天使のマスカレイド 第53話

 その後、男女別にご飯を食べて、千歳は美好とあかりの三人でゲームをしたりして盛り上がった。もっとも妊娠中のあかりは眠りづわりなのだと謝りながら、先に休むと言って夜も早く部屋に戻ってしまったが……。男女別なのはこの辺りにも理由があるようだった。

 千歳は将貴の様子が気になって仕方なかったが、おつまみやお酒を運ぶのは主婦の仕事だからと美好がさせてくれなかった。父と兄は酒が強い。将貴が飲酒しているところはあまり見た事がないので強いかどうかがわからない。それにお酒にまかせて二人が将貴に変な事を聞いたりしないかと、そちらの方も気になるのだった。

「とても楽しそうよ」

 お酒の追加を持って行くたびに、美好が参加したそうな素振りを見せながら千歳に言ってくれた。確かに客間からは盛り上がる声が聞こえてくるし、将貴も明るく笑っているようだ。あの笑い方は心の底から楽しいと思っている笑い方だ。

「一体何を話しているの?」

「そりゃ二人の馴れ初めとか、普段の千歳の様子とか、これからについてじゃないの?」

 美好は千歳の向かい側に座り、テーブルの上に置いてある湯のみを取ってお茶を啜った。

「悪口とかだったら嫌だなあ」

「惚気ばっかりなようよ。あんた達、近所からは相当仲がいいと思われてるみたいね。最初の頃はぎくしゃくしてたみたいだけど」

「雇い人と雇い主で馴れ馴れしいほうがおかしいわよ」

 千歳はうさぎの形に切られている大好きなあの巨大林檎をかじった。甘くてみずみずしくておいしい。

「……ごめんなさいね。そんな仕事を引き受けるほど借金が残っていたとは知らなかったのよ。知っていたら……」

「もういいの」

 千歳は微笑みながら頭を横に振った。千歳はもう成人している大人なのだから、借金については自分の事は自分で決めて責任を全うしようとしただけだ。却って自分のために家族が借金取りに追いかけられる羽目になったのを、謝っても謝りきれないと思っているくらいだ。

「……佐藤の家の皆さんにも挨拶に行かないと行けないわね」

「すごい豪邸だから目を回さないでよ。あれはもう一流のホテルにしか見えないから」

「そんなご立派な家の方と結婚なんてね。いくら大丈夫と聞かされても心配だわ」

 ふうと美好はため息を付いた。できれば釣り合った家の男がいいと思っているのだろう。それに関しては千歳はなんとも言えなかった。唯一の救いは将貴はあの家にほとんど住んでおらず、独立して別の仕事をしている事だ。

「財産目当てとかお前が言われやしないかと思うとね。そういう苦労をよく聞くのよ」

「弟の佑太さんがほとんど引き継いでるんだけどな。それに財産は貰うものじゃなくて築いていくものだもの。将貴さんもそう言ってた。それがわからない人達の言葉なんかに振り回されたりしない」

「……あんた、本当に大人になったわね」

 うれしそうに美好は微笑み、だからこの結婚には反対しないのだとつぶやいた。

 男達の酒の飲み会は深夜に及び、美好がようやく終わったからと片付けるのを手伝わせてくれた。呼ばれて客間に行った千歳が見たのは潰れている父と兄だった。将貴はトイレに行くと客間を出て行っており、入れ違いになって居なかった。

「片付けは母さんがするから、千歳は布団を二組お願い」

「いっぱい飲んだのね」

 将貴は儚げな外見とは違って酒に強い男らしい。哲司も徹郎も酒はうわばみだと自負するほど強い部類なのに、将貴の前では普通の酒飲みになってしまったようだ。美好が料理類をまとめてキッチンへ持っていった頃、将貴が戻ってきた。

