天使のマスカレイド番外編 将貴の過去 第06話

 将貴は帰りたくなかった佐藤邸の自分の部屋で目覚めるまで、眠り薬を飲まされた事に気付いていなかった。あの居心地のいい旅館の寮とは違う薔薇の匂いと妙にやわらかいベッドで目覚め、見覚えのある天蓋に心が一気に冷えた。頭痛が酷く眼を再び閉じる。そしてこれは悪夢だと思う。もう一度眼を開けたらあの優しい場所だと念じた。それでもやっぱり将貴がいるのは戻りたくない自分の部屋だった。

 あの麦茶に眠り薬を入れられていたのだろう。おそらく喫茶店のアイスコーヒーにも混入されていたに違いない。将貴は増田に裏切られたのだ。

(……どうして)

 言いかけて、それは仕方がないのだと言い聞かせる。自分はまだ成人していない未成年で、親権がある者が強く主張したら引き下がらざるを得ない。おそらく増田は佐藤将貴を調べつくしていた。こんこんとドアをノックする音に将貴は起き上がり緊張した。将貴が返事をしないのに入ってきたのは、もっとも会いたくない弟の佑太だった。

「目が覚めてたんなら呼んでくださいよ兄さん。相変わらずですね」

「…………」

 将貴はじっと様子を伺っている佑太から眼を逸らした。

「嫌だな。まだ怒ってるんですか? 仕方ないでしょう、僕だって美留が好きだった。そして美留も僕を選んでくれたらああなるに決まってるじゃないですか」

 始まったと思い、将貴は自分を護るために心をガードする。そういう時の将貴はいつも無表情になり、青い眼は何も映さなくなるのだった。それがわかっている佑太は兄にため息をつく。

「聞いているでしょう? 兄さんが家出してから半月ほど経った後、父さんが腎臓がんで倒れて手術した事を。もともと症状はあったんですけどトドメを刺したのは兄さんですよ。それなのに戻ってきたくないなんてどれだけ人に迷惑かけたら気が済むんです? 小学生じゃあるまいし、いい加減にしてください」

「…………」

「その口は飾りですか? 兄さんは見てくれだけは綺麗ですからね。なんでも朝子という女の子を誘惑しちゃったそうですね。良かったじゃないですか、みっともない正体がばれる前にここへ戻ってこれて」

 何も聞かない。聞いてはいけない。

 起きたと聞きつけた母の麻理子がノックもせずにドアを開けて飛び込んできた。将貴はそちらを見ようともしない。見てはいけない。そうしたら壊れてしまう。

「将貴。今まで一体どこに行っていたの! どれだけ心配をかけたと思っているの。もうじきお父様がいらっしゃるわ。とても心配していたのよ皆。謝りなさい!」

「駄目ですよ母さん。また兄さんお得意のだんまりだから」

「将貴!」

 麻理子が肩を揺さぶったが、将貴は口を開かなかった。眼も合わさない。いつもならこの辺で将貴が負けて何かしら言って、なんとか場が治まる。しかし今日の将貴は無反応だった。気が触れたのかと思えばそうではない。口を聞かないという意思がはっきりと読み取れる。やがて父親の貴明が車椅子を執事に押させて部屋に入ってきた。それでも将貴は口を開かなかった。貴明は固く握られたままの将貴の右手に自分の両手を重ねた。

「……無事でよかった」

 貴明の声は酷く穏やかなものだった。麻理子が言った。

「貴明……、将貴が口を聞かないの」

「……向こうは楽しかったか?」

 二人と違って、貴明は家出を叱責するふうではない。それでも将貴はかたくなに口を閉ざした。ちぐはぐな温度差がある家族の再会で、そこにあの旅館での明るく伸びやかな将貴は姿も形もない。貴明が言った。

「……よく帰ってきてくれた。ゆっくり過ごしたらいい。お前達も将貴は疲れているのだからあれこれ言うな」

「でも貴明。この子はどれだけ迷惑をかけたと」

「それでもだ。一人にしておいてやろう」

「…………」

 三人が出て行くと、ようやく将貴は詰めていた息を吐いた。どっと嫌な汗が身体中から噴出してぐっしょりと服が濡れていく。あれが自分の家族なのだ。ここには朝子の陽気な声も、陽輔の憎まれ口も、料理長や厨房の皆の軽口もない。ベッドから降りてカーテンを開ける。美しい庭は今の将貴の慰めにはならない。またここへ閉じ込められるという意識の方が高かった。

(嫌だ。帰りたい……)

 将貴はカーテンの端を握り締めて、俯いた。

 

 将貴はそれから何日経っても誰とも口を聞こうとはしなかった。きちんと眠っているし食事もしているのに口だけがきけない。一週間も経った頃、母の麻理子が病院へ行かなければと言い、将貴は母に連れられて病院へ連れて行かれた。診察に出てきたのは院長になりたての木野和紀医師だった。心療内科では名医の彼でも、将貴は沈黙を貫いていた。正確には口から声が出せなくなっていた。それに将貴本人が気付いたのはその日の夜の事で、一人で鏡に映った自分の顔を見て呟きかけた時、出たのは吐息だけだった。話そうとしても話せない。声がどうしてもでない。

