天の園 地の楽園 第1部 第04話

 翌日、なんだか息苦しくて恵美は目覚めた。

 目を開けると、貴明の顔が超至近距離にあって自分にキスしており、恵美は貴明の顔を思い切り突き飛ばして起き上がった。

「なにすんのよ朝っぱらからーっ!」

「やっぱり朝の目覚めは、恋人のキスだろう」

 にこにこしている貴明に、チョコレートの箱を思い切り投げつけたが、ひょいと除けられて当たらない。

「誰が恋人よ! 寝ぼけないで!」

「もっとキスしよう?」

「するわけないでしょっ! 変態!」

 腕を掴もうとする貴明の手を振り払って、キッチンまで逃げ、料理をしていた房枝に詰め寄った。

「お母さん、もう佐藤を家に呼ぶの止めて!」

「あらなんで? たかちゃんとってもお手伝いしてくれて助かるのに」

「あいつ、私にキスするのよ! もう三回されてるんだから!!!」

 房枝はあらあらと笑った。

「たかちゃんはアメリカ帰りだから挨拶みたいなもんでしょ。そんなに怒らないでおあげなさいな」

(……お母さん……完全にだまされてる)

 いくらアメリカ帰りで外見が日本人に見えなくても、貴明の中身は日本人なのだ。キスなんてそうそうしない。

 やがて貴明が降りてきて房枝の手伝いを始めた。恵美は自分の部屋に戻って着替えながら、なるべく貴明に近づかないでおこうと思った。

 

 朝食後、自分の部屋に篭っていると、スマートフォンが鳴った。

 正人からのメールだ。

『佐藤は手が早そうだから気をつけろ』

「~~~~~っ!」

 恵美はスマートフォンを放り投げた。

(言うのが遅い! キスどころか胸触られたってば!)

 悶々としているとピアノの音がした。テレビから流れているのではない。音が大きすぎる上妙に臨場感がある。それに聞こえてくるのはピアノの置いてある応接間からだった。

(凄く上手……)

 両親はピアノが弾けない。だとしたら今ピアノを使っているのは貴明だ。

 籠城するつもりだった恵美はあっさりと鍵を開けて、階下へ降りた。果たして応接間でピアノを弾いていたのは貴明だった。両親の姿はない。居間にもいなかったので出かけたのだろう。

(もう、年頃の男女おいて出て行く普通?)

 恵美は、ピアノを弾いている貴明の傍に近寄った。

「びっくりした。佐藤はピアノ弾けたんだ」

 顔だけでちらりと貴明は振り向いた。

「やっと降りてきた。房枝さんたちお隣に行ったよ。なんかよくわかんないんだけど、毎年恒例のパーティーするんだって」

「あんたは誘われなかったの?」

 貴明は右目だけ瞑った。両手は滑る様に鍵盤を叩いていて、ピアノが喜んでいる様に見える。

「だって、恵美と一緒に居たほうが楽しいもん」

 あっぴろげに好意を現すの貴明に、恵美は面食らった。

(話をそらそう)

「……ピアノ上手ね」

「コンクールで入賞した事あるよ」

『愛の夢』と言われている曲を、貴明は弾いている。

「でも……、会社を継がなきゃいけないから止めた」

「もったいないわね、こんなに弾けるのに」

「ただの趣味だから別にいいよ。お前は?」

「私は下手だから止めたの」

「ふーん」

 貴明は弾くのを止め、ピアノの蓋を閉じた。

「外行こう。家の中にいるとムラムラする」

「……むらむら?」

 恵美は後ずさった。貴明は可笑しそうに笑ってうなずいた。

「室内に好きな女がいると、我慢できなくなる」

「すすす……好きって」

「そのまんまの意味、ぼーっとしてるとキスするよ。早く着替えてこい」

 恵美は慌てて着替えに部屋に戻った。

 恵美の家は繁華街に近く、二人は歩いて行く事にした。

「もうちょっと、可愛い服無いの?」

「いいじゃない動きやすいんだし」

 貴明が洗練された格好をしているのに、恵美が着ているのはタートルネックの白いセーターとジーンズで、長い髪がなかったら男のような格好だった。確かに釣り合わなくておかしい。

