天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第04話

 厨房はかなりハードな仕事場だった。アルバイトをした経験がない将貴はとまどうばかりで、言葉遣いひとつでも沢山注意を受けていた。朝の4時から8時まで働いたあと休憩を沢山挟んで、午後の4時から8時まで懸命に働いた。やらされるのは食材を運んで洗ったり、調理人が使用した鍋や包丁を洗う、洗浄の仕事ばかりだった。水仕事に慣れていない手はまだ冷たい山の冷水でしもやけになり、たちまち赤く腫れ上がって痛んだが、将貴は我慢して毎日懸命にその作業をした。それに文句などとんでもなかった。他の者達は将貴と違って未成年ではなかったので、朝の三時から午後、午後から深夜までと分かれて働いていた。料理長の稲田聡に至ってはほとんどの時間厨房にいる。仕事の厳しさを改めて知る思いだった。

「大丈夫将貴さん。虐められたりしてない?」

「ひでーな朝子ちゃん。虐めたりするわけないだろ」

「そーだよ。誰もが通る道だよ?」

 仲居のバイトをしている朝子が時々将貴を心配して厨房の奥までやってくる。朝子は将貴より二つ下の十六歳で年下だったが、調理人達は皆25歳を超えている大人ばかりで、厨房では18歳の将貴が最年少だった。将貴はじゃがいもをごしごしと厨房の片隅で洗いながら、朝子に笑いかけた。

「楽しいよ。心配ない」

 将貴が笑うとあたりに光が散らばるように明るくなる。女子従業員達の中で将貴の人気は絶大だった。調理人の一人がそんな将貴の頭をぐりぐりと拳骨で擦りながら笑った。

「うりゃ。お前、変な宗教広めんなよ」

「なんですか宗教って」

「天使教。お前が笑うと幸福になるんだそうだ」

「朝子が笑ったほうが幸せになれそうですけど」

 痛いと笑いながら言う将貴に、朝子は顔を赤くして、もう! うれしがらせるなとさらに将貴をどついた。ははははと厨房に笑いの渦が巻き起こった。これは本当の事で、将貴は朝子の笑顔が大好きだった。表情が美しいと言えばいいのだろうか、こんなに人を明るい気持ちにさせてくれる人間はいない。別の調理人が言った。

「朝子ちゃんは駄目だぞ。陽輔さんの彼女だからな」

「馬鹿ちがうわよ! 私はあんな意地悪な奴大嫌い」

「ンな事言ったって、陽輔さんは朝子さんにしか意地悪しないしなー」

「知らないわよ。とにかく嫌いなんだから!」

 朝子は機嫌が悪くなって、ふんときびすを返して厨房を出て行った。将貴はつぎつぎとじゃがいもを洗いながらその調理人を見上げた。

「陽輔さんて誰ですか?」

「増田支配人の一人息子だよ。東京の星京大付属の高校に行ってるけど盆休みに帰ってくるんだってさ」

「支配人みたいな方なんですか?」

「ぜーんぜん。荒馬ってイメージぴったり。虐められたら言えよ」

「虐めって……年下なのに?」

「お前は優しそうだから狙われそうなんだよ。おまけにお気に入りの朝子ちゃんがお前に夢中だからなんらかのごたごたを言ってきそう」

「…………」

 もうすぐお盆になる。将貴は口を噤み、料理長が厨房へ入ってきた事もあってじゃがいも洗いに没頭した。星京大付属は受けようとして落ちた高校だ。美留の通っている高校でもある。コンプレックスを刺激されて胸が痛んだ。

 夏の暑い日の午後、将貴が旅館の番犬として飼っている柴犬三匹を散歩から連れ帰ってきて、犬小屋に繋いでいる時に、誰だか知らない若い男の声がした。

「石川将貴っておまえ?」

 増田の配慮で、将貴は石川姓を名乗っていた。振り返るとブレザーを着た高校生が旅館の壁にもたれて腕を組んで立っていた。つり上がり気味の眼がキツイ感じのする端正な顔立ちの少年で、支配人の増田によく似ていた。

「……そうだけど」

「へえ。なんだって御曹司様がこんなところできったない格好して犬の散歩なんてしてるの?」

「犬の散歩は仕事ですし犬は嫌いではないですから」

「女ばかりか犬まで人気取り? 大変だね虐められっ子兄さん?」

「人気取りなんてしてない。支配人の息子がそんなふうに言ったらいけない」

 おそらくこれが増田陽輔だと思いながら、将貴は注意した。

「はははっ。オレは知ってるんだぞ、お前が弟に負けて逃げてきたって事ぐらい。弟の女の身代わりを朝子に見立ててるんだろ!」

 途方もない誤解をされているようで、将貴はあっけに取られてしまった。美留と朝子ではタイプが全然違う。大人しい美留は朝子のようにはきはきと話さないし、もっと内気ではにかみ屋だ。

「……お前の毒牙になんか朝子をかけるなよ! もし変な真似しやがったら許さないからな」

 親の敵のように睨みつけ、唖然としている将貴を置いて、陽輔は旅館へ入っていった。何がなんだか意味がわからない将貴はしばらく犬達を撫でていたが、今度は入れ替わって朝子が現れた。

