天の園 地の楽園 第1部 第05話
「お前、どうかした?」
正人がコーヒーのマグカップをテーブルの上に置き、雑誌を読んでいる恵美の顔を覗きこんだ。
「別になにもないわよ」
「……だけどさあ、なんかぼけーっとしてるぜ?」
「…………」
恵美はかじりかけのクッキーを皿に戻して、再び読んでいた雑誌に目を落とした。
貴明と初めてデートした日から、もう一週間経っていた。あの熱烈な告白に恵美は戸惑いを隠せない。登校日が卒業式だけという現実がとてもありがたいと思っている。
「おふくろさん心配してたぞ。お前最近友達んち泊まり歩いてるらしいじゃないか。そりゃお前は大学は推薦で合格してるからいいけど、出歩き過ぎだ。なんで家に帰らないんだよ? 俺のおふくろはお前が泊まってくれて大喜びだけどさ……」
家にいると貴明が来るから家にいたくないのだ。どこの大学かは知らないが貴明も推薦で合格しているらしい、毎日のように恵美をデートにさそうメールや電話がひっきりなしに来る。逢いたくないから全て無視していたらそのうち貴明は家に来る様になってしまった。今も来ているらしい。
「……佐藤が来るから嫌なの」
「佐藤が? ああ、あいつ、お前が好きだからな」
そっけない正人の態度に恵美は胸に感じたくない痛みを感じた。恵美はずっと正人に恋している。ずっと小さな時から正人のお嫁さんになると決めていたのだ。
「……私は佐藤の事、何とも思ってないもん」
「そう言わないでつきあってやれば?」
「私が好きなのは別の人なの!」
正人の超鈍感! と恵美は心の中で毒づいた。正人が興味あるのは昔から車とサッカーで、恵美の想いに気づく事はない。
貴明程ではないが、正人も人並み以上に整った男らしい顔立ちをしている。貴明を苛めていた時は校内の女生徒の人気はだだ下がりだったが、仲直りしている今では再び人気も巻き返しているようだ。この部屋の机の引き出しの中に何通かラブレターらしきものがはいっているのを、恵美は知っている。律儀な正人はいちいち返信しているようで、その律儀さを自分にも向けて欲しいと思う。
(佐藤に辛く当たっていたのは、私のことが好きだからだと思っちゃいけないのかな……)
「……正人は、好きな人いないの?」
「いるよ」
即答だったので、恵美は心臓が一気に跳ね上がった。期待に胸が膨らむ。
「だ、誰?」
「秘密。言うわけないだろ~」
へらへら笑う正人に、それは私じゃないんだと自分のうぬぼれが恥ずかしくなった。
(そうよね私なんて、いらない子だったんだから)
つらい過去を思い出して唇を噛み締めた。そんな恵美を正人はとても優しい目で見つめる。
「なんて顔してるんだよ。お前の事は大事な妹だと思ってるよ。幸せになって欲しいって思ってる」
(妹……)
ぽっかりと大きな穴が心に開いた。なんて残酷な優しさだ。そんな優しさなどいらない。
「あ、……そ」
「だからさ、佐藤とつきあってみろよ。あいつ、別に悪い奴じゃないじゃん」
「…………」
「恵美?」
「……い」
「なんだよ?」
恵美は立ち上がり、訝し気な顔をしている正人に叫んだ。
「私、正人の妹なんかじゃない!」
呆気にとられている正人の部屋を飛び出した恵美は、そこに派手やかなものにぶつかった。
「あ……」
「こんにちは恵美。やっと逢えた」
そのまま通り抜けようとした恵美の手を、貴明が掴んだ。
車は海岸沿いの道を走っている。ドライブは快適で、車もクッションが効いていてとても乗り心地がいい。免許取り立てとは思えないほど貴明は安定した運転をしていた。雪が降っているせいなのか、驚く程対向車に出会わない。
『お前の事は大事な妹だと思ってる』
女としては見られいないのだとわかり、ショックだった。しかも他に好きな人がいるのだという。失恋は確定だった。小さくため息をついた恵美に貴明が話しかけてきた。
「お前、なんで僕がメールや電話してるのに無視するわけ?」
「メールも電話も嫌いだもん」
「だからって無視はないだろ? すごく傷つく」
「あんたでも傷つくなんて事があるんだ。悪魔みたいに性格が悪いくせに」
信号が赤になったので貴明はブレーキを静かにかけた。
「正人にふられたからって八つ当たりするなよ。性格が悪いのはお前だろ?」
