天使のマスカレイド 第55話

 夕食をメイドが運んできてくれた頃、将貴がその気配で目覚めて天蓋のカーテンを開けた。配膳を手伝っていた千歳は、将貴に振り向き、

「寝過ぎです。今何時だと思ってるんですか?」

と、笑った。将貴も微笑してわざと壁掛け時計を見上げ、

「……夜の7時半かな?」

と、生真面目に答え二人は爆笑した。メイドはそんな二人を見て目をまん丸にしている。将貴はすっかり元気になったようだ。二人分の配膳はすぐに済んでメイドはワゴンを押して出て行き、千歳と将貴は向かい合わせにテーブルを囲み、アパートのキッチンに居る時と同じように手を合わせた。

 並んでいるのは和食だ。将貴が伝えていてくれたのか好きなものばかりで千歳は嬉しくなった。しばらく二人は食べる事に集中していたが、やがて将貴が言った。

「ドレスは決まったのかな? 大方は」

「はい。明日決めますので同行をお願いします」

「言われなくてもついてくから」

 将貴が当然だという顔つきで言い、千歳はうきうきした。

「美留さんが忠告してくださったから良かったです。お母様の選ばれるドレスは、やたらと少女趣味なのが多くて……」

「自分は着ないくせに、人にやたらとそういうものを勧めたがるからなあ。多分美留も同じような目に遭ったんだろうね」

「それは間違いなさそうです。援護してくださって助かりました。明日本決めなんで油断はできませんけど」

「そうだね。俺が子供の頃はやたらと王子みたいな格好をさせられた。あれは恥ずかしかったな」

「へえ……そうなんですか」

 本当に王子のように見えただろうなと、千歳は心の中で王子姿の幼い将貴を想像した。今でも王子で通用しそうな麗しい男ぶりなのだ。事務所の矢野が、礼装を着た将貴の写真をぜひ一枚欲しいと言っていたのを千歳は思い出した。そんなものをもらって一体どこで眺める気なのだろうか。将貴が嫌がるのは確実だ。将貴のために写真を渡すのはやめたほうがいいだろう。

 食事を終えて、千歳はメイドが置いていってくれた返却用のワゴンに食器を片付けた。将貴はメイドが取りに来るから置いておけばいいと言ったが、千歳はいつ来るかわからないメイドを待つのがどうしても嫌だったのと、チーフにお礼を言いたいからと言い、それならばと将貴と廊下へ出た。

 エレベーターで1階まで降り、プライベートスペースの隣にある厨房まで食器を返却しに行くと、厨房のチーフと思われる人物が慌てて出てきた。

「ま、将貴様。ここまでおいでになるなんてどういう事ですか? メイドがまたさぼって……」

「千歳が池山さんに料理のお礼を言いたいと言うからついでだ。メイドのせいじゃない。千歳、こちらは厨房チーフの池山さん、俺が18歳の頃からお世話になってる」

「初めまして。結城千歳と言います。今日は特別に私の好物ばかりをありがとうございます」

「池山九郎と申します。結城様、満足いただけたようで嬉しく思います」

 力士のような体躯の池山を見て、千歳は山のような男だと思った。強面で雷親父のような外見だが、温かな人柄なのはひと目でわかった。 

「本当にありがとうございました」

 頭をさげる千歳に池山は恐縮して巨体を縮こませた。将貴が風船が萎んだようだと笑うと、池山はわざと怒って見せ、三人で笑った。池山は言った。

「将貴様、遅れましたがご婚約おめでとうございます。この日が来るのをずっとお待ちしておりました」

「うん。心配かけたな……」

「明々後日は腕をふるいますよ。お楽しみになさってください」

「ありがとう」

 二人と握手をして、池山はまた仕事場に戻って行った。まだまだ忙しいようだ。

 千歳は将貴と並んで歩きながら、将貴に頭を下げて通り過ぎて行く従業員達をそれとなく眺めた。やっぱり意地悪な感じのする人間は居ない。空気に敏感な将貴が言った。

「何か言いたいことがあるみたいだな」

「……いくつかありますね。ひとつ目は、このお屋敷で悪口にばかり囲まれていらしたとはとても思えません」

 将貴は肩をすくめ、薔薇が綺麗に咲いていると言って、千歳をライトアップされている庭へ誘いだした。冬に咲く薔薇があるのを知らなかった千歳は、冷気をまとわりつかせながらもその存在を美しく誇示している薔薇に目を奪われた。

