「大体お前、この男の実家を見たか? とてもお前や俺とはつりあわねえぞ」

「ご実家なら一度伺いました。そうね、うちとは似ても似つかなかったわ、将貴さんのお父様はとっても上品で素敵な男性でしたしね」

 千歳は湯飲みを乱暴にローテーブルの上に置き、お茶を半分ほど零してしまった。玉露なのでやけどはしない。哲司はまったく気にせずに湯飲みを取り、ぐいと一気飲みしてローテーブルに戻した。

「へっ、上品が聞いてあきれる。お前は知ってんのか? こいつの父親のせいでつぶれた不動産会社がいくつあるのか」

「はあ? 企業なら買収とかあって当たり前でしょ?」

「これだからお前はだまされやすいってんだ。とにかく冷酷父親の息子なんだから、またあの鈴木みたいに捨てられるのがおちだってんだよ!」

「あんな男と将貴さんを一緒にしないで!」

 今度は思い切り握りこぶしでテーブルを叩く千歳に、哲司も同じように叩いて応戦した。

「見てくれがまったく同じじゃねえか! だまされてるところを助けに来た父親に対してそれはなんだっ」

「だまされてなんかいません! 大体どうやってここを知ったのよ」

 すると哲司の顔がゴキブリを見たように歪んだ。

「あの闇金野郎が教えに来たんだ」

「闇金?」

「城崎はじめって野郎だよ」

 はき捨てるように哲司は言った。千歳が大嫌いなツートップのうちの片方の名前だ。あの怜悧な美貌に頬の傷をつけた男を思い出すたびに震えが走る。いったいこの先何回城崎の名前が自分の前に出てくるのだろうと千歳はのろいたくなる。とことん嫌な男だ。この期に及んで千歳の幸せを潰そうとしているのが許せない。それに乗っかっている哲司も哲司だ。

「馬鹿はそっちじゃない。城崎って人の言う事を信じ込んじゃって馬鹿じゃないの」

「信じ込んでなんかいねえ。佐藤グループにゃ、うちの地元の不動産もつぶされてんだからな」

「とにかくそれと将貴さんとどう関係があるの? 将貴さんは佐藤グループのお仕事なんてしてないんですからねっ。お弁当会社のひまわりカンパニーの部長さんなんだから」

「はぁ? 聞いた事ないぞそんな会社」

 千歳はきちんと正座をしているのに腕を組んでふんぞり返った。

「そりゃそうでしょ、お母さんが手作り一筋なんだから。感謝なさいよねこの頑固!」

「親に向かってなんだ頑固とは!」

「頑固でしょ。大体いつからいたのよ気持ち悪いわね」

 将貴は壮絶な親子の口げんかに口を挟めずに交互を見やっている。彼の家庭ではまずこんな喧嘩は起きなかった。せいぜい伯父の雅明の家で夫婦喧嘩が起きたぐらいだ。またこんな風に本音で感情を思い切りむき出しにする千歳も珍しい。大体千歳はいつも将貴の前では一歩下がる。だからぶつかってきて欲しくて、ついつい外で引っ付いて楽しんでしまうのだが……。

 哲司はその将貴にちらりと視線をやり、再度千歳に戻した。

「正月明けからだ。三が日が終わった時にあの闇金野郎が家に来たんだ。お宅のお嬢さんは佐藤グループの御曹司と同棲してるってな。ご丁寧に住所とそいつの写真つきだった」

 まったくもってあの男は悪魔だと千歳は腹が立った。

「あいつを家に入れたりしてないでしょうね?」

「当たり前だ。あんなやつにうちの敷居は二度とまたがせねえ。でもな千歳、お前は……帰って来いって言ってるんだ」

「…………」

 帰って来い。

その言葉は、千歳が奥底に封じ込めて見ぬ振りをしていた寂しさを思い出させた。

 勘当されて極貧生活を送っていた時、何度その言葉を心のうちで反芻しただろう。にやにや笑う城崎やその手先に行く先々で苛められて見張られて、まるで奴隷のように一日の大半をバイトやパートで費やし、もらった給与はほとんどが借金返済に消えた。くたくたに疲れて明け方に一人ぼっちのアパートに帰って、切り詰めた生活のために食事とは言えない様なものを少しだけ食べ、外から聞こえる酔っ払いの声におびえて寝た。目を瞑る瞬間だけが幸せで家族を思った……。

 千歳は子供のように首を横に振り、か細く声を震わせた。

「……勘当って言ったのはお父さんでしょ」

 温度が下がった千歳を見て哲司の爆発も治めた。哲司は痛いところをつかれてむにゃむにゃと口ごもり、タバコを吸おうとしてポケットを探った。しかし、今日は買うのを忘れていたためポケットは空だった。

