天の園 地の楽園 第1部 第06話

 次の日、恵美は貴明の腕の中で目覚めた。恵美がもぞもぞと動いたので貴明が目覚め、腕から抜け出ようとしていていた恵美は引き戻されてしまった。

「まだ早いよ」

「私は毎日六時に起床なの。それに雪もやんでるから散歩したい」

「じゃああと三十分こうしていたい」

 背後から貴明の匂いに包まれて、朝から甘酸っぱい思いで胸がときめいてしまう。

「恵美、いい匂いがする」

「……シャンプーの匂いでしょ」

「違うよ、恵美からいつも甘い匂いがするんだ。それが今強い……」

「お菓子作ったりしてるからかな」

 穏やかだが熱い貴明の吐息を首筋に感じて、お腹の奥がきゅんとした。

「違う……多分……、恵美自身の匂いだ」

 貴明にそのままその部分を強く吸われた。ちくっとした痛みが走ってその痛みはすぐに消えたが、恵美は起き上がってその部分を押さえ、貴明を睨んだ。

「何したの?」

「キスしただけ」

 のそりと貴明も起き上がり、恵美に顔を近づけてにっこり笑った。

(……凄く、綺麗)

 貴明の澄んだ茶色の双眸に自分が映っている。黄金色の長い睫毛を瞬かせ、貴明がうれしそうに微笑んだ。

「僕の事、また好きになった?」

「え? いえ、別……に」

 恵美は後ろに下がり過ぎてベッドから落ちそうになり、貴明に手首を引っ張られた。

「意地っ張り」

 そのまま貴明が調子に乗って、服の上から胸のふくらみを触ってきたので、恵美は思い切りその手を引っ叩いた。引っ叩かれた貴明は痛そうに手を引っ込め、ふうふうとしながら文句を言った。

「いったいなあ」

「っさい。調子に乗らないでよ。私は正人以外は好きになんかならないんだからね」

「ふうん」

「な、何よ?」

 にやにやと意地の悪い顔をした貴明を見て、恵美は少したじたじになった。でも貴明はそれ以上は何も言わずコートを羽織り、朝の散歩に行こうよと言ったのだった。

 ペンションを出た二人を冷たい空気が出迎えた。雪は二人の足のくるぶしぐらいまで積もっている。ペンションの周りは森が広がっており、二人が雪を踏む音以外は時々冬鳥の鳴き声が響くぐらいで、しんと静まり返っていた。

「やっぱり寒いね」

 貴明が恵美の手を自分のパーカーのポケットに入れた。冷たかった指先は貴明の温かな指先とポケットで温まり、恵美は鼓動が強くなるのを感じた。

(そう言えば正人はこんなふうに私に触れる事はなかった……)

 寂しく恵美は思い出し、静かに口元だけで微笑んだ。

(あーあ……告白したら良かった。でも、妹としてしか見てないから玉砕しただけだったかな。隣同士だから気まずくて嫌になったかも)

 ちらりと隣で歩いている貴明を見上げた。相変わらず天使の様に綺麗な顔をして、恵美の視線に気づくとうれしそうに微笑んだ。

「どうしたの?」

「……佐藤はもてるのに、なんで私がいいの?」

「恵美だってもてるじゃん。知ってるよ、靴箱とか机の中にラブレター入れられてるの」

「そんなんじゃなくって、佐藤はそれだけ綺麗だし、おうちはお金持ちだし、御曹司だし……」

「それのいずれかが目当てな女ばっかり。僕の見かけに変な幻想抱いている女には興味ないね」

 貴明は冷たく言い捨てて、恵美の手をポケットの中で強く握りしめてきた。

「でも恵美は違った。恵美は僕を僕として見てくれてる」

 いつのまにか、二人は雪化粧した街を見下ろせる丘に立っていた。灰色の雲が厚くたれ込めている空とは対照的に、雪は真っ白な汚れなき清らかさで街を幻想的に見せている。いつになくモノトーンな色彩は、冬独特の物悲しさを漂わせていた。

「そんなの分からないよ。私、佐藤の事何にも知らないもん」

「恵美は僕をもう分かってる」

「あんたは私を知らないよ」

「貴明」

「え?」

 恵美の顎を指先でやさしく捕らえ、貴明が恵美の顔を覗き込んだ。

「あんたでもなく、佐藤でもなく、『貴明』って呼んでよ」

「呼ばない、彼氏じゃないもん」

「でももう僕の事好きだろ? だってそんなに顔を赤くして、ドキドキしてる」

「え? 寒いからよ」

「じゃあ温かくしてあげる……」

 とっさに恵美は貴明を押しのけて、ペンションの方向へ走り出した。後ろから貴明が追いかけて来る音がしたので、恵美は負けまいと懸命に走る。

(やだよ、佐藤の腕の中はどきどきするから!)

 貴明の温度は、恵美の心の中にずっと住んでいた正人を追い出そうとするのだ。 

 触れられるたびに貴明で一杯になりそうな、自分の心が怖い。

「つっかまえたっと♪」

 ペンションへ逃げ込み、後もう少しで自分の部屋に入れると思った時に、恵美は貴明に捕まってしまいその腕に抱き込まれてしまった。もっとも、貴明は直ぐに恵美に追いついて、恵美の後ろを走るのを楽しんでいたのだが。 

「やだってば」

 貴明の泊まっている部屋にまた連れ込まれてしまい、恵美は緩んだ貴明の腕から部屋の隅へ逃げた。

「逃げなくったって、とって食いやしないって」

「うそばっかり! キスしたり、変なとこ触るじゃない」

 恵美はカーテンに隠れ、顔だけを覗かせて貴明を睨む。それが子猫のような可愛さで、貴明はおかしくなって吹き出した。

「出て来なって、なんにもしないから」

「あんたが出てったら出るわよ」

「ここ僕の部屋なんだよ」

「…………」

「恵美?」

「…………」

「どうしたの?」

 勝ち気な恵美なら、まだ何か言って来るだろうと貴明は思っていて、いきなり何も言わなくなった恵美を不思議に思った。しばらく経ってから恵美が言ったのは、貴明を動揺させる言葉だった。