「この薔薇なんか千歳に似合うかな」

 将貴が勝手にピンクの薔薇を手折り、刺を器用に取って千歳にくれた。花片が閉じているが朝になったら柔らかく綻ぶのだろう。

「勝手に取っていいんですか?」

「一輪ぐらいなら誰も何も言わないよ。特に俺なんかは佐藤の家の者なんだから」

「……将貴さんはとてもお父様にそっくりですものね」

「外見だけは、ね」

「内面だってそっくりです。ふたつ目は今日思ったんですけど、佑太さんと将貴さんって、お父様を半分に割ってそれぞれに分けたような感じですよね」

「なにそれ?」

 他の薔薇まで取ろうとしているのか、ちらちらとよそ見をしていた将貴が意外そうに振り返った。

「そう思った事はありませんか?」

「いや、ないね。俺はあんなふうに芯が通った人間じゃない。父さんは経営手腕といい、人を統率する力といい、文句のつけどころが無い人だ。失敗したところなんて見た事ないよ」

「そんな化け物みたいな人間はいませんよ。将貴さんの話を聞いていますと、まるで失敗をした経験がない人がこの佐藤の家にふさわしいって聞こえます」

「そうじゃないか。大失敗してる父さんも佑太も見た記憶が無い」

 これだと千歳は思った。この妙な完璧主義が将貴を苦しめているのだ。千歳は将貴の両手を自分の両手でぐっと握りしめ、驚いている将貴を見上げた。

「将貴さんが聞こうとしなかっただけで、二人共大なり小なり失敗経験はおありだと思いますよ? 人から悪しざまに罵られた事だってあるはずです。でもあのお二人はそれを躱す術を持っているから将貴さんのようにならなかったんです。お父様から将貴さんへ繊細な心と弱さと奥ゆかしさが、佑太さんへは実行力と冷静さが引き継がれたような気がするんです」

「やっぱり俺は馬鹿じゃないか」

「それそれ。将貴さんは真面目すぎるんです。なんでもかんでも人の言葉を気にして直そうとする。そこにすごいエゴが隠れてるってわかりません? だから悪口ばっかり拾って勝手に怯えてたのではないですか? 本当は将貴さんを愛する人達が多数を占めていたと思います」

 は、と将貴は息を吐いた。

「……お前は俺がされてた仕打ちを知らないからな。それに失敗して迷惑をかけまいとするのがエゴなわけ?」

「私の浅い人生経験で申し訳ないんですけど、自分は馬鹿なんだから期待しないでくれ、というふうに人を支配しようとするエゴです。人の気持ちをどうこうするなんてできっこありませんよ。私の気持ちは私のものだし、将貴さんの気持ちは将貴さんのものです。自分のものを他人にどうこうされて嬉しい人なんていませんよ。同じものが引かれ合うのは事実です、ですからあの池山さんみたいな方の言葉より意地悪な人達の言葉ばかり引き寄せてたんですよ。将貴さんがエゴを発する限り消えるわけが無かったんです」

 言い切る千歳に将貴は目を瞬かせた。黙り込んだ途端に忘れていた寒さが二人を取り巻いていく。しばらく二人は見つめ合っていた。将貴も千歳も何も言わずにお互いの目から自分の目を離さない。千歳は将貴の青く凍っていた目が、ゆっくりと溶けて春の空のように穏やかになっていくのを見ていた。将貴が千歳の黒い目に何を見ていたのかはわからない。

 やがて将貴が白い息をゆっくりと吐いて千歳を静かに抱き寄せた。腕の中は温かだった。

「俺……、家族や皆に愛されたかったんだな」

 千歳は何も言わずに、黙って将貴の背中に腕を回した。

「そうだな。俺は佐藤の家の長兄としてふさわしいように振る舞わねばって思ってた。でもその意味を完璧人間でないといけないと取り違えてたんだな。今頃気づくなんて……」

「いいんじゃありませんか? 気づけたんですから」

「千歳にはなんか教えてもらってばかりだな」

「まさか。私だって将貴さんから教えてもらってばかりですし、助けてもらったりしてます。でもお互いが相手を受け入れたから、こんなにやさしい人が沢山居たって感謝できるんじゃないですか?」

「感謝……か。俺は自分の理想と違う自分にうんざりして感謝なんて長い間忘れてた……。本当の自分を自分で歪めてたんだな」

 雪が静かに舞い降りてきた。千歳はそれを指に載せようとして失敗した。雪は千歳の指をするりとすり抜け、かすりもしなかった。何をしているのか気づいた将貴が千歳の真似をして手のひらに雪を載せようとしたが、やっぱり雪は指をすり抜けて地面へ落ちて消えていく。