失恋を貴明に指摘されて、恵美は恥ずかしくなった。そして立ち聞きしていた貴明に腹が立った。
「……帰る」
ドアを開けようとしたが、ロックされていて開かない。
「開けてよ。誘拐する気?」
「バカ、今ここで降りてどーやって帰るんだよ? バス停も店も人家も無いとこなんだぞ」
「なんでこんなとこ来たのよ。もう帰る!」
「もうすぐ着くよ」
「もうすぐってあと何分よ?」
車はいつのまにか海沿いからの道から山の道だ。覆いかぶさってくる木々に恵美はだんだん怖くなってきた。
「私、あんたと心中する気なんて無いわよ」
「僕に早死にする予定は無い」
やがて車は一軒の木造のペンションの前に止まった……。
『くれは』という名前の小さなペンションは、女性向けのカントリー風の建物だった。貴明がドア開けて入ると、中からそのペンションを経営しているという若い夫婦が出てきた。
「ようこそお越し下さいました貴明様。本日は女性連れと聞いておりましたので、楽しみにしていましたよ」
夫婦は、温かい笑顔を恵美に向けてきた。
「えっと……?」
困っている恵美に、貴明が天使の様に微笑んだ。
「今日はここに泊まるんだよ。大丈夫、房枝さんの了解はとってあるから。部屋も別」
「で、でも私……」
貴明は夫婦に恵美を紹介した。
「小川恵美さん、僕の同級生。恵美、こちらは仲野圭一さんと奥さんのくれはさん」
「ようこそ小川様、ごゆっくりおくつろぎ下さいね」
仲野夫妻にに微笑まれ、恵美は戸惑う。その両肩をガッシと掴んで貴明が言った。
「あ、くれはさん、お腹すいたからご飯よろしくね」
「用意はすぐできます。食堂へどうぞ」
「さあ恵美……行くよ」
「…………」
恵美は早く帰りたいと思いながらも、仲野夫妻の笑顔や貴明の両手に逆らえなかった。
料理はおしゃれな創作料理でとてもおいしかった。貴明はこの夫婦と旧知の仲らしくとても親しげだ。最初は三人だけが共通の話題で盛り上がっているのに疎外感を感じていたのだが、そうではなかった。それは何日も前の貴明が恵美の家に訪れた時の再現だった。恵美は失恋に触れられたくない、だけど、一人でいるのは寂しい。そんな恵美を気遣っている三人の優しさが、ありありと伝わって来る。恵美はその心遣いに心が温かくなって泣けそうになり、気づかれたくなくてわざとあくびをした。
「あら、眠くなった?」
くれはが恵美のあくびに気づいた。
「すみません、ちょっと疲れちゃって。横になりたいんですけど……」
貴明が椅子から立ち上がった。
「僕が案内する。部屋は3号室だったよね?」
「ええ、どうぞ、ごゆっくり」
ペンション全体が夫婦の手作りのようで、可愛い人形や、雑貨が至るところにある。心地よさを感じながら恵美は貴明に続いて二階へあがった。
「はい、ここだよ」
3とパッチワークの板が下がっているドアを貴明が開けた。部屋の中からラベンダーの涼やかな香りがする。恵美はその匂いを嗅ぎながら部屋に入ってうっとりとため息をついた。
「いい香りね……」
「うん」
部屋の隅に、童話に出てくるようなこじんまりとした木枠のベッドがあり、キルトの上掛けがふんわりと被せてあった。反対の隅には同じく木製のテーブルがあり、窓には白いレースのカーテンが下がっている。壁にはドライフラワーや可愛いアートが飾られていて、妙に楽しい気分にさせてくれた。
「可愛い部屋ね」
「ここ大人気でね。予約待ち状態なんだよ」
「よくとれたわね」
「くれはさんは僕の実家でメイドしてたんだ。旦那さんは厨房にいたんだけど、まあ、日本に帰ってきた時からよくしてくれててね。昨年の10月にいきなり結婚してペンション開くって聞いた時はびっくりしたよ」
「じゃあ、オープンしたてなんだ。それなのに大人気だなんてすごいわね」
「ま……ね」
貴明が、パッチワークのベッドカバーがかかっているベッドに腰掛けた。
アメリカカジュアルと言うのだろうか? あれほど恵美にジーパンは色気が無いとか言いながら、貴明は細身の黒いジーパンに、太めの灰色の毛糸で編まれているニット、光沢があるカーキー色のパーカーという格好をしていた。胸にはシルバーのネックレスをしている。天使のような容貌の貴明だったが不思議とそれはよく似合っていた。
「あんたさ、私にジーンズ駄目って言っておいて、なんで今日はジーンズなの?」