「将貴さん、さっき陽輔が変な事言ってたみたいだけど気にしないでね。あいつってば本当に根性悪いんだからっ」

「朝子ちゃんが好きなんだろうね」

「違うよ。私あんな奴大嫌いだもん。人を大福餅っていつもからかうんだからっ」

 確かに朝子は大福餅のように色白でもちもちとしている。噛んだら甘そうだなと考えたのは一度や二度ではない。

「でも好きなんだと思うよ。考えてあげたら?」

「やーですよーっだ。だいいち支配人の息子なんて大変だもん。それにあいつ学校でもってもてなんだから」

「だろうね」

「何したって将貴さんに敵うわけないのに。ばっかみたい」

 敵わないのは自分のほうだと将貴は思う。

「陽輔さんの高校は星京大付属と聞いたけど」

「頭と顔はいいからね。でも性格は最悪。あんなんでバスケ部のレギュラーなんだってさ」

「すごいね」

 心底将貴は感心した。華道部だった自分とはえらい違いだ。

「私の事馬鹿だブスだってむかつくったら! だいだいだいだいだーいっ嫌い」

「うん……でも、やっぱり好きなんだと思うよ。ちょっと考えてあげたら?」

「もうっ。将貴さんは優しすぎるよ。それに……」

 珍しく朝子が言いよどみ、旅館の玄関口に入りかけていた将貴は隣を歩く朝子を見た。朝子は気持ちを押し殺すような不思議な顔をしている。

「それに、何?」

「何でもない。とにかく私が陽輔なんかとつきあうなんて絶対にありませんっ」

 朝子はそのまま仕事に戻っていく。朝子の態度を見ていたら朝子が将貴に気があるのはわかろうものなのだが、将貴は自分を酷く過小評価しており、顔だけの存在だと信じて疑っていなかったので、全く気付いていなかった。くすくす笑い声がしてそちらを見ると、支配人の増田が居た。

「これは支配人……、すぐ戻りますので」

「まだ時間があるよ。ごめんね、うちの陽輔が勝手に嫉妬して難癖つけて」

「朝子ちゃんは可愛いですから」

 爽やかに言う将貴の鈍感さに、増田は苦笑した。さすがあの色恋沙汰には鈍感な夫婦の子だけある。将貴は身長が低い事を覗けば父親の貴明の容姿をそのまま写し取った容姿をしているが、中身は正反対で何事も受身で大人しい。これではあの巨大な佐藤グループは継げまいと思う。あの人を屈服させるオーラを全く感じない。かといって伯父の雅明のような飄々とした軽さもない。まったく普通の人間なのに容姿だけはとびきり美しく、誰もが眼を奪われるのだ。さぞ父の貴明は頭を悩ませているだろう。

「……にしても、よく続いているね。正直そんな華奢な体つきでは無理だと思っていたんだが」

「雇ってくださったんですから当然です」

「あの頑固者の料理長が褒めている。来週から魚を触らせてみてもいいかもしれないと言っていた」

「本当ですかっ!?」

 喜ぶ将貴に増田がうなずき、そろそろ時間だなと言って将貴を開放した。将貴はうれしくてたまらない。ずっと魚を捌いてみたかったのだ。おそらくここ最近の野菜の盛り付けが評価されたのだろう。喜色満面の将貴はそのまま午後の営業前の旅館を歩き、従業員達の目を奪っていた。勤めだした頃から美しい将貴の存在が従業員の口から客へ漏れていき、将貴を目当てにする客が増えていた……。

 

「将貴、お前、気をつけたほうがいいぞ」

「気をつけたほうがいいって何が?」

 将貴はじゃがいもの皮を剥く手を止めた。帰省中の陽輔は何かと将貴に絡んできたが、結局相手にしない将貴に陽輔が負けて二人は仲良くなった。料理がド下手すぎる陽輔に将貴が教えたり、また逆に勉強を陽輔が教えたりし、傍目には仲の良い兄弟に見えた。陽輔は竹を割ったようなスッキリとした性格で裏が無い。朝子の相手には最適の相手だと鈍感な将貴は思っていた。

「最近お前目当ての客が増えてさ、ちょっとやばいんじゃないの?」

「そんなのいないよ」

 賞賛の眼に鈍感すぎる将貴に陽輔は呆れながら、じゃがいもの皮を不器用に剥いていく。

「ただでさえお前はド派手で目立つからな。家の連中が嗅ぎつけるかもしれないぞ」

「……気をつけるよ」

 そんな話をした数日後、食材の搬入の手伝いをしていた将貴は、ふと視線を感じてそちらを見た。厨房の裏口にある雑木林の影に誰かいる。他の調理人たちは全く気付いておらず、気付いたのは将貴一人だった。変質者なら大変な事になると思った将貴は、厨房の冷蔵庫へ荷物を入れた後、搬入口まで出てきてもう一度眼を凝らした。

「!」

 見覚えのある男だ。佐藤グループの第二情報部の人間だった。佐藤グループには第一情報部と第二情報部があり、第一情報部は普通の情報管理をしているが、第二情報部は影のような存在で閑職とされている。だがそれは表向きの偽りで、第二情報部のほうが精鋭の集まりだった。日本はおろか世界各国の政治や経済、人物の動向を一手に集めている。彼らの裏の顔を知っているのは佐藤グループでもほんの一握りだけだ。一握りというのは家族と専務以上の重役で社長の貴明の息子である将貴は当然知らされていた。

(嗅ぎつけられたっ)

 弾かれたように厨房に戻り、壁際で将貴はうずくまった。

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