天使のマスカレイド 第50話

 二時間ほど経った頃、将貴の声がした。

「ほらほら、真っ暗な部屋で何をやってるのかな? ごちそう作ったから早く食べようよ」

 将貴は照明をつけて入ってきて、部屋の隅で丸くなっている千歳の横に座った。エプロンをかけたままなので将貴からはおいしいものの匂いがする。せっかく作ってくれたんだからと思うのに、重い腰は動かない。千歳はそのまま膝を抱えて丸まっていた。

「どうした? 雪だるまになっちゃってさ」

 からかうように将貴の指が千歳の頭をぐしゃぐしゃにした。まるで子供に対する扱いだ。確かに今の自分のポーズは子供みたいなものだと千歳も思う。

 また吹雪いてきたようで、ごうと風の音がして窓を圧迫してビリビリと震えた。エアコンを入れていないうえ安普請のこのアパートは、外の冷気をほぼ変わりなく部屋に取り込んでしまうので、薄手のニットしか着ていなかった千歳は一瞬だけ身体を震わせた。

「ほら寒いだろ? リビングに行こう、あっちに準備したからさ」

「……キッチンで食べたらいいのにどうして移動したんですか?」

「やっと口聞いた。だって千歳のお誕生日だろ? もっと早く知ってたらどこかのホテルのレストランでも予約したんだけど、リサーチできてない所に当日慌てて予約する勇気はなかったしね。かと言っていつもと同じ所で食べてたらなんだかムードに欠けるし。というわけでリビングに配膳したわけ」

 千歳はもともと外食が好きではないのでその感覚はわからない。でも確か過去に交流のあった友人達は、クリスマスとや誕生日にそういう事をしてもらったと言って喜んでいた気がする。千歳はああいう人が大勢いる場所や妙に品格のある場所で食べる料理より、家でごちそうを食べるほうが好きだった。

(違う。そういう事が言いたいんじゃない……)

 ぎゅっと膝を抱え直し、千歳は自分の肩に腕を回した将貴を見上げた。

「……将貴さん、私のお父さんをどう思いましたか?」

「どうって?」

「マナーなってないし、将貴さんに失礼だったし……」

 ははと将貴は笑った。

「失礼なのは俺も同じさ。確かに勝手に婚約をしたのは悪かった。普通は双方の両親に先に承諾を得るのがセオリーだからな」

「私の場合は勘当されていたからでしょう。大体うちの父は勝手すぎるんです。勘当しておいて、いきなり許してやるだなんて突撃してきて。わけわかんない。放っといてほしいです」

「勘当したくて勘当したんじゃないのは千歳だってわかってるだろ?」

「将貴さんは、父の味方なんですね」

「味方も何も事実だ。千歳が大事だから乗り込んできたのは一目瞭然だったし、別に気にしてないよ。ただ佐藤邸の両親はどうしても挨拶は無理なんだ。父さんの容態はやっぱり思わしくないし、母さんはそんな父さんの看護に追われてるし」

 自分の事ばかり考えていたのが恥ずかしくなり、千歳は申し訳なく思った。

「将貴さんのご両親は本当に結婚を承諾なさってるんですか?」

「もちろん。千歳にプロポーズする前に電話でだけどね。父さんはともかく母さんが舞い上がりすぎて、花を贈るだの、菓子を贈りたい、ホテルを予約してあげるとか……止めるのが大変だった」

「ははは……」

 品のある女性なのに、将貴の母の麻理子はどこか少女めいた雰囲気が抜けていなかったのを千歳は思い出した。深窓の令嬢ならではだろう。

「勘当されていたとしても、挨拶にだけは行きたいと父さんが言っていたから容態が安定するのを待ってるけど、やっぱり無理そうだ。次の休みに俺達だけで行こう?」

「そんなに悪いの? それなのにここに居ていいの?」

「父さんは見舞いなんて望んでないよ。父さんは自分より子供達や母さんの事ばかり心配してる。だから今しなければならないのは千歳の家族への挨拶ってわけ」

 将貴の手のひらが優しく千歳の背中を撫でた。それだけで大分固くなっていた身体が柔らかくほぐれていく。

「……ごめんなさい」

「何を謝ってるの?」

「自分の事ばっかりで……、おまけにあんなお父さんで」

「千歳にそっくりだったと思うけど?」

「冗談じゃないですよ! あんな頑固者!」

「千歳だって相当頑固だよ。気づいてないってのが致命的だなあ」

 大声で笑う将貴に思い切り横から抱きしめられ、千歳は腹を立てながらも何も言わずにいた。そんなにあの父と似ているだろうか? ……似ているかもしれないと自分で思ってしまうのがますます腹立たしい。自分は会社内でいざこざなんてそうそう起こさないし、あんなふうに突然人に掴みかかったりしない。しかし、将貴はそれを否定した。

「確かに千歳は会社ではおとなしいけど、こうと決めたらてこでも動かないだろ? 最初の頃、千歳にご飯を粗末にするなって掴みかかられた時殺されるかと思ったけど?」

「……は?」

「忘れてるんだなあ本人は。ま、いいけど。あれで俺は千歳に心臓掴まれたなあ確実に……はははっ」

 頬にキスをされても千歳はなんの事やら思い出せない。とりあえずお腹も空いたから冷める前にごちそうを食べようよと将貴に促されるまま、千歳はリビングに入った。すると千歳の好物ばかかりが用意されていて、どうやって準備したのかチョコレートのリボンでデコレーションされたホールケーキまであった。

