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天使のマスカレイド番外編 佑太の煩悶 第01話

「ほら、仏頂面」
 車を運転していた佑太は、妻の美留に耳を引っ張られ、危ないじゃないかとその手を払った。もう、佑太の兄の将貴夫婦が住んでいる市に入っており、この田んぼ道をもう少し行けば二人の住むアパートはすぐだ。
 田んぼは稲がさらさらと青い葉を伸ばしており、稲の花の蕾がいずれも小さいながらも生き生きと上を目指していた。近くにある山の緑、青い空と見事に融合していて、散歩をしたら気持ちが良さそうだ。そう思っているのに、佑太はこんな事を口にした。
「凄まじい田舎っぷりだ。何を好んでこんな不便なところに住んでいるんだか」
「あら、私の実家よりはよほど利便性がいいわ。市街地は近いし、そこへ入ったら生活必需品は手に入るもの。雪が多いのだけが難点だけど」  美留はそう言うと、ハンドバッグから手鏡を取り出して、チェックを始めた。
「そんなに顔を気にしたって、兄さんはお前の顔なんぞ熱心に見ちゃいないよ」
 素直にもう十分綺麗だと言えばいいのに、佑太はそんなふうに言ってしまう。美留はそんな佑太をよくわかっているので全く気にせずに笑顔だ。
「失礼のないように気をつけているの。ね、慶佑ちゃん?」
 運転席の後ろのベビーシートに眠る、もうすぐ一歳になる長男に、美留は話しかける。慶佑は高速道路に入った途端眠って、途中パーキングエリアに止まっても全く目覚めなかった。寝過ぎかもしれない。夜泣きをしなければいいがと佑太は案じた。ホテルへ泊まればいいものを、美留が将貴の妻の千歳と、二人の住むアパートに泊まると勝手に決めてしまった。
 将貴の住まいに泊まるのはやぶさかではないが、会うたびにお前は敵だと言わんばかりに睨んでくる千歳を思うと、面倒くさそうな滞在になりそうだ。泊まるのは一週間程度なのだが。
「柳田さんも来れば良かったのに」
「馬鹿。あいつだって休みの日は自由にしたいさ。恋人も居るみたいだし放っておいてやれ」
 鈍い美留は目を丸くした。
「ええ? あの人が? 物好きが居るわね!」
 佑太の前では人物批評に遠慮がない美留に、佑太はふっと笑った。確かに、あの重箱の隅を突き回す性格で、あらゆる面で細かすぎる皮肉屋の秘書と居て平気な女なぞ、そうそうは存在しないと佑太も思う。
「でも何故知ってるの? 秘密主義そうなのに」
「まあ、いろいろあってな。昨年の話だよ」
「昨年って……、ずいぶん器用なのね。大変な年だったのに」
「そうだな」
 昨年は、兄の将貴を中心に波乱怒涛の年だった。十年近く家族を拒絶して家へ帰らず、心因性失声症を患っていた将貴のために、佑太は選りすぐった人間を何度となく送り込んで治そうとしたが、いずれも駄目で、諦めかけていた時に、自社ビルの社屋を磨く、派遣社員の結城千歳を見つけた。心惹かれるものがあり、仕事外とわかってはいたが、人物を見るためにわざと紅茶を淹れさせた。突然、何の脈絡もない出来事が起きると、人は本質を露呈する。千歳は、佑太の身分を身なりである程度はわかっているだろうに、同様もなく見事な所作で紅茶を勧めてきた。 。紅茶の味はともかく、その胆力と深い眼差しが気に入った。
 調べると、さもあらんという境遇だった。千歳は、男に騙されて多額の借金を背負って、返済のために働いている最中だった。騙されるまでは甘い人間だったのだろうが、滞りなく返済しているところを見ると、兄の将貴の側につけても大丈夫そうだった。問題は、その千歳を女として狙っている節が見える、借用証を握っている男だ。男は、兄の将貴を学生時代苛め抜いた筆頭の、城崎はじめというヤクザだった。
 返済をすれば城崎と縁が切れると踏んで、小さな駆け引きを持ちかけた。比較的あっさりと、千歳は将貴の世話を引き受けてくれた。性を匂わせない。それも条件だった。これは佑太自身が驚いたのだが、千歳は将貴の写真を見ても、顔色ひとつ変えなかった。他人の、それも美貌の男と同居して、ただ家事だけをしてくれる女。専門家でない普通の人間にしか、恐らく将貴の病気は治せないと、主治医の木野和紀は言った。まさに千歳は適材だった。
 しかし、誤算が生じだ。兄の将貴が、千歳に惹かれてしまったのである。母に似た女性を愛することがあるのだと思いだした時には、全てが遅かった。
 佑太が気に入ったのは、同じ境遇だった母の麻理子に似た強さを垣間見たからに過ぎなかったのだ……。
「ま、兄さんの好みの様変わりには驚いた。全然お前と違う」
「そうかしら」
「全く女らしくない。棒っきれじゃないか、彼女」
「そうは思わないけど、でも、うらやましいわ。私も千歳さんみたいになりたかったな。私はあそこまで強くないもの」
「強さにはいろいろある。美留には必要のない雑草の強さだよ彼女は。それを考えると兄さんの好みのど真ん中か。父さんと同じで鋼鉄女がお好みらしい。弱い兄さんとらしいよ」
「またそんなふうに言う。困った人ね」
「ともかく、父さんにはもっと長生きして欲しかったな」
「……そうね」
 愛した長兄の結婚と、佑太との確執が解けるのを見て、ホッとしたのだろう。あるいはその為だけに命を燃やし続けていたのかもしれない。

