天使のマスカレイド 第54話
それから一週間ほど経った頃、比較的に貴明の容態が落ち着いているという事で、千歳の両親と千歳は、将貴の運転するクラウンで東京の佐藤邸へ挨拶のために赴いた。挨拶という名目だが結婚式の打ち合わせが主だった。二人は一週間の有給休暇を取って、この休暇中に挙式する予定になっており、美好達は式の後の東京見物を楽しみにしていた。
「久しぶりですね」
「そうだな」
将貴は千歳の実家へ挨拶に行った後、どこか気分がすぐれないようだった。マリッジブルーというのは男にもあるのかもしれない。全くない千歳にはそれが不思議なものに見える。なんとなくその原因がわかっていたので千歳はそれについては将貴には触れず、気を逸らすように明るく接していたし仕事も楽しくやっていた。あの年末の事件以来すべてが絶好調で怖くなるくらいだった。
高速道路を降りて都内をしばらく走った後、角を曲ったところから見えた佐藤邸に、案の定哲司と美好は驚いていたが、そこはさすがに熟年に達しようとしている二人だけあり、すぐにその表情は顔から消えた。
佐藤邸の表玄関で、将貴の母の麻理子がしっくりとした色合いの訪問着で出迎え、車から降りてきた哲司と美好に丁寧に頭をさげた。
「本当なら私達が先に訪問するべきだったのですが、お越しいただく事になってしまい恐縮です。私が将貴の母の麻理子でございます。お会いできて嬉しく思います」
「いいえ、こちらこそ楽しみにしておりました」
同じように畏まった服装の哲司と美好も、深く麻理子に頭を下げた。クラウンを車庫へ移動させるために執事が前と同じように将貴と運転を替り、将貴と千歳は三人の後ろに続いた。客室へ入って千歳は目を瞠った。そこには将貴の父の貴明だけではなく、弟の佑太夫妻が居たからだった。千歳は将貴が心配になって横を見上げたが、普通に将貴の目は青く凪いでいたのでホッとした。
挨拶は和やかに進み、佑太から毒舌が飛び出す事もなく、将貴と千歳の希望で結納は無しで明日に入籍し、式を三日後にお互いの家族だけで行う事になった。この事はあらためて電話でやりとりがあったのでお互いが納得している上、貴明の身体の事を知っている哲司と美好は慌ただしい挙式であって異論を唱えず、むしろ積極的にそれに賛同した。関係者数人が呼ばれて話し合いあらかた流れが決まると、将貴と千歳に微笑みながら貴明が声を弾ませた。
「慌ただしくて申し訳ないが、私達四人はお前達二人はもう大丈夫だと思っている。どうか幸せになってほしい」
「はい」
将貴が頷いた。千歳は同じように頷きながら、一瞬将貴の顔に影がよぎったのが気になった。
佑太が表向きの顔をはずさないせいかもしれない。美留はとても喜んでいるようで、笑み満面だった。心からの祝福の気配を彼女から感じる。哲司も美好もいつもよりは大分よそ行きの態度だが、初対面なら当然だろう。だがそれは己の本心を隠すためではなく、将貴の家族を大事に思うからこそのよそ行きの態度だった。いきなり普段の哲司が出てきたら皆びっくりするはずだ。
麻理子が同じように目をきらきら輝かせながら言った。
「ドレスを選ばなくてはね。美好様も明日ご一緒に」
「楽しみです」
二人がああだこうだとドレスについて話している間、着るものに無頓着な千歳はそれをどこか他人事のように聞いていた。ふと気になって佑太を見ると佑太も千歳を見ていた。佑太は一瞬だけいつもの意地悪な笑みを浮かべた。不思議な事に千歳はそれを見て安心した。
「兄さんは当然として、千歳さんも俺達の式に出てこれそうだろうね?」
「ええ」
千歳が頷くと佑太はニンマリとする。お互いの両親が楽しそうに話をしている横で、どこか糸がぴんと張ったような緊張が走った。まっすぐに見返す将貴に佑太は余裕綽々に長い足を組んだ。緊張しているのは将貴だけでそれを見て佑太は楽しんでいるのだろう。相変わらず嫌な男だと千歳は思った。
「各界の名だたるメンバーが勢揃いしているから楽しみにしていてください。彼らも兄さん達と話をするのを楽しみにしているようでしたから」
「……そうか。待たせて悪かったな」
「いいえ。今こうして式を挙げられるのですから何も言う事はありません。うれしいですよ、兄さんが伴侶を得られるのを見られるのですから」
