天の園 地の楽園 第1部 第08話

 正人は恵美と一緒に家の中に入った途端、安心したように息を吐いた。
「やっとお前らがくっついたから一安心だよ」
「なにそれ? 佐藤はともかく私の気持ちは無視なわけ?」
 お互い靴を脱いで狭い廊下を歩く。胸はもうあまり痛まないが、恵美は正人が好きだったのだから普通に言われるとなんだか腹が立ってしまう。正人は膨れっ面をしている恵美の頭をぐしゃぐしゃにした。
「痛いってば!」
「ごめんな。なんとなくお前らがくっついたらいいなーって、ずっと思っててさ」
「くっついたわよ? 満足でしょ!」
「ああ」
 正人はにっこり笑い、キッチンのテーブルに置かれたままになっている食器を片付け始めた。恵美は小さくため息をついて階段を上がり、二階の客間に敷かれて整えられていた布団からシーツを剥がした。当分貴明は来ないだろうから洗濯した方がいいだろう。
(妹……か)
 そうだったのかもしれないと恵美は思う。正人といると心が穏やかで温かになり、とても安心する。 
 反対に貴明に触れられると、これ以上はないぐらいドキドキして身体中が熱くなる。
 恋とそうでないものとの差なのだろうか。それとも貴明に恋したせいでドキドキしなくなっただけなのだろうか。恋愛にもともと疎い恵美にはわからなかった。
 シーツを洗濯機に放り込んだ恵美は、洗い上がる前に掃除を全てしてしまう事にした。居間で掃除機をかけている恵美に正人がキッチンで皿を拭きながら言った。
「おばさん達遅くねえ?」
「そーね。雪で道が混んでるのかも……、あ、電話だ」
 噂をしていたから本人からかもと正人に笑いかけながら掃除機を止め、恵美は電話の受話器を取った。


「ごめんなさい! ごめんなさいね、恵美ちゃん。私たちが旅行に行っていたら……」
 ハンカチで顔を押さえながら正人の母が恵美に何回も謝る。ハンカチは涙でぐっしょり濡れていて、もう役に立っていない。泣いている正人の母の肩を抱いて、正人の父も沈痛な面持ちで恵美に謝りながら頭を下げた。
 恵美は夢の中をふわふわ歩いているような感じがしていた。病院から電話があって内容を聞いた時も、自分が何かの膜に包まれたかのようにひどく音が聞きづらかった。ぼうっとしている恵美から受話器を奪うように取り、正人が応対している時も。そして正人の父が運転している車に乗って病院へ向かっている時も。
 病院の地下にある霊安室。
 白い壁のそこは、地下だというのに照明を反射してひどく明るい。
 二つベッドがあり、そこに一人づつ寝かせられている。顔には白い布が被せられていて、ベッドの間に置いてある小さなテーブルに菊の花が供えられていた。
 突っ立っている恵美を椅子に座らせて、正人が恵美の目に見えない角度で顔にかけられている布をはがそうとするのを、正人の父が止めた。
「相手側の車が信号無視で即死だったそうだ。相手はスポーツカーで、軽自動車だった二人の車は見る影も無い……」
 正人は父親に振り返った。沈痛な面持ちの顔には脂汗が浮いている。
「……先に火葬してもらった方が良い。いいね? 恵美ちゃん」
 ぼんやりとしたまま恵美は顔を上げた。正人がその恵美をぎゅっと抱きしめる。
 正人の父親は、ぐっと両拳を握りしめた。
「こんなこと……言いたくないんだけどな。二人とも……顔が無いんだよ」
「うそ!」
「見るな! ここは俺の親父たちの言うことを聞け!」  正人に押しとどめられ、恵美はそれでも見ようともがいたが、渾身の力で止められてできなかった。それほど残酷な姿なのだろう。
「二人だって、恵美ちゃんには優しい笑顔で記憶に残してほしいはずだよ……。だから、このまま」
 正人の母親が涙を何度も拭いながら言う。
 そこで恵美は気を失った。