 道ゆく人は皆、美少年の貴明に振り返る。

「わ! もの凄い美少年!」

「あんな子、存在したんだ!」

「いいなああの娘、うらやましー」

 賛美の声なのに貴明は不機嫌な顔だ。自分は見せ物じゃないと思っているのが、ありありと分かる。

「やっぱり出て来ない方が良かったんじゃない?」

「だって健全にいくには外に出るしかないんだぞ。取り敢えずお前の服装をなんとかしたいから、……んー……。あそこに入ろう」

 貴明が指差したところは、この辺の女の子がよく入る人気のショップだった。

「え、嫌よ。皆いるもん」

「そうそう会わないよ。お前の服見立ててやるからさ。チョコレートケーキのお礼に買ってあげる」

「ハーレクインのお決まりね。金持ちが女の気を引く手だわ」

「ハーレ? 何それ? 大体、僕が僕のお金使って何が悪いの?」

「親のお金じゃないの?」

「冗談、秘書のバイトしてるよ。時々だけどね」

 ちゃんと働いてるのかと恵美は感心した。

 しかし秘書のバイトとは……。

 恵美は貴明の横顔を見つめた。大人の世界にしょっちゅう入っているから、やたらとませているのだろうか。

 店内はやはり女の子でごったがえしていた。貴明は帽子を深くかぶって派手な金髪を隠し、女の子の服を物色し出した。

「お前はチビだから、やっぱりこれだなあ」

「げ、超ミニスカート。やあよそんなの!」

「そんな色気ないジーンズボトム止めろって、こっちも方も着てみなよ」

 貴明が選んでくるのはやたらとフェミニンなものばかりだ。似合わないと思いながら試しに着てみると、意外な事になかなか似合っていた。しかし、足がスースーするのが落ち着かない。

「うん似合う。それにしよう!」

「でもなんかこれ高いんじゃないの……?」

「いーのいーの」

 服を脱いだ恵美が試着した服の金額を見ようとする前に、貴明が取り上げて会計を済まして戻ってきて、着るように促してきた。

「本当にいいの?」

「いいのいいの」

試着室から恥ずかしそうに出た恵美に、貴明が嬉しそうに笑って抱きついてきた。それだけで恵美はもう顔は真っ赤だ。

「うん、恵美が一番綺麗だね。ついでにこの帽子も買っておいてからかぶって」

 美男子の貴明と居ると周囲の注目を浴びてしまい、恵美は身の置きどころがない。

 帽子をかぶって外に出ると常になく胸がドキドキした。考えてみたら恵美はデートというものをした事が無かったない。休日の街中はカップルで溢れている。

「ね、ねえ、私デートってしたことないんだけど、何したらいいのかな?」

 貴明は、うーんと首を傾げた。

「……健全コースだと、今はお昼だから食事、その次はその辺をショッピングか映画かボーリングかゲームセンターで、夕方にご飯食べて終了だよ」

「ふーん他に何か面白いコースあるの?」

「大人コース。食事の後観劇、ホテルのレストランで食事の後ベッドイン」

「……健全コースでいいわ」

「他にもマンションコースがあるけど」

「試しに聞かせて」

 貴明は茶色の目をぱちぱちさせた。

「DVDとかCDをレンタル。料理をしながらCDを聞いて、料理を食べて、そのあとDVDを見て、お菓子を食べたりしてまったり過ごす」

「あ、それがいいなあ。マンションコースでいいわ」

「そのあとベッドインになるかも」

「……やめとく」

 室内で二人きりになるのは危険だったと、恵美は思いだした。でもわざわざ説明してくる貴明は素直でいい。恵美はすこし貴明が好きになった。

「恵美はなんか可愛いんだよな」

「あんたに言われてもね……」

 ふと右手が温かくなったと思ったら貴明が手を繋いでいた。お店で抱きついてきたり、いちいちスキンシップが過剰だ。恥ずかしいったらない。

「お。あの娘可愛いな」

「でも男がいるぜ」

「つまんねーの」

 通り過ぎた大学生が恵美を見て言い、貴明がほらねと微笑む。

「あそこでクレープ売ってる。恵美食べる?」

「となりのうどん屋がいいなあ。おいしそう」

 貴明が大笑いした。

「何がそんなにおかしいのよ?」

「普通女の子がデートの時にうどんなんか食べるかよ~。うけるよお前、最高!」

「じゃあうどん食べた後、クレープでいいわよ」

「余程うどんが好きなんだなあ」

 そう言いながらも貴明はうどん屋へ入った。確かに店内は中年層が多く、恵美達の様な高校生はいなかった。

 貴明と恵美が畳の席に座って話しているところへ、離れた場所にいた、スーツの中高年の男達が三人近寄ってきた。愛想笑いを浮かべる彼らを恵美は気持ち悪く感じ、貴明の目は別人のように深く凍りついた。そんな目を見たのは初めてだ。