「取れたとしても、雪なんてすぐに溶けちゃうよ?」

「私の手は冷たいので、ちょっとは結晶が見れるかもしれません」

「こうした方が取れるかもしれない」

 スラックスのポケットから、将貴がグレーのハンカチを取り出して広げた。すると面積が広くなったからなのか、いくつかの結晶がハンカチの上に落ちた。覗きこむと結晶はとけないまま重なりあって、わずかにライトアップの照明で煌めいた。

「綺麗ですね」

「砂粒みたいに小さいのに。こんなのが沢山積もっていくんだな……」

「将貴さんのレースみたい。さっきお母様のお部屋で将貴さんの編まれた孔雀のテーブルクロスを見ましたけど、あれみたいに綺麗」

「……恥ずかしいな。あれ。小学生の時のだよ」

「ええ!? あれを小学生の時に?」

 あの見事なものを小学生が編んだというのが、千歳にはにわかには信じられなかった。

「下手くそだったろ」

「いえ全然。すごく綺麗で……。あれが下手くそなら私の今のレースはどうなるんです。私は小学生のレベルにも達してないんですよ」

「多分、千歳にレースは向いてないんだよ。なんてのは嘘で、そのうちどう下手なのかわかるようになるよ。そうだな、鎖編みを三十目ほど編んで立たせられるようになったらわかるだろうな」

「そんなの立つわけないじゃないですか。くたんと倒れるのがオチです」

「うん、まだまだだな。まあ頑張ってくれ」

「もう! 意地悪っ」

 寒くなってきたので二人は屋内に入った。夜に入り、夕食の時間が過ぎたプライベートスペースは人があまり通らないので静かだった。入る事ができるメイドが少ないせいもあるのだろう。将貴によると深夜は節電するため、薄暗く不気味な空間が広がるのだという。鏡のように磨かれた床が、二人の足音の山彦を響かせるのがなんとも言えない気持ち悪さだ。怖がりの千歳は早く将貴の部屋に戻りたいと思った。

「まーた怖がってるの?」

「怖くなんかありませんよーだ!」

「じゃあなんで俺の後ろで歩いてるのさ?」

「たまたまですよっ」

「ちょっと待って、そんなに急がなくても……」 

 からかってくる将貴に反抗した千歳は、将貴を追い越して、照明の影になって暗くなっている角を曲がった。すると、白く揺れる布と長い黒髪が突然目の前に飛び込んできた。

「ひっ……!」

 出た幽霊! と、千歳は衝撃のあまり腰を抜かした。

「うわ、どうしたんだっ」

 わずかに遅れて角を曲がってきた将貴が、腰を抜かした千歳を背後から抱きかかえてくれた。千歳はあわあわとして声も出ない。幽霊が出るなんて聞いてないと言おうとした時、俯いていた幽霊が顔を上げた。

「……美留じゃないか」

 将貴が呆れたと言わんばかりに、千歳の頭をコツンと小突いた。白い布だと思ったのは、淡い水色のワンピースだった。

「ご、ごめんなさい、腰が抜けてちょっと……立てない」

「本当に怖がりなんだな。どこまで母さんに似てるんだよ」

 呆れ返りながらも将貴は千歳を横抱きにしてくれた。本当はおんぶのほうがいい千歳だが、そこは我慢した。意地悪な部分を刺激された将貴においてけぼりにされたら、それこそ怖い。

「何してるんだこんなところで?」

 将貴が美留に言った。千歳はやっと美留を見る余裕ができて、そこで初めて赤く充血して涙を含んでいる目に気づいた。美留は慌ててワンピースの袖の端で涙を拭いた。

「ちょっと、転んだの」

「転んだって……、美留は運動神経抜群だろ?」

「誰だって転ぶ事はあるわ。それに……」

 美留が何かを言いかけた時、足音がもうひとつ角を曲がって来た。首を巡らせて千歳が見ると、そこには普段着の佑太が立っていた。

「佑太、美留が……」

 佑太は将貴の横を通り過ぎ、逃げようとする美留の腕を乱暴に掴んで引っ張った。

「ふん。やっぱりそうじゃないか。どこへ逃げたと思ったら兄さんの所だった」

 憎しみが滲む佑太の声に、美留と佑太の夫婦仲がいいと思っていた千歳は、目の前で何が起きているのかさっぱりわからなかった。

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