 お母さん。
 お父さん。
 恵美は三人で仲良く暮らしていたあの生活が、永遠に続くのだと信じていた。あまりにも当たり前すぎて、消えてなくなるなど考えた事もなかった。
 葬儀場が予約で一杯だった為恵美は自宅で葬式をしていた……。
 小さな桐の箱に入って絹の袋で包まれている両親を、恵美は斜め横から眺めた。その上を、穏やかに微笑んでいる両親の写真が見下ろしている。
 さきほどから読経が続いている。
 恵美は喪主を務めている。両親は友人が多く、通夜の時から弔問客が後を絶たなかった。親戚や近所の人々が黒い喪服を着て、一人一人焼香していく。
 静かな式の中、どかどかと廊下を踏みならす音がした。
「邪魔するよ」
 葬式には似合わない、派手な色のスーツを着た赤毛の男と金に髪を染めた男が現れた。ただ事ならぬ雰囲気に僧の読経がやんだ。
「小川恵美ってのはお前だな」
 赤毛の男が土足のまま畳の上を歩き、正座している恵美を見下ろした。恵美は怯えながらもうなずく。
「葬式の途中で悪いけどな、お前の父さんが連帯保証人となっていた借金の徴収に来たんだ」
「……連帯?」
「そうだ、これが証書だ」
 ぴらぴらとしたそれを、赤毛の男が恵美に突きつけた。確かに父の名前が書かれている。
「三千九百万円あるんだが、貸した奴が夜逃げしやがってな。それで連帯保証人のこっちに来たってわけだ」
「……そんな」
「まさか、返せねえって言うんじゃないだろうな? うちの坊ちゃんを車で殺した親の娘が!」
「え?」
 正人が恵美を庇うように男たちの前に立ちはだかった。
「やめろよこんな場所で。せめて葬式が終わるまで待ったらどうだ?」
「うるせえ! ガキは引っ込んでな!」
 金髪の方が正人を殴った。
 正人が祭壇に倒れ、花や飾りが畳に散らばった。
 親戚の者たちが非難の声をあげると、二人は凄んだ。
「なんだあ? じゃあてめえらが借金と慰謝料を支払うのか? 合わせて一億円をよ!」
 しんと部屋の中が静まりかえる。正人が立ち上がって何かを言おうとすると、恵美が押しとどめた。
「わかりました。お支払いしますので、申し訳ありませんが隣の部屋でお待ち願えますか? もうすぐ式も終わりますので」
「物わかりのいいお嬢ちゃんは好きだよ。俺たちも金さえ支払ってもらえたらいいんだ。だけど警察を呼ぼうとか、弁護士を呼ぼうとか考えるんじゃねえぞ? そんな事をしたらお前らの家に押し掛けるからな!」
 脅すように言って二人は引き揚げていった。正人は祭壇を恵美と直しながら、小声で警察に言った方がいいと言ったが、恵美は顔を横に振った。葬式に来てくれた人たちに迷惑をかけたくなかった。
 やがてまだ読経が始まった。恵美の顔は白く凍り付いている……。

