天使のマスカレイド番外編 佑太の煩悶 第02話
その日の夜は主に千歳と美留がわいわいと盛り上がって、将貴と佑太がそれに追従する形で楽しく過ごせた。最近ぐずってどうしようもなかった慶祐も始終ご機嫌で、それが佑太にはとても嬉しかった。
車で来たのだから疲れているだろうということで、お開きになったのはまだ早い夜の9時だった。一番先に美留、次に佑太がお風呂を使い、その後を千歳、将貴が使った。千歳は佑太以外には本当に楽しそうな顔を見せ、この関係を何よりも大切に思っているのが伺える。
洗濯物は、明日、洗濯機を使わせてもらうことになり、二人は千歳と将貴におやすみを言った。
クーラーが効いて涼しい部屋に入ると、美留が敷いておいた布団へしどけなく寝転がった。
「楽しかったわね。それにあの五目中華そば美味しかったわ。将貴さんって相変わらず料理が上手よね」
将貴の料理上手は昔からで、それゆえに大企業の社長になど相応しくないと馬鹿にされていたのを佑太は思い出す。徳島の旅館の厨房ではさぞかし重宝されたに違いない。だから本当は、父の貴明は将貴をその旅館で勤めさせたかったのだと思う。しかしそれは、将貴の評判を落としていくものだとわかっていたため、連れ戻すより他無かったのだ。家業から逃げるための就職など先方がいくら寛大に許してくれても、一企業の経営者としてそんな醜聞を許せるはずもない。
あの頃の家族は、ずっと不幸続きだったような気がする。
今では信じられないほどだ。
佐藤家は皆明るい平穏そのものの中に居る。
千歳が将貴に向ける笑顔と、それに笑顔で返す将貴が眩しかった。おそらく自分たちもそうに違いない。
美留と自分の間で玩具を振り回す慶祐の頭を、佑太はぽんぽんと優しく叩いた。
「品のない味が増えてたな」
美留は頬を膨らませた。
「またそんなことを言う!」
「料亭では出せたもんじゃないサラダだったな」
千歳が作った中華サラダは美味しかったが、将貴が作るような、凛とした美しい色合いではなかった。彼女は家庭料理の域を出るものは作れないのだろう。
「美味しければいいじゃないの。それに私が作ってってお願いしたのよ」
「そりゃまた酔狂な」
佑太が茶化すと、美留は呆れたよう佑太の鼻を摘んだ。
「貴方って本当に将貴さんが好きで仕方ないのね」
「冗談」
指が離れ、佑太の髪の毛をさらさらと梳かしていく。
「将貴さんに何かが混ざるのを極端に嫌がるその癖、いい加減に卒業したらどうなの?」
「…………」
慶祐の小さな手が、頬を突いていた佑太の人差し指をぎゅっと握った。動かすとそれが面白いのか、慶祐はきゃっきゃと笑った。そしてもう片方に握っている音がなる玩具をりんりんと鳴らす。
「千歳さんに失礼すぎるわ」
「向こうの態度もどうかと思うが。僕だけやたら多くよそったりしてきたし」
「馬鹿ね。もてなしてくれてるんじゃない。貴方がそういうのを好きだって私が言ったのよ」
「余計なことを」
美留なりにいろいろ気を使っているらしい。事前に言ってくれれば、それなりの対処をしたのに、どうしてこうもあの二人に関わるとややこしくなるのだろうか。
「明日は貴方の好きな、炊き込みご飯を作ってもらうことになってるから、ちゃんとしてよ」
「あのな、別にそんなことをしなくても、普通に食べてるだろ?」
「ずーっとエセ笑顔じゃないの! ばればれだって」
「それがあの二人の前では普通なんだ。今更どんな笑顔になれっていうんだ」
美留は起き上がり、慶祐を抱き上げた。あやすように腕を揺らし眠るように仕向けると、あっという間に慶祐は眠ってしまった。これも最近では珍しいことで、夫婦二人で驚いた。
「慶祐ちゃんにもわかるのよね。お父さんが皆が大好きで、大好きな人たちに会いに来てるんだってこと。お父さんの代わりにいろいろ頑張って疲れちゃったんだわ」
「おい、それはないだろ?」
1歳やそこらの子供に助けられるなど、とても情けない父親ではないか。