「それは良かった」
美留が将貴の顔色に気づいて話題を変えた。
「千歳さんはどんなドレスがお好みかしら? お母様達に任せるととんでもない少女趣味なのを着せられてしまいますよ?」
「え? それは困るわ」
「カタログを数冊持っておりますのでそれを見て絞りましょう? 貸衣装店にお電話しなくてはいけませんし」
「そうですね」
最初麻理子がドレスを買おうとしたのだが、保管場所がないという千歳の意見で諦めてくれたのだ。千歳は将貴の編んでくれたあの美しいベールに合わさなければと思いながら、美留が持ってきてくれたカタログを眺めた。しかし選びながらも佑太と将貴が気になって仕方がなかった。哲司達は気づいていないだろうが、きっと貴明だけは気づいている。ちらりとこちらに向けられた茶色の目に、気遣うような光が宿るのを見てしまったから……。
それからすぐ千歳の両親は都内のホテルへ泊まるためにすぐに佐藤邸を後にしたが、千歳と将貴は将貴の部屋に入った。
「父さんの都合でごめん。でも……本当にうちわだけの挙式でいいの千歳は? 花嫁は結婚式について、もっとあれこれ言ったほうがいいんじゃないかと思ってるんだけど」
「私は豪華な挙式は嫌なので今の予定で大満足です。ただご両親やうちの両親には悪いと思っています」
「そうだな。弟は盛大にするから気を使うだろう。でもどちらにしても招待客の人数に差が出るからあれこれ言われると思う。それなら最初から家族のみにしたほうがいい」
「お母様達の時はどうだったんですか?」
「母さんの時は、社員と祖母のナタリーだけの式だったそうだ。母さんの両親も親族も居なかったから」
ふうと将貴はため息を付いて、ソファに座った。
「居なかったってどういう……?」
「母さんの両親は、母さんの叔父に当たる人物とその息子に謀殺されたんだ。母さんはそれのせいで親族とは全て縁を切られてる。父さんと結婚した事を知って、復縁しようとする親族が沢山居たそうだけど、母さんは拒否した。そりゃそうだよね、苦しい時に見捨てておいて、幸運を手にした途端に擦り寄ってくる連中なんて厚顔無恥もいいところだ」
「……そんな事が」
何故勘当中だった千歳をすんなりと将貴の両親が受け入れてくれたのか、千歳はようやく理解した。
「母さんは深窓の令嬢だった。それなのに叔父親子の策略による借金を背負わされて、天涯孤独の身で千歳並みに苦労してた」
「その叔父親子って人達は……」
「父さんが暴いて警察へ引き渡した。殺害やもろもろの罪で二人は一生塀の中だ。ああ、叔父という人は数年前に獄中で死亡したそうだよ。どちらにしろ、奴らや借金が消えても母さんの両親は帰って来ない」
将貴の事情だけでも複雑なのに、将貴の両親も複雑な事情を抱えているのを千歳は初めて知った。将貴が自分の膝に千歳を誘ったので、恥ずかしいがそこへ座ると、背後から将貴の腕が回ってぎゅっと抱きしめられた。
「俺は最近恥ずかしいんだ。父さん達が努力して築き上げた幸せを壊したのは俺だ。俺が俺である事に自信を持てなかったせいで皆苦しんだんだ」
「将貴さん」
将貴の腕は震えていた。ひょっとしたら泣いているのかもしれない。静かだった部屋に、廊下から楽しげに話すメイド達の声がかすかに聞こえ、通り過ぎて行くとともにまた元のように静かになった。
「俺は、自分が出来損ないって勝手に決めつけて、自分で自分を貶めてた。そうする事でやらなきゃいけない努力を放棄してたんだ」
「放棄……」
「自分が馬鹿だと思っていれば、何をやっても駄目だという理由で、やりたくない事をしないでいられる。これが卑怯でなくて何だ?」
「でも、誰でも向き不向きが……」
「そりゃあるさ。俺にはこの巨大な佐藤グループの社長なんて明らかに無理だ。俺は基本自分の手が届く範囲の経営でないと我慢ができない。遊びの効いた人材の採用なんて難しいんだ。昔、とある経営者が言ってたけど、大人数の企業の経営者は拝むくらいの気持ちがないととてもやっていられない」
「だからって佑太さんが卑怯でないとは思いません。あの人は将貴さんを馬鹿にしてるじゃないですか」
「あいつは何もしない俺の代わりに頑張ったんだ。成績や人間関係の優劣で自分を見捨てた俺とは大違いだよ」
「今は違うんですから、気にしなくても……」