『声が出ない』

 鏡の向こうの自分が呟く。口は動いているのにあたりはしんと静まり返っている。ごつんと鏡に額をつけて将貴はうなだれた。佑太の声が聞こえる。皆に心配かけた罰なんじゃないの……? と。

 翌日、貴明が本社の社長室へ将貴を招いた。何をさせられるのだろうと思っていると、書類を数枚手渡された。

「これをそのパソコンをつかって清書しろ。続きは専務たちの指示を仰げ」

『……』

 将貴はワードの使い方をよく知らない。図形や表が沢山入り、記号だらけのそれは難解だった。それでも格闘していると、佑太が入ってきた。貴明にUSBスティックを書類と一緒に手渡したあと、寄ってきて欲しくないのに将貴の席にやってくる。そしてくすくす嫌な笑い方をした。

「ちょっと父さんいくらなんでもこれはないんじゃない? もうちょっとちゃんとした書類作らせてやりなよ。誰でも出来るの渡してどーすんの?」

「用が済んだら行け」

「……はい。じゃあね兄さん頑張って♪」

 将貴の肩をぽんぽんと叩いて佑太は出て行った。将貴は誰にでもできるというそれが出来ない自分にショックを受けていた。キーを打つ手を止めた将貴に貴明が言った。

「佑太の言葉を真に受けるな。誰にでも向き不向きがある。それを見極めるためにしているだけだ」

 それなら自分には無理だ。将貴はそう思った。そう思うともう集中できない。他人の評価に左右されやすく、佑太になみならぬ劣等感を抱いている将貴は何も出来なくなってしまった。作業の手を止めてしまった将貴を秘書達や、時々現れる専務達は不審がったが、貴明はそれについては何も言わずに叱言を将貴が受ける事はなかった。昼に食事の為に退出した将貴はそれきり社長室には戻らず、仕事を放棄した。出来ない仕事はしたくない。あの旅館で喰らいつくように率先して働いていた将貴とは別人かと思われるほどの無気力、無責任ぶりだった。貴明は午後の休憩時にもうしなくていいとわざわざ言いに来てくれ、将貴はそれに対して黙って頷いた。申し訳ないと思ったがどうしたってもう指が動かない。部屋から出るのも怖くなってしまった。

 その夜は部屋に鍵を閉めて誰も入れず、お腹がすいているにもかかわらず何も食べなかった。

 

 翌日、母の麻理子が何度もドアを叩いて心配するので、仕方なく将貴は部屋を開けた。昨日の叱言を言われるのかと思ったがそうではなく、母の部屋に連れて行かれて朝食を摂らされた。佑太がいないのでとても安心した。

「これからは私の仕事を手伝って頂戴。将貴は手芸やガーデニングとか料理が好きだったでしょう?」

 それもしたくなかったが、これ以上心配かけられないというのもあり、将貴は母の提案に黙って頷いた。

 麻理子は何かと将貴を気にかけて、あれやこれや聞いてくる。将貴は確かに料理の腕は格段に上がっていたし、編み物に始まる手芸は幼い頃から好きでやっていたのでそれを専門職にしてもいい位だった。麻理子はとてもいい助っ人だと将貴を褒め、あれこれやらせてくれた。しかし父を失望させたあの仕事が常に心の片隅を占め、将貴は母の賛辞に対してはにかんだように笑うだけだった。

「どう思うあれ。まるっきり女の仕事ばっかりしてるけど」

「あの方、女に産まれたら良かったのにね。仕事はできないけど家事だけはできるし」

「私でもできるわよあれくらい。普通すぎてつまんないわ」

 ぎくりとその陰口を聞いて立ち止まってしまう。同じような事が佑太が大きくなるに連れて幾度繰り返されただろう。聞き流せといわれても、傷つきやすい将貴は最初から最後までご丁寧に聞いてしまう。

「そりゃ、美留様も佑太様を選ぶわよ。将来性がゼロの男より、前途洋洋の方が安心できるものね」

「専業主婦と結婚してもねえ。美留様も賢い方だけど仕事するタイプじゃないし……」

 皆自分が悪い。弱虫で何をしても駄目な自分が悪い。廊下の向こう側から佑太が歩いてきたので将貴は横にそれて用具室に隠れた。情けなさ過ぎるが顔を合わせるのが辛すぎる。心臓が異様なほど胸を打ちつけて壊れそうだ。

 徳島のあの旅館へ帰りたい。

 痛切にそう思い、将貴は自分を抱きしめた。あの自由で陽気な場所がいい。こんな何をしたらいいのかわからない、冷たい場所は嫌だ。自分はここではお荷物で、せいぜい使用人たちのストレス解消の種にされるだけだ。そんな目に遭うために生きるなんてまっぴらだ。朝子はいつだって優しくて明るくて……、将貴の眼の色が変わっても平気だと言ってくれた。

 朝子が好きになれたらよかった。どうして自分は美留が忘れられないのだろう。

 将貴はひたすら母の麻理子と家事をした。冷たい視線を浴びようが、馬鹿にされようが、麻理子が悲しい顔をするのが辛い。思えばこういう手伝いは妹の咲穂がするものだったが、咲穂は従兄の石川穂高とドイツに渡って留学していて、日本には居ない。

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