「普通の、演技がかってない笑顔。普通にしてりゃいいのよ。家にいるみたいに」
「今も至って普通だと思うがなあ」
佑太も起き上がり、自分の荷物を開けた。美留は慶祐を布団へ寝かしつけながら言った。
「会社ではとても立派だと言うのに、家庭では本当にどうしようもない人ね。ああそうそ、この家は禁煙だから、煙草は外で吸って頂戴。アパートの廊下は駄目よ、階段を降りてアパートの裏の小さな庭でね。はい、携帯灰皿。鍵は掛けて出て」
煙草を手にした佑太に、美留が携帯灰皿を押し付けてくる。
「蚊にさされたら痒いじゃないか」
言った瞬間に蚊よけスプレーを吹きかけられまくる。まったく、この佐藤美留という女は、見かけと内面がとても違う。千歳は美留の事を、たおやかで大人しくてかよわい人だと勝手に思い込んでいるようだが、事実は全く逆で千歳のほうがかなりかよわい。そのかよわいのが頑張っているのだから、あの騎士精神に満ち溢れている将貴が惚れてしまったのだ。
「お前、いつその本性を千歳さんに曝け出すんだ?」
「できる限り隠してるわ。夢を壊したくないもの」
美留なら一生できるだろうなと、佑太はおかしくなった。
「それでこそ、この佐藤佑太の妻だよ」
「当たり前でしょ」
外は、昼間の暑さはどこへやらで涼しかった。これなら窓を開けておけばクーラーも必要なかっただろう。
明日は雨になるだろうとTVの天気予報で言っていた。
錆びついたアパートの階段を音を立てないように降りて、階下の部屋のドアをコンコンと叩いて裏に回ると、美留の言っていた庭らしき場所へ出た。とりあえず草が刈ってありますと言わんばかりの小さな小さな庭だ。ライターで煙草に火をつけて、アパートの壁にもたれていると、かすかな足音がした。
現れたのは、美留同じ、長い黒髪を揺らした、とても綺麗な若い女だ。
「…………よくここがわかったわね」
囁いてきた女に、佑太も同じように返した。
「柳田が言ったんじゃない。あいつは血眼でお前を探してるぞ」
「千歳さんが教えたの? それともだんな様の方?」
「兄さんさ。ああ、兄さんはお前と僕との関係なんて知らない。ただ単に千歳さんの元同僚として、また、近所に住んでる連中の一人として、名前を教えてくれただけだ」
「そう」
月明かりが女を幻想的に魅せた。涼しい夜のせいもあるだろう。妖精のようなその美貌は健在らしい。千歳の同僚だったという彼女は、千歳と同じ派遣会社で働き、佐藤グループの本社のビルの清掃をしていた。
秘書の柳田が紹介した彼女は、佑太の仮初の恋の相手という、とんでもないものだった。
女は佑太から離れた場所に立って、それ以上は近寄ってこない。
「美留は気づいてる。でも黙ってるだろう」
「賢い奥様だものね。ただの掃除の派遣社員とは大違い」
女が自嘲する。
「ただではなかったさ。ただの女が……」
「そのへんに履いて捨てるほど居る、どうでもいい種類の女ですよ。お金が欲しくて欲しくて……。お金は良いわ、絶対に私を裏切らない」
本心ではないことを知っている佑太は、そんな言葉を口にする女が痛々しく思えた。
「だが金は、お前を労ってはくれないし、抱きしめても暖めてもくれない」
「必要ないわ。私は、ただ、気楽な毎日だけを望んでるの。旦那の稼ぎで一生働かなくてすむ専業主婦」
「馬鹿言うな。専業主婦なんて一番忙しいだろうが。そういうところが抜けてるんだよお前は! なんで千歳と結婚した将貴が僕の兄と知ってて、バレないと思ったのが不思議でならないよ」
佑太がヒソヒソ声で怒ると、女はかすかな笑い声をたてた。
「なんにもわかってないのね、相変わらず。でもいいわ、奥様が貴方を愛している限り、わからないままのほうが良いのよ」
「…………」
農道に光が指した。こちらの集落へ帰ってくる車のライトだ。鳴いていた虫たちは、車のそれほどうるさくもないエンジン音にも静まり返る。車は集落に入ってきて、アパートの前を通り過ぎていき、角を曲がってあっという間に消えていった。