「貴明様、このような所でお会いできるとは」

「休みの日に何をしていようが、私の勝手でしょう」

「相変わらずですな」

 眼鏡の男が恵美を見た。全身を舐めるような、ねっとりした視線が気持ち悪い。

「圭吾様と同じで、女性とご一緒とは妬けますな。素直になさればよろしいのに」

「貴明様もすみにおけませんな、ははは」

 貴明は、深くため息をついた。

「それで何の用ですか?」

「いいえ。どうぞ、お楽しみください。私達はこれで……」

 三人の男達は慇懃に頭を下げて店から出ていった。年少者を馬鹿にしているとしか思えない。本当に嫌な感じだ。

「あのおじさん達、何?」

「あいつらは親父の周辺で媚び売ってるハイエナだよ。鼻つまみ者だけど適当に飼いならされてるって感じの奴ら」

「…………」

 大人の男……、いや、いかにも大企業の御曹司の顔だ。普通の高校生はこんな大人びた表情はしない。

 見計らって従業員がうどんを運んできた。貴明は礼を言い、箸を恵美に手渡してくれた。

「ま、いいだろ? 会社の話なんか面白くない。早く食べなよ、伸びちゃうよ」

 うどんはとても美味しかったが、貴明の家の事情がなんとなく気にかかる恵美だった。

 店の外に出た貴明が深呼吸するのを横目で見ながら、この寒いのによくそんな事できるなと恵美は白い息を吐いた。貴明はうどんを食べたばかりなのに、早速クレープを買ってきた。

「佐藤、いくら私でも今は無理よ」

「二人で食べたらいいじゃん」

「二人?」

 仕方が無いので差し出されたクレープを恵美はかじった。お腹が一杯でこれ以上は無理だと言うと、貴明はがぶがぶ全部食べてしまった。こんなふうに男の子と一つのものを食べ合うのは初めてだ。正人とでもしたことがない。

「あ、恵美、クリームついてる」

 唇に貴明の舌の感触がする。びっくりして恵美は貴明を押しのけた。

「なにすんの!」

「おいしい」

 貴明が無邪気に微笑んだ。多分、こちらのほうが素の貴明なのだろうが、先程のショップでの抱擁といい、いちいち心臓に悪い。

 再び手を繋いで歩いていると、貴明が言った。

「恵美って、すましてないし、素直だし、今時天然記念物かもな」

「なあにそれ?」

「僕みたいにツンデレじゃないじゃん。反抗的でもないし、世話好きだし」

 いつも間にか恵美の家の近くの公園に来ていた。雪がまた降りはじめ、寒いせいか公園には人影はない。恵美はその雪をぼんやり眺めて言った。

「私、十歳の頃はぐれてたわよ。大人なんか皆敵だったわ」

 貴明は本当か? 信じられないと言う顔で恵美を見つめた。恵美はこっちよと言って貴明の手を引き、大きな木の下まで連れてきた。とても高い巨木で樹齢百年はありそうだ。

「何? この木」

「……辛い事があるとこの木に凭れるの。親に叱られた時はいつもここに来てたわ。そして必ず正人が迎えにきてくれるの」

「正人が?」

「うん」

 恵美が木の幹に凭れたので貴明も同じ様に凭れた。恵美の顔も手も寒さのせいで少し色づいていて、それがたまらなく彼女を可憐に見せた。恵美の黒い瞳は舞い散る雪を映している。

「正人はいつだって私の味方で、私を庇ってくれた。だからごめんね……佐藤の気持ちには応えられないの」

「そんなの僕には関係ない」

「佐藤」

 貴明が両手を恵美の顔の横に置いたため、恵美は貴明と木の幹に挟まれて動けなくなった。茶色の瞳に射すくめられて恵美は怯えた様に貴明を見つめ返す。

「僕は恵美が好きだ」

「でも私は……」

 少し冷たい貴明の唇が恵美の唇に重なった。なかなか貴明が唇を離してくれないので息苦しくなった恵美が呼吸をしようとして、昨日と同様に少し口を開けた途端、貴明の熱い舌が口腔内に滑り込んできた。

「んんっ……」

 貴明に強く抱きしめられた。熱く、甘い、不思議な感覚。恵美は立っていられなくなり膝ががくがくする。

「恵美が好きだ……、好きだ」

 耳元で熱に浮かされた様に貴明に囁かれ、恵美はその甘さにうっとりしながらもやはり警戒する。

(佐藤は危険だ)

 貴明は甘い毒で自分を蕩かし、甘い糸で自分を縛ってがんじがらめにする。わかっていながらも強く抱きしめられて、恵美は動けなかった。貴明の胸の中にいる恵美は、自分を見つめる妖艶な危険を孕んだ光に気づいていない……。

 雪が激しく降り出していた。

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