 それから十日過ぎた。恵美はわけあって正人の家に住んでいる。
 夜、和室の布団の上で恵美がぼんやりしているところへ、正人が障子を開けて入って来て布団の脇にあぐらをかいて座った。
「恵美、やっぱり今からでも警察に行った方がいい。借金なんて相続放棄したらいいんだ、裁判起こされて困るのはあっちなんだからな。それに慰謝料なんておかどちがいもいいところなんだぜ! あのやくざの馬鹿息子の信号無視のせいであの事故が起こったってのに」
「……でもたぶんあの人たち、今度は正人たちや、ほかの親戚の人たちのところへ行くに決まってるよ。私、そんなの嫌」
「恵美が理不尽な目に遭ってる方が余程嫌なんだよ! なんでお前が無一文にならないといけないんだ」
 恵美は読んでいた本をテーブルの上に置いて、布団の上で座り直した。
「いいのよ。私は特待生だから大学も学費はタダだったし。バイトすればなんとか生活できるわ」
「おふくろさんたちの生命保険も、お前の為に貯めてあった貯金も、あの家も、土地も、皆無くなったっていうのに、なんで平気なんだよ!」
 すべてをかき集めてやっと九千七百万円だった。あのやくざたちは少し足りないがそれでもいいと言って証書を返してくれ、領収書を切った。
「もう過ぎた事よ。これくらいですんで良かったのよ。私が嫌だって言ったら、騒ぎがひどくなってもっと収拾がつかなくなったわ」
 納得がいかない正人は派手に舌打ちした。
「まったく! お前の親戚どもも頭に来るぜ。初七日にも俺たち以外誰も来やしねえし。まるでお前の事を厄介者扱いじゃないか」
「……実際、厄介者だよ」
「恵美……」
 淡々と言う恵美を正人は痛ましそうに見つめた。恵美はあの事故の日以来表情を無くしてしまった。思い切り泣けばいいのに一回も泣いていない。
 恵美の家は、初七日を過ぎるのと同時に取り壊されてしまい更地になった。白い雪だけがそこに積もっていて、まるで最初から何も無かったように思われるのが正人は辛い。彼にとってもあの家は思い出深い家なのだ。
「県外の大学にしておいて良かった。アパートはなんとか正人のご両親が保証人になってくれたし、なんとか暮らしていけそうよ。おじさんとおばさんから借りたお金は必ず返すからね」
「馬鹿かよお前は! なんでお前がこんな辛い目に遭わないといけないんだよ。もっとわがままに怒れよお前も! なんでそんな…………」
 正人は恵美を引き寄せ、思い切り抱きしめた。妹のように思う恵美が笑わなくなってとても辛い。

 翌日、雪がちらほら舞い散る中、恵美は近所の公園のあの大木の幹にもたれていた。公園の小さな広場では子供たちが雪だるまを作ったり雪合戦をしている。夕闇が公園を包み出す頃子供たちは親が迎えに来て、一人、二人、減っていき、やがて恵美一人になった。
 子供の頃、夕方になると房枝が必ず迎えに来てくれた。寒さで凍えた自分を抱きしめる母の胸はとても温かで、とても幸福な気分になった。
 だが、もうあの母はこの世にはいない……。
 恵美の手には、房枝が恵美に買ってくれていた、星の形の銀のストラップが付いているキーホルダーがあった。包装されていた袋は房枝の血で汚れていたが、キーホルダーは綺麗なままだった。おそらくは家に帰ると同時に恵美に渡そうとして持っていたのだろう、房枝はその袋を両手で握りしめていたのだという。
 ちりん……と、キーホルダーについている小さな鈴が鳴った。
「恵美……」
 雪を踏みしめる黒いブーツは見覚えがある。視線を上げると夕闇に紛れて明るいものが目に入った。
「……貴明」
 貴明は全てを知っているのだろう。痛ましそうな中にも笑顔を湛えて恵美に両腕を広げた。
「もう大丈夫だよ、……僕がいるから」
「貴明っ!」
 恵美はその腕の中に飛び込んだ。貴明は恵美の黒髪を何度も撫でてくれた。
「全然連絡がないから心配してた。恵美……」
「貴明……貴明……」
「一番辛い時に居てやれなくてごめん……。正人に怒られたよ」
 貴明の腕の中で恵美は首を横に振った。貴明はイギリスに仕事で行っていたのだから仕方が無い。細かく震えている恵美の身体を励ますように、何度も貴明の大きな手が撫でてくれる
「住むところとかお金とか、何か心配な事は無い? 房枝さんたちの代わりに僕が恵美を幸せにしたいんだ」
「……い」
「え?」
「なんにも……いらない」
 涙が白い頬を伝っていく。恵美は今ようやく泣いていた。
 貴明がハンカチを取り出して、恵美の頬に優しく押し当ててくれるのが嬉しい。
「……貴明が……そばに居てくれたら、それだけでいいの……」
 幼子のように恵美は貴明を見上げた。だが次から次へと溢れてくる涙で目が霞み、恋人の顔がよく見えない。
 唇にやさしいキスが降ってくる。
「そうだよ、僕がいるよ……」
「うん……」
 泣いている恵美の姿を遠く離れたところで正人が見ている。貴明が手を少しだけあげると正人も手をあげ返して微笑み、二人を残して家へ帰っていった。
 その日の晩、恵美は貴明の手を握りしめながら、やっと安心して眠った。