しばらく黙っていた女が口を開いた。同時に虫たちが再び鳴き始める。
「貴方達にばれたから引っ越してやろうかと思ったけど、千歳さんの側に居たいから止めとく」
「懸命な判断だ。どうせその派手な外見ですぐに見つかってしまうさ、俺達には探す手間が省ける楽な逃走人だよ」
人を罪人のように言わないでと女は軽く睨んだ後、妙に晴れ晴れとした顔をした。
「明日から旅行なの。貴方達が居る一週間ほど、北陸へ行くわ」
「なんだってまた北陸なんだ?」
「女って、一人だと北へ行きたくなる生き物なのよ」
「男でも行きたいけど。一人旅は気をつけろよ」
くす、と女は笑った。
「私に乱暴できる男が居ると思うの? 空手三段よ?」
その腕っぷしの強さをよく佑太は知っている。兄の将貴並みに強いのだ。どうして自分の周りは見かけは儚いのに、喧嘩はえらく強い人間が多いのだろうか。そう思っている佑太も空手は段持ちだが、二人ほどではない。佑太が弱いのではなく、必要がないと判断して敢えて取らなかったのだ。
佑太は携帯煙草へ吸い殻を放り込み、閉じた。田んぼの向こうの山から吹いてくる風が涼しくて気持ちが良い。
「次はいつこちらへ来るの?」
「なんでそんなことを聞く?」
「罪悪感でいたたまれなくなるからよ。いつもその間だけ旅行に行くつもり」
美留はこの女を恨んでなどいないと、佑太は断言できる。だがそれを言うと女はより辛くなるだけだろうから、口にはしない。
「よくそんな金があるな。報酬は受け取らなかったろ?」
「田舎の一人暮らしだもの。借金もないからお金を貯めるのが趣味で、お金の心配はないの」
女の部屋は、確かに必要最小限のものしか無かった。
「倹約家の妻はいいものだ。帰ってくる日は兄さんに言っておくから、知りたければ千歳と引っ付いてるんだな」
「そうね。心配だし」
「心配? 千歳さんは頑丈で健康そのものだし、心配の要素なんて無いぞ?」
今日も元気いっぱいに、佑太に悪態をついてきたぐらいだ。
「変なヤクザに目をつけられてるじゃない」
「城崎はじめか? あいつまだ千歳さんの周りをうろちょろしてるのか?」
「直接千歳さんに関わることはないわ。あいつ、意外と臆病なのよ、私とおんなじでね」
「さすが兄妹」
女の美貌は、兄のはじめと瓜二つだ。女は顔を思いっきり顰めた。
「よしてよ、あんな男の妹だったおかげでろくな目に遭ってないんだから。千歳さんが将貴さんと結ばれて本当に良かったわ。それは貴方にとても感謝してるの。あいつ、やたら綺麗なあの洋館にずっと住むんですって。ばっかみたい」
「へえ……」
ずいぶんなロマンチストだなと、変なところで佑太は感心した。
それに、と女は付け加えた。
「心配なのは、あいつのことじゃないの。千歳さん、多分妊娠してる」
「は?」
ひそひそ声で話をしていたのに、思わず佑太は大声を出してしまった。
「本人も気づいてないみたいね。ま、そのうちわかると思うわ。じゃあね」
遠ざかる女を佑太は呼び止めた。
「お前も来年の今頃は妊娠してるぞ」
「冗談は止めてよ」
女の足音が遠ざかっていき、遠くでアパートのドアが閉まる音がした。
佑太が部屋に戻ると、美留はまだ起きていて、眠っている慶祐を枕元の暗い照明で見つめていた。
「外のほうが涼しそうね?」
「ああ」
わかっていて外にやったなと佑太は思いながら、自分の布団に寝転んだ。
「柳田さん、こっちには来ないのかしら?」
「東北に行ってるよ」
「東北? ……ふうん、そうなの? ずいぶん長い休暇を取るみたいだけど、許可する貴方も貴方よね」
「普段お世話になっている秘書へ、特別な報酬だよ。あいつが居なかったら俺達は本当に駄目になっていたかもしれない」
「そうね」
慶祐はよく眠っている。今夜は久しぶりに夜泣きに煩わされず、ゆっくり眠れそうだった。
千歳の妊娠については言う必要はないだろう。本人達が知って連絡してくれる方が良い。
来年は今年よりも賑やかな年になりそうだ。