天使のマスカレイド 第51話

 将貴と千歳はシフトを調整して休みを同時に取り、千歳の家へ挨拶に行く事になった。総務の仕事をしているおかげで事情を知っている矢野に、千歳は時間をずらしていたのにもかかわらずに昼食時に捕まり、またいつもと同じように質問攻めに遭っていた。

「そんなに聞いてどうするの? 広めるわけでもなし」

「広めて欲しいなら広めるわよ?」

「冗談!」

 焼き魚ランチの鯖をほぐして千歳は丁寧に口へ運んだ。矢野も同じものを食べていたがもう食べ終わっている。だから質問攻めができるというわけだ。千歳は適当に返しながらふいにこう漏らした。

「普通、挨拶って緊張するわよね……」

「まあそうよね、初対面の家族にってなると……普通はね」

 千歳は自分の家へ戻るだけなのに、佐藤の家へ行くような心持ちになって次の休日を思うだけで緊張してしまう。それなのに当の本人の将貴は全くそれを表に出さない。普通他人の家へ改めて挨拶へ行くのは気が重いもだと千歳は思っていたが、将貴は逆で自分の家族の方が緊張するというのだから変わっている。

「同じじゃない。自分の家へ帰るのにあんたも緊張してるんでしょ?」

「違うってば、私はどっちも緊張するけど、ま……佐藤さんは初めて挨拶に行くのにもかかわらず緊張なしなの!」

「仕事でそういうのなれてるんじゃない?」

「そうなのかな……」

 将貴のガクガク震える病は、佐藤親族の前でしか見た記憶が無いからよくわからない。考え込んだ千歳にそんなのはどうでもいいわと言って、テーブルを乗り越えそうな勢いで矢野は目をきらきらとさせた。

「ねえねえ、部長の家へは行った事あるの?」

「なんでそんな事聞くのよ?」

「だってさー、ものすごい大金持ちの御曹司様なんでしょ? 興味あるわよ」

「……まあ、お城みたいだったわ。なるべく行きたくないけど」

「お城みたいなんだ。いいなぁ。玉の輿だわ~」

 まるで自分が佐藤邸へ嫁ぐように顔をほんわりさせて、矢野はうっとりとして両手を組んでいる。あの家の将貴への仕打ちを思うととっても住みたいとは思えない。千歳は将貴が御曹司などではなくて、普通の家庭の人間だったらなといつも思っている。それは将貴本人がそう望んでいるから余計に思うのかもしれなかった。将貴はあの家で相当なつらい目に遭ったようで、その話になるといつも青い目が凍りついたような感じになる。穏やかな青が冷気を伴う青に変わるのを見るたびに、千歳は癒やされていない将貴の心の闇を思うのだった。

 品質管理室は山本がいなくなったので忙しくなった。パートの田中達は千歳に「厄介者がいなくなって良かったわねー」とのんきに喜んでいる。千歳は山本と高瀬の事件を口外しなかったので、二人は千歳と山本が角を突き合わせる関係では無くなったのを知らない。おかしな事に千歳を悪く言っていた製造のパート達も後を追うように辞めた。こんな事を思いたくはないが、彼女達もひょっとしてあの城崎の息がかかった人間だったのかもしれなかった。

 冬は食中毒がある程度はなりを潜める季節だが、やっぱり多いものは多い。また、製造工程の炊飯室や加熱室などは冬でも暖かいので、それに釣られてねずみやゴキブリなどが寄って来やすくなる。品質管理室はそれでぴりぴりしていた。工場が徹底した管理をしていてもどこからか虫は入ってくる。また、工場排水を処理している浄水場のpH測定などは将貴が厳しく管理していた。これも気温が低くなる冬はそれほど変動はないが、油断するとアルカリ性が高くなりすぎるので要注意だった。工場近辺の住民へのアピールに、処理した水を流している箇所で鯉などを飼って、おかしな水は流していないと証明しており、管理を怠って泳いでいる数十匹の魚が浮いて死んでいたりしたら一大事だ。

「最近の佐藤部長はとっても落ち着いて見えるわね。結城さんのおかげかしら?」

 赤塚がプリンターで出力した書類を机の上で整えながら、細菌カウントをしている千歳に話しかけてきた。千歳はマジックペンでカウントを続けながら、

「どうでしょうか」

 とだけ言った。

「前の寄り付き難い雰囲気が結城さんが入社してからやわらかくなったのよ。あれにはとても助かってるわ」

「そういえばそうだったかもしれませんね」

「愛の力は偉大よね」

 お堅いタイプの赤塚の口から「愛」などという言葉が飛び出したので、千歳はびっくりしてシャーレから顔をあげた。赤塚はその千歳の顔が面白かったらしく、めずらしく眼鏡を外してハンカチで拭きながらくすくす笑った。眼鏡を取ると赤塚はとても優しい顔になる事に千歳は今更ながら気づいた。

「なんて顔してるの。私も一応結婚してるのよ? 子供だっているし」

「そ、そうだったんですか」

「だからまあ……結婚についてとか子育てとか相談に乗れるわよ。なんでも聞いてね。もっとも会社では仕事第一だけど」

「……ありがとうございます」

 これは頼もしいなと千歳は内心でうれしかった。密かに赤塚みたいになりたいなどと思っていたのでなおさらだ。

 赤塚は書類をホッチキスで止め、提出用書類を入れるトレイに放り込み、千歳が受け持っている細菌カウントの半分を自分に引き寄せた。

「佐藤部長はいいお父さんになると思うわ。辛い時期に辛い経験をした人ほど優しくて強い人になれるんだって私の父が言ってたけど、佐藤部長こそそういう人ね。それを乗り越えた人の目って本当に違うもの」