「わかってる。だけど、自分のせいで俺は皆を苦しめたんだ。千歳の家族に触れてからやっとそれに気づいたんだ……俺は……、全く、どうしようもない馬鹿だった」
ガタガタと将貴の腕が震え始めたので、千歳は将貴を何とか立ち上がらせて、すぐ後ろにあるベッドに寝かせた。将貴の額に汗が浮き出て髪がベッタリと貼り付いていた。身体も汗が吹き出していているのが見てとれ、蒸しタオルか何かで拭いたほうが良さそうだが、今の状態では無理だ。
将貴は優しすぎる。将貴に今必要なのは反省ではなく自分を許し開放する事なのだ。それこそ佑太のように開き直る潔さが必要だ。アパートや千歳の家にいる時はあんなに元気なのに、生まれ育った佐藤邸に戻ってくると将貴は弱くなってしまう。
「少し休まれたほうがいいです。あらかた打ち合わせは済んでおりますから、どうせ夕食の時間まで何もする必要はなさそうですし」
「ごめん。本当は哲司さんや美好さんと一緒に居たかっただろう? まだ再会して数日なんだから」
「私はもう大人なんですから、いつまでもべったりってわけにはいきませんよ。あの二人だって挨拶の傍ら東京見物を楽しみにしてたんですから、私が居たらお邪魔です。こうなるのがわかってましたからお心遣いは無用です」
「治らないもんだね……。佑太がどうしても苦手だ」
「前よりはマシです。治ってきてます。必ず治りますよ、決まってるじゃないですか」
「千歳が言うと本当に治る気がしてきた」
「治りますよ。将貴さんはどんどん普通の人間に戻ってきてます。私もです。二人でいてやっと普通になれるんですから」
「へえ……、だから千歳と出会うまで俺は駄目だったのか」
「私も同様です。将貴さんに出会わなかったら、私はきっとまだ捻くれてたと思います」
「まっすぐで頑固な人間が捻くれてたの?」
話しているうちに発作は治まってきたようで、将貴の震えが小さくなった。伸ばされた左手を両手で包み、千歳は安心させるように微笑んだ。
「もう大丈夫ですね。お茶はいかがです? 身体も拭いたほうがスッキリしますよ」
「今はいい。それより眠い」
「高速で何時間も運転されてたからですよ。このまま夕食まで寝てください。私はやりかけのレース編みをやりますから」
「わかった……。外に行きたいのならそこのテーブルの上のメモ用紙に書いておいて」
「はい」
天蓋から垂れ下がっているカーテンを静かに閉め、千歳は自分の分だけのお茶を入れてソファに深く沈んだ。将貴は直ぐ寝たようで、耳を済ませると静かな息遣いだけが聞こえる。
トントンとドアをノックする音がして、出ると麻理子が立っていた。
「将貴は寝てしまったの?」
「ええ。何時間も車を運転されていましたので」
発作の事は言わず、千歳はにっこりと微笑んだ。
「そうなの? そうね……遠いものね。じゃあ千歳さんだけいらしてくださいな。お茶にしようと思ってたの。美留さんも居るわ。美好さん達もお泊まりくださったら良かったのだけど……」
「東京見物が目的の一部ですからいいんです。あの二人のバカップルぶりは、見ていて歯が浮いて飛んでいっちゃうくらいなんですから」
「まあ……うふふ」
千歳はメモにさっと用件を書き、麻理子と並んで廊下を歩いた。すれ違う従業員達は皆丁寧に頭を下げていく。中には好奇心丸出して千歳を見る者も居て、やっぱり珍しいだろうなと千歳は内心でおかしく思った。本当にこの人達が将貴を悪く言っていたのだろうか? そんな意地悪な視線はあまり感じない。
「あの、お父様は……」
「ふふ、親子揃ってお昼寝中って事。ここ最近は落ち着いてくれてうれしいわ」
佑太も仕事があるからと言って直ぐに隣の本社ビルに戻ったらしい。だから女同士で男の悪口を言うのも楽しそうねと麻理子は笑った。一階へ降りて麻理子の部屋に入ると、美留がにこやかな笑顔で出迎えてくれた。慶佑は部屋の隅のベビーベッドで眠っていた。
「大きくなりましたね」
「ええ。食欲もあるし元気でうれしいの」
ケーキや紅茶があるテーブルには、将貴が編んだというレースのテーブルクロスが掛けられていた。まるで孔雀の羽を広げたようなデザインで、優美なこの部屋の雰囲気にはぴったりだ。千歳は見事に融合しているテーブルクロスを見て、やっぱりここは将貴の家なのだと思うのだった。