「恵美が好きそうだからだよ」
「は?」
「……お前、正人と同じで鈍感だな。好きな女が好きな格好だから着てるんだよ。今日もお前ジーパンだし、お揃いにしたかったんだ」
顔を赤くした恵美は、ぱっと貴明から目をそらした。まさか貴明にそんな感性があるとは思ってはいなかった。視線を逸らした先の窓がかたかたと音をたてた。雪が吹雪いてきたらしく窓は真っ白で何も見えない。
「だけど、恵美は正人の格好を真似してただけなんだよな」
「…………」
「馬鹿みたいだな。妹としかあいつは思ってないのにさ」
「なによそれ!」
いくらなんでも恋心を馬鹿と言われたら我慢できない。しかし貴明はさらに言った。
「何回でも言ってやるよ、あいつは恵美を妹の様にしか思ってないんだ」
「最低っ!」
恵美は何かを貴明にぶつけようとしたが、ペンションの備品を壊すわけにはいかないので、その衝動をこらえた。その隙に貴明に手首を掴まれて抱き寄せられてしまう。
「あ……」
「……正人はずっと恵美の事が好きなんだと思ってたんだ。だけど、あいつ昨日言いやがったんだ。『恵美の事は確かに好きだけど、それは妹としてだけだ……って』」
「なによっ! 人の失恋ほじくりかえしてうれしいわけ?」
「そうじゃないよ。そうじゃない」
「だったら何? 馬鹿にしてるわけ?」
力強い貴明の腕を振りほどこうとして、恵美はもがいた。けれども体格の差は大きくて、さらに強く抱きしめられただけだった。
「もう……正人の事は忘れて、僕を好きになれよ」
今にも泣きそうな切ない声が、恵美の耳にいやに響いた。
その夜、くれはと恵美はリースを二人で作った。恵美は手先が器用な方なのでかなり楽しく、時間が過ぎるのも忘れるほど夢中になれた。貴明は夕食の後自分の部屋に行ってしまい出て来なかった。
完成したリースの横に、くれはが珈琲とお菓子を出してくれた。
「だけど驚きましたわ、貴明様が恋人連れていらっしゃるなんて」
「違います。私は恋人なんかじゃありません」
慌てて恵美は否定したが、顔が赤くなっていくのがわかる。くれはが楽しそうに笑った。
「まあま、そう照れなくたって。貴明様はあの通りの容貌でいらっしゃるから、お屋敷でも大人気なんですよ。私うれしくてね、氷みたいな貴明様がやっと恋をなさったんだなって」
「ですから違います!」
否定してもくれはは信じてくれない。
そのうち主人が浮気を疑うのではと思うぐらい、目をきらきらさせながら貴明について聞かせてくれた。
アメリカ暮らしで英語が堪能な事、将来が有望視されていて縁談が降る様に来る事、会社内でいかに期待されているか等……。
くれはの話を聞くにつれ、恵美はますます貴明とは恋人同士になるなどともってのほかだと思う様になっていったが、くれはは全く気づいていなかった。
吹雪になり、窓にざあっと音をたてて雪がぶつかる音がする。閉め切られているはずなのにどこからか寒風が入ってきていた。
恵美は冬があまり好きではない。どちらかというと物悲しさばかりが先立つ。
それは出生と関係がある。
実は、恵美は両親と血が繋がっていない。あの公園の木の下で捨てられていた赤ん坊だったのだ……。
振り向いてくれない正人に、「自分はいらない子だったんだから」と恵美が思ったのにはここに理由がある。
どんな血が自分に混ざっているのだろうかと思うと、ぞっとするのだ。
冬の風の悲鳴を聞くと、記憶のどこかでその時を思い出しそうな錯覚にとらわれる。覚えているわけが無いのに身体のどこかが覚えている。捨てられた日の身が凍り付くような寒さを、孤独を、寂しさを。
義理の両親の愛情に包まれて普段は忘れているが、冬はそれを幻覚だと言いに毎年巡ってくる。お前は本来愛されるような子供ではないのだ……生きる価値のない子供だったのだと。
「正人が選んでくれなくても……、無理ないよね」
階段の踊り場で一人ごちた時、貴明がちょうど降りて来た。
「また正人? お前もいい加減しつこいね」
「……別に。もう寝る時間よ、おやすみ」
「待てよ」
「もう眠いの」
「昼に散々寝ただろ? ちょっとぐらい僕に付き合え」
恵美は強引に貴明の部屋に引きずり込まれてしまった。
貴明はなにか仕事をしていたのか、机の上に書類が置かれていて、ノートパソコンもあった。部屋の中は暖房が効いていて暖かい。