 父の佐藤貴明が亡くなってから、早いものでもう半年が経とうとしている。経営は当の昔に佑太が全て引き継いでいたので、社内では何の混乱もなかった。ただ、母の麻理子の憔悴ぶりが凄まじく、本当は気晴らしのためにこちらへ連れてきたかったのだが、昨日から微熱が続いており連れてくることが出来なかった。
 深く愛されていた母。
 その愛を失って、嘆きはいかばかりかと思う。
 涙を流しているところはまだ見ない。きっと隠れて泣いているのだろう。
 佐藤家の女としての役割は美留が引き継いでいる。母は、普通の女に戻るべきだ。
 きっと、父の貴明もそう望んでいる。
 癌の末期の激痛の最中でも、父は常に母への労りを忘れていなかったのだから……。

 田んぼの中にある集落に入った。道は農道と同じように綺麗に舗装されていたが、古くからある集落なのか、車一台しか通れない幅の狭さだった。もらっていた地図を辿りながら車を進めていると、小さなアパートが見えてきた。
「あれね」
 美留が言った。
 アパートの前の駐車場で、千歳が人待ち顔で待っていた。美留がうれしそうに手を振ると、同じように振り返してきた。
 駆け寄ってきた千歳に、パワーウィンドウを開ける。外の熱気がむわりと車内に入ってきた。
「特別にこの隅に置けるように管理人とアパートの皆にお願いしておいたわ。離れたところに駐車場はあるけれど、お二人には不便だと思うから。車持ってる理恵さんちは今月いっぱい実家に帰省だしね」
 指定された片隅に佑太が車を停めると、兄の将貴がアパートの階段を降りてくるところだった。近くの公園の森林から、みんみんと蝉が鳴く声が聞こえる。
「よく来たな二人共。疲れただろう?」
「そこまで疲れてはいませんよ。兄さんじゃあるまいし」
 トランクを開けて荷物を降ろしていると、将貴がそれを手伝ってくれる。儚げな外見は見せかけで、実はかなり力持ちなのを佑太は知っているので、遠慮なく押し付けた。
「結構重いな」
「それが一番重いです。気をつけてください」
「大丈夫だよ」
 相変わらず将貴は父親の貴明譲りの美しさだ。
 そこで、はたとした。
 ひょっとして麻理子は、この父親似の将貴の顔を見るのが辛かったから、熱が出ていると嘘をついたのではないだろうか……。