「もう……やだ。家に帰りたい」

「そんな、子供みたいに……」

「私、正人がいないと何にもできない。正人に会いたいよ」

「ばか、あいつは他に好きな女がいるんだぞ? お前がひっついてたらその女と正人がつきあえないじゃないか」

 あきれたように貴明に言われ、恵美はカーテンに潜り込んだ。それがなんだか巨大なてるてる坊主の様で貴明は再び吹き出した。

「お前、そんなことしてたら、そりゃあ妹って言われるよ」

「っさい! ばか佐藤! ううう…………っ」

 恵美は今頃になって失恋の悲しさがぐわっと胸に込み上げてきて、カーテンの中で泣き出した。

「私なんかっ……、どーせ、ちびすぎて妹にしかなれないわよおっ! 正人のバカあ!!」

 わあわあ泣き出した恵美の声が廊下にも聞こえたらしく、くれはが部屋にノックをして入ってきた。

「貴明様いけませんでしょう? 何なさったんです?」

「や、ちょっとからかったつもりが……」

 大泣きされるとは思っていなかった貴明は、めずらしくおろおろしている。くれはに部屋を追い出され、貴明は盛大なため息をついた。

 そのまま階段を降りて食堂に入り、貴明は朝食を作っている圭一の隣に立った。

「おはよう」

「おはようございます、貴明様」

「なんかする事ある?」

 貴明は15歳から学校の寄宿舎を出て一人暮らしをしていたので、料理はお手の物だった。圭一とは実家にいた時からの付き合いなので、圭一も貴明が厨房に入ってくるのを咎めない。

「そうですね、オムレツを作ろうかと思っていたのですが」

「じゃあ作る」

 冷蔵庫から卵を取り出し、野菜サラダを作っている圭一の隣で貴明は手際よく卵をポンポンと割っていった。

「……圭一さんはさ、どーやってくれはさんをおとしたわけ?」

「さっそく失恋なさいましたか?」

「してないけど、苦労してる」

 貴明はボールに入った卵液を泡立て器でかき混ぜた。圭一はガラスの器に綺麗に野菜を盛り付けていきながら、おやおやと肩をすくめる。ぶすっとしながら貴明はフライパンにガスの火をつけた。

「貴明様なら、どんな女の子でもすぐに夢中になると思ってたんですがねえ」

「んなわけないだろ」

 熱くなったフライパンに油を敷いて卵液を流し込み、あっという間に貴明はふわふわのプレーンオムレツを作った。次々に新しいオムレツを作っていく貴明に圭一が言った。

「恋も料理も、火加減が肝心ですよ。熱すぎるとこげますし、あやふやだといつまでたってもふくらみませんしね」

「…………」

 朝食ができあがる頃、くれはが恥ずかしそうにしている恵美を連れて食堂へ入ってきた。

 恵美からすべてを聞き出したくれはは、

『貴明様は潔癖症で女性経験はおありでないんですよ、当然、女の子の扱いがお上手でないから、その辺りは大目に見て差し上げてくださいませんか? 根はとても繊細で傷つきやすい方ので、嫌いでないのなら普通に接していればいいんですよ。ただ、あんまりな時ははっきりと言ったほうがいいです』

 と、アドバイスをくれた。

 だがそれは恵美だって同じだ。男の子と付き合ったことなどない。

 つまり、まったくの初心者同士なので、ぶつかり合いは仕方ないのだろう。

 そういう経緯から、帰りの車の中で、恵美はなるべく普通の態度で普通の話をした。すると貴明もそれに乗ってくれたのでホッとした。雪は道にはほとんど残っていなかったので、安定したドライブだった。

 そんなこんなで恵美の家に着いたのだが、恵美の家の前の空き地に車を止めた貴明が言った。

「あれ? お前んち、車がないぞ?」

「……ほんとだ。お母さん、今の時間帯は必ずいるのにおかしいな。ま、そのうち帰ってくるだろうからお茶でも飲んでく?」

「うん」

 家の中はしんとしている。恵美はそれが嫌で家中の照明をつけながら歩いた。そしてキッチンに入った時に、テーブルにある置き手紙を見つけた。

『まさちゃんのご両親の代わりにお父さんと旅行に行ってきます。二日留守にするけど、よろしくね 父母より』

 巨大なハートマークが書かれている。あの夫婦はいつまだ経っても妙に子供っぽい。

「あの、おちゃらけ夫婦がっ!」

 恵美は怒りながら手紙をテーブルに戻し、洗面台に行って手を洗った。

 幼い頃から唐突に旅行に行く事はざらで、恵美の予定など無視して同行させられる事は常だった。その事で文句を言うと、今度は恵美を置いて二人で行く様になってしまった。

 台所へ戻ると、貴明がその手紙を読んでいた。ぶつくさ文句を言う恵美にふんふん返事をしながら貴明は手紙をテーブルに置き、その次に何か良い提案が浮かんだように手を叩いた。

「そうだっ! 恵美一人で夜危険だから、僕が泊まってあげるよ!」

「はあっ!?」

 一番危険なのはあんたでしょと、恵美は焦る。強引にキスしたり身体に触れて来る貴明と、誰もいない家に二人きりなんて何をされるかわかったものではない。

 困るのだ。

 本当に困るのだ。

「楽しみだね、今夜」

 

 半場呆然としている恵美に、貴明が意地悪気に微笑みかけるのだった。

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