「仕事してたの?」
「そ。そろそろ本格的にって言われてね。まあ面白いけど」
「大変ね」
オレンジソーダのグラスを貴明から受け取り、恵美は一口だけ飲んだ。なんとなく手持ち無沙汰でストローで浮んでいる氷をかき回していると、貴明が明らかにお酒とわかるボトルを持ち出してきて、グラスに注いだ。
「お酒飲んでるの?」
「ああ、付き合いとかで慣らす必要があるんだ」
間接照明にやわらかく照らされている貴明の繊細な美しさの中に、荒々しい男の影が一瞬垣間見え、恵美の胸は妖しく騒いだ。少年を抜け出て貴明は大人になろうとしている時期なのだった。
(いけない、佐藤にドキドキしちゃだめだって)
恵美は熱く火照ってしまった自分を冷ます為に、冷たいオレンジソーダを飲んだ。甘くて爽やかな酸味が喉に心地いい。しかし、冷たいソーダを飲んでも火照りは冷めるどころかひどくなる一方だった。
貴明が恵美の顔を覗きこんだ。
「恵美ってば大丈夫? なんか顔赤いけど」
「んー……。眠いのかもしれないわ。おっかしいなあ」
「カクテルは恵美には早かったか」
やっと恵美は合点がいった。自分はお酒に弱い。フルーツケーキに入っている洋酒でも酔っぱらってしまうくらいなのだ。
「まだ二十歳じゃないんだから。飲まさないでよ」
「ごめんごめん、大丈夫かなと思ったんだよ」
ぜんぜん申し訳なさそうに言う貴明に、わざとやったんではなかろうかと心に疑念が芽生えた。しかし、火照ってぼんやりしている頭では何も考えられそうも無い。
「も……、部屋に帰って寝る。じゃあね」
これ以上ここに居ると家族でもない異性の部屋で寝てしまう。とんでもないことだ。
早く出たいという意思に反して身体はふらつき、貴明に抱きとめられてしまう。
「恵美……」
「……だめ、離して」
「嫌だ」
そのまま貴明とベッドに重なり合う様に倒れてしまった。頭はぼんやりとしているが、本能的に恵美の中の女が警鐘を掻き鳴らす。だが酒のせいで力が入らない。
貴明の綺麗な顔が近づいて口付けられる。
なんの酒を飲んでいたのか知らないが、甘すぎるキスだった。
「恵美、愛してる」
「……だから駄目だって……」
顔を背けた恵美の頬に、また口づけられる。
「そんなこと言わないで。本当に恵美に夢中なんだ」
「卒業前だから……盛り上がってるだけよ……」
恵美は眠くて仕方が無くなってきた。それに感づいた貴明が恵美のセーターを押し上げて下着の中に侵入し、胸の先端を摘んだ。つきんとした甘い痛みが広がって、眠気が少しだけ消えた。
「いや!……」
「卒業したって僕は恵美が好きだよ。そんな中途半端な気持ちじゃないんだ。ねえ、聞いてる? 僕は諦めないから。恵美が僕に振り向くまで何度でも迫るよ」
蕩けるように甘い声で貴明が囁く。貴明の手がセーターから手を抜かれ、背後から抱きしめられて耳に口付けられた。甘さと熱さと酒独特の浮遊感で恵美はいけないと思いながらも、流されていく……。
「……私は遊びの恋なんか嫌なの」
「遊びなんかじゃない」
「だって、なんで美人でもない私に言いよるわけ? 私なんかを好きだなんておかしいよ」
「馬鹿だな。恵美はその辺の女よりずっと魅力的なんだ。だから僕は恵美が欲しいんだよ。ねえ恵美 頼むから僕と付き合うと言って? 彼女になるって言って?」
熱心に貴明に口説かれて、身体をすくめようとしたが貴明の腕がそうさせてはくれない。貴明の熱が恵美の心を容赦なく揺さぶって来る。
「恵美、僕が欲しいと言って……」
止めて。それ以上私の中に入って来ないで。
恵美は強く思った。
貴明の愛情は強くて魅惑的で、自分を狂わせる。正人の様に安心できる愛情ではないのだ。巻き込まれたら最後、自分の運命が嵐に巻き込まれていく予感がする。
「何度言っても駄目、私は―――」
「何度でも言うよ。僕は恵美の恋人なんだ。必ず僕に振り向かせてみせる……」
仰向けにされた恵美はそのまま貴明にのしかかられた。薄茶色の瞳はじっと恵美を見ている。
「そんな時は来ないわ」
「いいや来るよ。だって恵美はもう僕の事が好きになり始めているんだから」
恵美は顔を横に伏せた。貴明がその恵美を見て微笑み、恵美の首筋にキスをする。
その熱い熱に、貴明に囚われた心をはっきり悟った。