「ごめん、夕方から雪が降り出してたから気になって外に出て雪を見てた。明日ちゃんと帰れそうだね」

「それよりもすみません将貴さん。この二人ったらもう……。将貴さんが、お酒がこの二人より強いかどうかはわからなかったから心配してました」

「両親の遺伝のおかげで酒に負けた記憶が無いな」

 千歳は客間の空いている所に敷いた二組の布団に、将貴と協力して二人を寝かせ、上掛けを被せてやった。二人共赤ら顔でいい顔をして眠っている。

「俺はどこで寝たらいいんだろう?」

「私の部屋に布団を敷いたわ。お母さんもそのつもりだったみたい」

「……いいのかなあ」

「寝る場所がないから仕方ないわ。お風呂まだですよね? 着替えは兄さんのがあるからそれを持ってきました」

「なんだか悪いなあ」

「こっちの方が申し訳なく思います。全くこの二人、将貴さんを酔わせて何を聞き出そうとしてたのかしら」

「やけに突っ込んでくるなと思ってたけど成程ね。安心して? 逆に俺から千歳の小さいころの話を聞き出しただけだったから」

「それも嫌ですね。もう、私ばっかり恥ずかしいんだから。ま、これに懲りて二度と将貴さんにお酒を無理に飲ませるのは止めるでしょうよ。いい薬だわ」

 ビール瓶や一升瓶、洋酒の瓶を見て千歳は口を尖らせた。

「このお酒の選び方が最悪。ビールに日本酒にウイスキー。初対面の相手にちゃんぽんなんてどうでしょう?」

「うーん、まああんまり良くないね。俺は平気だけど」

「今は平気でも年取ったら出るから、絶対にもうしないでくださいよ」

「ていうか……もう何年もしてないんだけど。お父さん達は大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないから今ダウンしてるんです。明日怒らなきゃ」

 ぷんすか怒っている割には、千歳はどこか楽しんでいるように見えた。二人を見下ろす千歳の目はとても優しい。今朝の緊張で張り詰めた彼女はもうそこにはなく、自分の家族と共に居るという安心感がどっしりと腰を落ち着けているのが見える。

 視線に気づいた千歳は将貴を見上げた。

「どうしました?」

「朝の緊張はどこへやらと思って」

「将貴さん程ではありませんよ。あのガタガタ病はまだ完治していないのでは?」

「ちょっと自信はないね……」

 自信がないのは、弟の佑太と会う事に対してだろう。千歳にとっては、城崎に比べれば佑太など全く気にする部類の人間ではないが、世間的には佑太の方が怖い人間だろう。千歳が佑太に対しておそれを感じないのは、佑太が城崎のような姑息な手を使わない人間だと知っているからかもしれない。もし佑太が城崎など足元にも及ばない大悪党だったとしても、どうしても彼が自分達に対してそういう手段を用いるとは思えない。それは千歳がそういう計略を用いる程の大物ではないからとも言えるし、本音で接しているからだとも言える。

 本音。

 千歳は最初から佑太に対しては本音をさらけ出していた。勝てる相手と思っていなかったからだ。しかし佑太は違う。いつ本音を垣間見せるようになったのだろう。

 最初に将貴をまっとうな人間に戻してほしいという契約を持ちかけてきた時は、まだ佑太は表向きの顔だった。だが、将貴を父親の貴明と再会させるために誘いだした病院で出会った時は、本音を言っていたと思う。将貴の病気を治したいのか治したくないのか、よくわからないあの態度にいらついたりはしたが、そこに最初に出会った時に感じたうさんくささは感じなかった。あの時佑太は、二人を祝福しないという本音の一片を晒したのだ。

 そこで疑問点が沸いてくる。最初の給与の受け取りの場で柳田は、千歳が将貴を見ても態度が変わらないのを不思議そうにしていた。口ぶりからして佑太はそういう女こそを兄の将貴の伴侶に求めていたのだろう。柳田は千歳と将貴が結ばれて欲しそうだったし、佑太としても美留にまとわりつく将貴の影を消してくれる存在を求めていたはずだ。それに佐藤グループの社長として、財産や見かけに惑わされない千歳の存在は貴重であったろう。その千歳と将貴が近づきつつあるのを喜ぶべきだったはずなのに、祝福したくないと変化したのは何故だろう?