 千歳はこみ上げる涙をこらえた。確かに自分のせいで義姉のあかりは流産し、一家はこつこつと貯めた貯蓄も土地も城崎の闇金融会社に取り上げられた。昼も夜も闇金融の取立てがひどく、一時は近所づきあいまでに影響して村八分状態になったのを覚えている。母とあかりは千歳のせいではないと庇ってくれたが、この哲司と兄の怒りは凄まじかった。兄にとって初めての子供、哲司にとって初めての孫が生まれる前に消えてしまったのだから……。

「でも私は父さん達をうらんでないわ。だって当然だもの、私のせいだもん。だから、だからこそ許してくれたって帰れっこないのよ」

「もう誰も何も言っちゃいない。千歳」

 異様に気弱な態度に変わった父に、千歳は猛烈に腹が立った。こんな姿は見たくない。ぎり、と哲司を睨み付けた。

「私、父さんが反対したって将貴さんと結婚するから。将貴さんはすべてを知った上で私を選んでくれた。私は将貴さんしかいない」

「しかしな、家が違いすぎる。お前は間違いなく苦労するぞ」

「家の苦労より将貴さんと居られないほうがよほど嫌よ!」

「よく考えろ千歳。結婚は……当人同士だけの問題じゃねえんだ。古臭いと言うかも知れんが結局は家同士の繋がりなんだ。確かに憲法じゃ二人の合意で成立すると言っているが、現実は家のしがらみから解放なんてされねえんだぞ。周りの祝福がどうしたって必要で、それがあるかないかで結婚後の生活も左右される。世間様も認めちゃくれん」

 千歳は結婚式をあげられないでいる佑太と美留を思い出した。二人は佑太の父親の貴明が出した条件のために結婚ができないでいる。大企業の面子やしがらみのために二人はそれに従うしかないのだ……。黙り込んだ千歳に哲司が今度は諭すように言った。

「子供だって欲しくなるだろうが、それも夫婦だけで育てるのは大変だぞ? まともな人間になるにはたくさんの手が必要なんだ。お前らが元気で社会保障が整っていりゃあ不安もないが、万が一勤め先が倒産になったりお前たちのうちどっちかが病気にでもなってみろ? 誰が親の代わりをしてくれるってんだよ。子供は例えるなら畑になる前の原野みたいなもんだ。ちっとでも手を抜いたらあっというまに草ぼうぼうの荒れ果てた元の状態になる。誰かがつねに見守っていなけりゃならん」

「将貴さんとの結婚を認めないというのね?」

「苦労するとわかっていて手放す親はいねえんだ」

 何かを言おうとする将貴の言葉を哲司はわかっているかのように遮り、さらにこう付け加えた。

「佐藤さん、あんたの親御さんの態度も気に入らん。婚約したのならどうして挨拶に来ないんだ? 本当は認めていないんじゃねえのか?」

「それは……」

「千歳から見たらいい人達かも知れんが、いい人だから幸せになれるとも限らん。そんな夫婦を俺は仕事をしていく中で山ほど見てる。犬猫をやるんじゃない。千歳は俺の大事な娘だ。あやふやな決意で婚約というのは止めてくれ」

 顔を見合わせる二人に哲司がさらに諭す。

「結婚はゴールじゃねえぞ、新しいスタートに過ぎん。もっとよく考えてから決めたらどうだ? それからまた改めて答えを聞かせてくれんか?」

 結局哲司はそのまま帰っていった。よく考えたら千歳の家とこのアパートは高速を使うと車で一時間という近さで、日帰りどころか半日で行き来できる距離だった。あまりに遠いと思い込んでいたので千歳はその事実を忘れていた。

 千歳は物置と化している元の部屋で膝を抱え込んで丸まった。最悪の誕生日だ。言いたいだけ言って哲司はさぞスッキリできたろうが、千歳はもやもやが増えていい事なんて何もない。エアコンをつけていない部屋は寒さが支配していて夕方も遅くなってきた今はさらに寒い。それなのに千歳はそのままの状態で身動きしなかった。

 哲司の言っている事は正しい。だからこんなふうに悩んでしまう。思えばまだ佐藤の家に結婚すると挨拶にも行っていない。きっと父親の貴明の身体の様子が思わしくないのだろう。

(浮かれてた自分が馬鹿みたい……)

 将貴がご飯を作ってくれているらしく、いい匂いが台所から漂ってきた。もう家政婦と雇い主という関係ではないが、ご飯ぐらい作らなきゃいけないのにと千歳は自分を戒める。でも、どうにも今日は作る気が起きない。作ったとしても美味しくないものや失敗作を量産してしまうような気がする。

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