「……そうですね」

「もっともそれも結城さんのおかげなんでしょうけど」

 持ち上げられる事に慣れていない千歳は、困ったなあと思いながらカウントを続けた。アクセサリーが禁止なのでペンダントトップとして服の中に忍ばせている婚約指輪が妙に重く感じる。

「でも佐藤の家は本当にどろどろしているから、これから先大変ね」

 東京から遠く離れたひまわりカンパニーの、それも一社員に過ぎない赤塚がどうして佐藤の家の内情を知っているのか千歳は不思議に思った。

「あの、赤塚さんはどこかのご令嬢なんですか?」

「んー……まあ、実家はね。たいした事ないわよ」

 言い過ぎたという感じで赤塚は目を瞬かせた。あとで知るのだが、赤塚の実家はかなり大手の不動産会社で赤塚はそこの代表取締役の三人の子供のうちの長女だった。仕事上の関係で同じ不動産会社の佐藤グループの内情にもある程度詳しくて当然だった。

「でもま、結城さんと一緒なら大丈夫ね。がんばってね実家への挨拶」

「はは……」

 千歳は傍目にもわかるほど恥ずかしそうに顔を赤らめた。色気というものが皆無だった千歳なのに、最近妙にそれを醸しだすようになり同性の赤塚でも一瞬どきりとする艶っぽさだった。

 それをまたいつものように窓越しに事務所から見ていた福沢は、恐ろしく長い溜息をついた。ああ、やっぱり千歳が欲しかったなあと心の底から思ってしまう。目ざとくそれを矢野に見つけられ、矢野にお茶を出されるタイミングでからかわれた。

「逃した魚は大きすぎましたか?」

「大きいというより美しすぎだな」

 あっけらかんと言われて矢野は面食らった。そこまで千歳にベタ惚れだとは矢野も思っていなかった。事務所はそれぞれのメンバーが出払っていてふたりきりだった。

「工場長もおっしゃいますねえ……」

「言いたくもなる。まあわかってたんだ、彼女があいつに靡いてしまうのは。似た雰囲気を持ってるからな」

「そりゃそうですね。腹黒意地悪の工場長では無理だったでしょう」

 福沢はむっとして出されたお茶をすすった。

「愛情表現だ。たいていの女はそれで喜んだんだよ。パーティーとかプレゼントとか……」

「あーそりゃダメですね。どう見てもあの子はそういうの好きじゃなさそう」

「そうなのか? うちの両親が彼女を気に入っててさ。この間なんで他の男に取られてるんだと怒られたばかりだ」

 気の毒に思いながらも矢野は吹き出さずにはいられなかった。ふられた男の悲哀がそこかしこに漂っていてそれが道化けじみて見えてしまう。矢野は福沢が好きなだけにからかわずに入られない。そして福沢はそれに全く気づいていない。それが小憎らしくて苛めたくなる。詰まるところ、矢野のほうが福沢に似たものを持っているようだ。

「結婚って似たもの同士がひっつくもんですから。そりゃ無理ですよ。しってますよー本部の社長が福沢さんとそっくりなの」

「母は腹黒じゃないぞ?」

「存じておりますけど、それを許容できる段階でバツですね」

 はああ……と福沢がまたため息をついた。この調子では幸せは当分近寄ってくれそうもない。それほど千歳に本気だったのならもっと優しくすれば靡いたかもしれないのにと矢野は言おうとしたが、多分それでも将貴の前では福沢は無力だったような気もする。千歳のような曲った事が嫌いなタイプに、曲がりくねっている福沢は一番ミスマッチだ。

「彼女が見てくれとか、資産に惹かれる女だったらあっさり諦められたのにな」

「そんな女だったら工場長は好きにならなかったのでは?」

「言えてるな。そういう女には飽き飽きしてる。しってるか? 彼女は佐藤の写真を見ても平静だったそうだぞ。あのお綺麗な顔なら普通の女は舞い上がるだろうにな」

「へー……千歳らしいわ。家でもそうなのかしら? ちょっと今度アパートに行ってみよう、同棲しているのは間違いないわ」

「馬に蹴られて死ぬのがオチだ。他の男を早く見繕うんだな」

 ふんと福沢が仕返しのように言うのに、矢野は同じようにこう返した。

「工場長もね。そのまんまでは二人の新婚熱々ぶりで討ち死にしかねませんよ?」

「……お前、本当に意地悪だな」

「工場長には及びません。そういえば仕事中でしたのでこれで……」

 席に戻っていく矢野を見送り、再度福沢は品質管理室を見た。将貴がいつの間にか加わっていて、赤塚と千歳と三人で何か真剣な顔で話し合っている。将貴も千歳も仕事をしている時はまったく赤の他人のような感じだ。自分はあんなふうにいられただろうか。鈍感な千歳は知らないがかなり福沢は私情を出してしまい、よく将貴に注意されていた。様々な事情で佐藤ブループを継げなかったにせよ、将貴は帝王学ごときものを父親の佐藤貴明から叩きこまれている。何故福沢の父親が将貴を覆面の工場長である事を許したのか今ならわかる。その将貴の経営センスが福沢の父親は欲しかったのだろう。最初から将貴は福沢に工場長になるべきだと言っていたから、二人の間でそういう暗黙の了解があったのは間違いない。福沢はこの数年間で将貴からそれを確実に教えられ、そして工場長になった。

「……やっぱりあのスーパーを継ぐ運命なんだろうな」

 お茶をぐいと飲み干して、福沢はそれならそれでやるしかないと思う。そしていつの日か千歳のような女を妻に迎えたいと望むのだった。

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