 従妹とはいえ、普通の家庭の美留と結婚したりしているから家柄云々を言う男ではないはずだ。さらに文句をつけたくなるような女に、あんな契約を持ちかけるわけがない。

 だとすると原因は千歳ではなく、変化した将貴だと思われる。その将貴と千歳が結ばれる事を、心の奥底では佑太は望んでいなかったのではないだろうか。望んだのは佐藤グループの社長としての佐藤佑太で、私人としての佐藤佑太は別の何かを望んでいたのだ。

 美好におやすみの挨拶をした後、千歳は将貴を自分の部屋へ案内しながら将貴と佑太の確執を思った。おそらくは佑太は、将貴が佑太に対して深いコンプレックスを抱いているように、佑太も将貴に対して深いコンプレックスを抱いている。美留を奪ったという事よりも、もっと深く、もっと早い時期にそれは始まっていたのではないか……。

 そしてそこまで考えると、佑太も将貴と同じように隠された素顔を持っている可能性が出てくる。ちらりちらりと垣間見える子供めいた態度の向こうに、本当の佑太が居るのかもしれない。何らかの事情で佑太は将貴に対して本当の自分を見せなくなってしまった。それが将貴と佑太を苦しめているのだ。

「何を考えてるのさっきから?」

 どさりと自分のベッドに押し倒されて、千歳はハッとして将貴の顔を見上げた。しかし真っ暗闇で何も見えない。戸は将貴が閉めたようだ。

「えーと、あの、眠いなーと思って」

 佑太の事を考えていたなどと言ったら、何か怖い真似をされそうで千歳はごまかした。真っ暗で見えないが将貴がかすかに笑ったような気配がした。

「ふうん……そう? こっちは久しぶりの飲酒で眠れそうもないよ?」

 不意に唇が重なり、親兄姉がいるのにとんでもないと千歳は必死に抗った。それなのに将貴の手は千歳の手首をシーツに押さえつけ、キスはますます深くなっていく。背中がぞくぞくとしてだんだんと熱くなってくる自分が信じられない。廊下を挟んだ向かい側は物置だが、隣の部屋にはあかりが寝ているのだ。やめて欲しいのにどうして身体は熱くなっていくのだろう。

 離れたと思った唇は角度を変えてまた重なってきた。息苦しくて弱った千歳の手から将貴の手が離れ、服の上から胸の膨らみを弄び始めた。ダメだこんな場所でと思いながら、それでも千歳は将貴に逆らえず、将貴の思うように動いた。

 将貴がお互いにしか聞こえない小声で囁く。

「ばれたら駄目だから、声は我慢するんだよ?」

「ん……っ」

 だったら止めてくれればいいのにと千歳は思う。

「千歳、とても綺麗だ」

「は……暗いのにどうしてそんな……」

「想像」

 真っ暗な中で感じるお互いの体温が、千歳の官能を強く刺激した。将貴の荒い息と共にはだけられた胸に吸い付かれ、その甘い刺激に千歳は口を両手で塞いだ。濡れた音としゃぶる舌の温かさがたまらなく気持ちいい。

「千歳、千歳……」

「────っ!」

 短い前戯に早急に将貴が押し入ってきた。千歳も将貴が欲しく我慢できなかったのでそれを悦んで受け入れた。緊張していたのは将貴も同じで、それが今お互い解けてこうなったのだろう。背徳感を感じながらも千歳は声を押し殺して将貴を抱きしめた。服を絡みつかせたままの秘めやかな揺さぶりが、二人をこれ以上はないほどに高ぶらせどろどろに蕩けさせていった。

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