「荷物はこれで最後か?」
 将貴に聞かれ、佑太はハッとした。
「ええ。そちらは全部お土産です。一つは生物ですからすぐに冷蔵庫にしまってください」
「わかった。ありがとう」
 将貴は嬉しそうに微笑み、それを千歳に渡した。千歳は美留と話をしていたところだったが、丁寧な手付きで受け取り、美留に礼を言った。佑太はそれを見ると、悪戯心がムズムズと湧いてきた。
「それ……、僕が選んだんだよ。兄さんの身長がちょっとは伸びるようにね」
 将貴は男なのに身長は170センチに届かない。
 相変わらずの嫌味に将貴は苦笑しているが、千歳がはたしてむっとした顔になった。しかしそれはすぐに意地悪気な笑顔になる。
「大きな会社の社長さんなのに、未だに将貴さんが成長期に見えるんですね」
「見えるねえ。子供のような顔だ」
「はあ!? 子供?」
 本気で突っかかる千歳を美留が謝りながら止め、将貴が、はい終了と言って、千歳の腕を引っ張った。千歳は、ふんと顔をそらせて、土産を持ってアパートの二階へ上がっていく。駐車場から向かって左側が二人の部屋だ。小さなこのアパートには二人を入れた四世帯が入っており、隣がかなり高齢の老夫婦、直接の下が子供が一人居る若夫婦、その隣は独身の女が一人住んでいると将貴が教えてくれた。まるで家族のようなつきあいがあるようで、諍いは一切ないらしい。
 アパートは2LDKの70平米ほどしかない狭さだ。佐藤邸の将貴の部屋の方がまだ広い。客室として用意された部屋は物置にしても狭い。しかしそこは綺麗に整理整頓され、貸し布団がふた組置かれていた。
 千歳が心配そうに戸口から顔を覗かせた。
「大丈夫かしら。ずいぶん狭いのよ」
 美留がとんでもないわと笑った。
「私の実家の部屋と同じぐらい。平気。それより慶佑が夜に泣くかもしれなくって、それが心配なんだけど」
「ああそれは平気。皆理解があるからね。あんまりひどいようだったら、車出すから、夜のドライブしたらいいかも。結構面白いって、下の階の理恵さんが言ってたわ。今月いっぱい居ないのが残念ね」
「まあ! 夜にドライブするの? 面白いことされるのね」
 美留は嬉しそうに目を瞬かせた。慶佑は美留の腕の中でまだ眠っている。
 夜泣きなど経験したこと無いのでそんな事が言えると、佑太は内心でうんざりした。あれはまさしく地獄だ。それでも翌日仕事が待っているのだから、ふらふらな状態になってしまう。乳母が居るので交代でこのところ乗り切ってはいるが……。

 やっぱり狭いリビングに入ると、将貴が座布団を勧めてくれ、おとなしく佑太は座った。朝からずっと車の運転で疲れている。この訪問のために仕事のスケジュールをかなり詰めたのもある。そして最近始まった慶佑の夜泣きも。
 見ると、ローテーブルを挟んで向かい側に座っている将貴が、やれやれと言った感じで一人肩を竦めている。夜のドライブ云々で、何か千歳に異論があるのだろう。だが、美留を思って黙っている。そんな感じだった。
(兄さんは相変わらず、言葉を飲み込むな)
 佑太は千歳と美留のはしゃぐのを横目に、出された麦茶を飲んだ。
 将貴はいつも、佑太の前では緊張気味になる。ため息をつきたくなるが、ついてしまったら最後、この滞在が気まずいものになるので我慢だ。第一そうさせてしまっているのは自分だ。
 佑太は、このたった一人の兄を何よりも大切に思っている。
 妻の座を射止めた千歳よりもだ。

 佑太の一番最初の記憶は、自分を覗き込む幼い将貴の顔だ。多分、一歳になるかならないかの頃だろう。
 将貴の父親譲りの美貌はこの時すでに際立っていて、誰もが将貴をちやほやしていた。今でもそれは健在だ。日本人が望む異国の美の集大成だと佑太は思っている。
 誰もが父親の貴明にそっくりだと言った。
 しかし、当の将貴本人はそう言われるのをとても嫌がっていた。
 何故なら、将貴は父親の貴明のように強くなく、とても繊細だ。
 傷つきやすくてとても脆い。
 ──────そして、佑太を愛していない。