「うわ……凄い」

「ありあわせのものでしか準備できなかったのが悔しいけど」

「そのケーキ、こんな短時間でできないですよね……」

 玄関で配達された気配もなかったので千歳が言うと、将貴は意味深に笑った。それで千歳は何もかもわかってしまった。今日、千歳と将貴以外にこのアパートの部屋に入ってきたのは、父の哲司以外にいない。千歳が部屋に篭った後に予め準備してあったこのケーキを将貴に手渡したのだろう。あの頑固な哲司がそんな事に気が回るとはとても思えず、千歳はケーキに備え付けられていたバースデーカードを開いた。

”千歳ちゃん、26歳のお誕生日おめでとう 私とお母さんは千歳ちゃんの味方です。早く一緒に住んでいる男性と一緒に家へ帰ってきてください”

 ちょっと綺麗とは言いがたい義姉のあかりの筆跡だ。千歳の母は字が汚すぎるので、少しだけましなあかりに頼んだとあっさり察しがついて千歳は微笑した。将貴がケーキの隣に配膳したおおきな林檎を見て、これも哲司さんがくれたんだけど、一体どういう意味なのと真顔で聞くので微笑どころか千歳はお腹を抱えて笑い出した。突然笑い出した千歳に将貴はびっくりしてから微笑み、どういう意味なのと再度聞いてきた。

「兄です。近所の果物屋さんがこの季節だけ入荷する巨大林檎が私の好物だって、兄だけが知ってるから」

「へー……、普通の林檎の倍はあるね」

「蜜がまだ詰まっていておいしいんですよ」

「ふうん、それは楽しみだな」

 手に取った林檎をしげしげと眺めている将貴を見ているうちに、千歳は胸から熱い塊がこみ上げてきて、誤魔化すためにスイートポテトサラダをスプーンで掬って食べた。お酒がないため用意されていたミネラルウォーターをグラスに注いで飲み干す。なんとか塊は飲み下せた。

「まだ渡したいものがあるんだけどね?」

「え? 友達かな……」

「違うよ」

 将貴がエプロンを取ってポイとリビングの隅に放った。そしてテーブルの隅にあったオフホワイトの小さな小箱を手に取り、かぱりと蓋を開けて千歳の前に差し出した。中にあるダイヤのリングが照明を受けてきらきらと輝いた。

「……サイズは合わないかもしれないけど、嵌めてくれる?」

「だって、将貴さん……」

 千歳は息が詰まりそうになった。確か病院帰りに指輪を見に行こうとか言っていなかっただろうか。千歳はその輝く指輪を見つめた。カラットがどれほどのものかはわからないが、とにかく綺麗だ。プラチナの台座の上に輝くそれを千歳は縁がないものとしてずっと放棄していた。

「いつ、これを?」

「年末に千歳にプロポーズしてから、かな。福沢に言われて準備しに行った」

「なんでここで工場長が出てくるんですか?」

「あいつが懇意にしている宝石店を紹介してくれたから。失恋確定だなあってぶつくさいいながら、なんで知ってるのか千歳の指輪のサイズまでご丁寧に教えてくれた」

 以前、福沢に連れられてパーティーに出席した時、指輪を嵌められた記憶がある。おそらくあの時だろう。

「驚かせたかったから内緒で作った。気に入らないのならもうひとつ作るけど……」

「いえ、これがいいです……、……っ」

 せっかくさっき飲み下したのに再び熱い塊がせり上がってきた。それはもう飲み下せないほどの勢いで、その熱さを持ったまま涙になって頬を伝う。今日は一体何なのだろう。最悪だと思っていたのに、最悪な方が気楽でいいのに。将貴の優しい指がその涙を拭うのがまた我慢できなくなる一因だ。指輪を左手薬指にするりと嵌め、将貴がその指に口付けて千歳を抱き寄せた。泣いているところをこれ以上見られたくなくて、千歳は将貴の背中に手を回してしがみついた。

「……私、こういうの嫌いなんです」

「知ってるよ」

 嗚咽混じりに言う千歳に将貴が頷く。怒るかと思っただけに千歳は意外に思った。その千歳を強く抱きしめ返して、将貴は千歳の頭に唇を落とした。

「千歳は人に優しいのに、自分に優しくされるのが苦手なんだ。優しくされると我慢していた甘えやわがままが一気に飛び出して、制御不可能になるんじゃないかっていつも怯えてる。それを見せて嫌われたらって警戒するのが止められないんだ。そんなの全然俺は気にしないのにね」

「…………」

「俺がわがまま言うように、千歳だってもっと素直になったらいいと思う。もう我慢するのは止めよう?」

「…………」

 将貴や家族や福沢の優しさがまた熱い塊を作り出してくれるため、千歳はなにか言いたくても言葉にできず、うれしいという感情だけを涙に変えて流す事しかできなかった。腕の力をゆるめた千歳の腕を掴み、将貴が唇を重ねた。それはとても熱くて、甘美で、さらに千歳をやわらかく溶かしていく。

 将貴の緑色の目が千歳を覗きこんだ。

「もう一度聞くよ? 佐藤千歳になってくれる?」

「はい」

 千歳にもう迷いは無かった。

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